北朝鮮 カメラがとらえた「三池淵楽団」

 1月15日、板門店(パンムンジョム)の軍事境界線北側にある「統一閣」で、平昌(ピョンチャン)五輪への北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の芸術団派遣について南北局長級実務協議が開かれた。北朝鮮が「三池淵(サムジヨン)管弦楽団」の約140人を派遣することが決まった。

三池淵楽団軍服

三池淵最高指導者

三池淵楽団ミサイル
三池淵楽団(3枚とも2017年8月15日撮影)

 この楽団についてテレビのさまざまな番組で報じられているが、誤った内容があまりにも多い。私は昨年8月15日に平壌(ピョンヤン)市内において、公演のすべてを写真とビデオで撮影した。

 テレビで「北朝鮮通」のコメンテーターたちが自信ありげに、この楽団はクラシック演奏が中心なので「モランボン楽団」よりも政治色がないように語っているが決してそのようなことはない。楽器の編成や演出が異なるだけである。

 昨年8月の公演では、金日成(キム・イルソン)主席、その妻の金正淑(キム・ジョンスク)女史、金正日(キム・ジョンイル)総書記、そして金正恩(キム・ジョンウン)委員長の映像がスクリーンに次々と登場。2発の弾道ミサイルの発射時の映像も流れた。また楽団員は、チマ・チョゴリの民族衣装だけでなく軍服姿でも登場している。ディズニー映画の音楽を演奏したことがあるのは「モランボン楽団」であるにもかかわらず、「三池淵楽団」だと流した局もある。

 北朝鮮についての報道は、間違っていても不正確であっても抗議や告訴を受けないため、いい加減な確認作業をしただけの言いたい放題になっている。マスメディアはそのことに長らく甘んじてきたが、それは報道のあり方そのものを歪めてしまっていることに気づいていない。

北朝鮮の五輪参加を素直に喜ぼうとしない日本

 1月9日に板門店(パンムンジョム)において開催された南北高官級協議で、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は平昌(ピョンチャン)冬季五輪に政府高官・選手団・応援団・芸術団・参観団などを派遣すると発表した。

板門店
会談は板門店の韓国側施設「平和の家」(右奥)で行われた(2016年2月23日撮影)

 米国のゴールドスティーン国務次官(広報外交担当)は「朝鮮半島の緊張緩和をもたらすことは、どのようなものでも前向きな動き」と述べた。米国政府はおおむね歓迎している。

 いつ米国による北朝鮮への軍事攻撃があるかも知れない状況の中で、「五輪停戦」によって冷却期間を持つことは重要だ。

 ところが日本のマスメディアは韓国が北朝鮮の申し出を受け入れたことを、北朝鮮の手玉に取られていると批判したり、五輪から南北対話が進むことを警戒したりする意見を盛んに流している。そもそも北朝鮮の五輪参加は、韓国が熱心に北朝鮮へ働きかけてきたことだ。韓国人の76.7パーセントが、北朝鮮の五輪参加に賛成している。

 あるテレビ局の情報番組のコメンテーターは、北朝鮮から多くの人が韓国へ入国しても安全なのかと語った。つまり、テロをする危険性があるのではというのだ。北朝鮮で暮らしている人は、何をするかも知れないと思っているのだろう。これほど無知で非常識な発言をしても、テレビで流れるとそれは確実に影響を与える。

 菅義偉官房長官は10日、北朝鮮の融和姿勢には日米韓の北朝鮮包囲網を崩そうとの思惑があると語った。日本政府は、対話のための対話になってはならないと繰り返す。こうした北朝鮮の五輪参加に懐疑的な姿勢は、日本は韓国どころか米国よりも徹底的にバッシングしてきたからだ。喧嘩をしてきた隣人たちが仲良くしようとしていることを素直に喜べないほど、日本はいびつな国になってしまった。

五輪南北交流でトランプ政権は北朝鮮との対話へ進むか

 1月1日の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正恩(キム・ジョンウン)委員長による「新年の辞」によって、南北関係が一気に緊張緩和へ向けて動き始めている。

祖国統一3大憲章記念塔
平壌(ピョンヤン)市に建つ南北統一のための文書を記念した「祖国統一3大憲章記念塔」(2012年4月11日撮影)

 「新年の辞」は「アメリカ本土全域がわれわれの核打撃射程圏にあり、核ボタンが常に私の事務室の机の上に置かれているということ、これは決して威嚇ではなく、現実であることをはっきり知るべきです」と米国に対しては強い姿勢を示した。

 その一方で韓国に対しては次のように述べた。「今年は、朝鮮人民が共和国創建70周年を大慶事として記念し、南朝鮮では冬期オリンピック競技大会が開催されることにより、北と南にとってともに意義のある年です。(略)われわれは代表団の派遣を含めて必要な措置を講じる用意があり、そのために北と南の当局が至急会うこともできるでしょう」。そして3日には、南北の直通電話が約2年ぶりに再開された。

 現在、米国・トランプ政権による北朝鮮への軍事攻撃がいつ行われるか分からないという状況にある。だがこのオリンピックでの南北交流は、その危険な状況を一気に転換させる可能性がある。南北関係の改善が進めば、トランプ大統領は北朝鮮への軍事攻撃を断念し対話に転じるしか選択肢はなくなるのだ。

 ただ不安要素はある。米国メディアは、北朝鮮が数日以内に人工衛星打上げロケットを発射する可能性を報じている。北朝鮮はこのロケットと弾道ミサイルを明確に区別している。昨年8月には、国際行事への海外からの参加者約200人に対し、「国家宇宙開発局」の技術者たちによる詳細な説明会を「科学技術殿堂」で開催している。

 だが、北朝鮮に弾道ミサイル計画に関わる全ての活動停止を要求する「国連安保理決議1695」は、この人工衛星打上げロケットをその対象に含めている。北朝鮮が自らの主張を通すために、南北の緊張緩和へ向かいつつある状況の中であっても打ち上げる可能性はある。もしそうなった場合、韓国・文在寅(ムン・ジェイン)政権が米国と日本からの圧力に耐えて、オリンピックでの南北交流を推進できるかどうかである。

朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(下)

「週刊金曜日」2017年12月8日号に掲載した記事を、2回に分けて紹介する。

大国に翻弄され続けた最後の朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(84歳) (下)
望むは日本での両親の墓参


咸興市内
現在の咸興市は、植民地支配時の咸興府と興南府が合併したもので、当時は合計数万人の日本人が居住(2017年8月7日撮影)

●「リ・ユグム」として
 「私の足が自然に向いたのは、ソ連兵がヒマワリの種の殻を口から飛ばしていた場所でした。そこにずっと立っていたら、家に泊めてくれた朝鮮人のおじさんと出会うことができたんです」
 男性は琉璃子を心配して捜しにきたのだ。「何も食べていないのだろう」とパンを買ってくれた。そして「私の家へ戻ろう」と言った。琉璃子は、その言葉に素直に従った。秀男の消息は気になるが、生母はすでに亡くなり父の生死は分からない・・・。日本で暮らしたことのない瑠璃子は、「祖国・日本」を何としてでも目指そうという気持ちにならなかったのだろう。何よりも、日本から主権を取り戻して勢いのある朝鮮人社会にいきなり放り出されたのだ。日本人少女には、他に選択肢はなかった。
 琉璃子は朝鮮語をわずか2カ月で習得し、「リ・ユグム」としてたくましく生き始める。「荒井琉璃子」の名を使うことは、この時からまったくなかった。
 ところが数カ月したころ、世話になっている男性の一家が故郷へ戻らなければならなくなる。「一緒に行かないか」と言われたが、琉璃子は弟と別れた咸興を離れたくなかった。「ここにいれば再会できるかも知れない」と思い、頑強に拒む。

荒井さんと養母家族
琉璃子(前列中央)が、結婚後の1960年代に養母のキム・コブンスン(前列左)らと撮った写真。

 この男性が仲良くしている隣家の女性には、子どもが2人いたが息子だけだった。「私はこういう可愛い娘が欲しい」と言うほど琉璃子をすっかり気に入っていた。こうして、このキム・コブンスンさんとの新しい生活が始まる。

●正式帰国の機会を逃す
 46年6月、「連合国軍総司令部」と「対日理事会」ソ連代表が、ソ連軍占領下の日本人送還について会談を始める。その結果、朝鮮半島北側からの正式引き揚げが決まった。しかしこの時すでに、北側に留め置かれた日本人の97%が、北緯38度線を大変な思いをして越えて帰国していた。残る日本人は、8000余人しかいなかった。
 この年の12月18日 に最初の引き揚げ船「栄豊丸」が元山を出港。2年後の7月4日の「宗谷丸」が最後の船となった。朝鮮半島北側を管理していたソ連は、9月9日の朝鮮民主主義人民共和国の建国前に日本人の引き揚げを完了させようとしたのだ。この正式引き揚げは、希望者を対象にしたものではなかった。朝鮮への残留を望んでも、強制的に帰された。例外は朝鮮人と結婚した日本人女性だけである。
 この時は未婚だった琉璃子は、この正式引き揚げの対象だが帰国していない。
その大きな疑問を琉璃子にぶつけてみると、困ったような表情になった。そして少し考えてから「どこからも連絡はまったくなかったんです」というのだ。
 すると、近くで聞いていた咸鏡南道人民委員会の担当者が説明をしてくれた。琉璃子は朝鮮人家庭に身を寄せていたため、解放直後の混乱した状況によって引き揚げ情報が届かなかったというのである。琉璃子は、二度目の帰国の機会を逃してしまった。

●焼けた日本人の証
 50年6月25日に始まった朝鮮戦争は、53年7月27日 に休戦。翌年1月に「日本赤十字社」は「朝鮮赤十字会」に、残留日本人の安否確認を依頼した。それに対して「残留日本人の中に帰国希望者がいれば、喜んで帰国を援助する」との回答がある。こうして、残留日本人の集団帰国が合意された。56年4月22日、残留日本人36人を乗せた「こじま丸」が舞鶴港へ到着した。
 この時点でも未婚だった琉璃子は、この船で帰国できたはずだ。そうしなかった理由についても琉璃子に聞くと「知らなかったんです。連絡がありませんでした」とあっさりと言う。このことについても、人民委員会の担当者が説明した。
 「朝鮮戦争の時、咸鏡南道は米軍の野蛮な爆撃によって建物はすべて破壊されました。住民登録名簿も焼失し、戦争後に新しく作成しています。この時、リ・ユグムさんは朝鮮名で登録しました」
 琉璃子は日本名も一緒に登録しなかったため、日本人であることの証が行政機関に何もなかったのだ。瑠璃子が、3回の帰国の機会を逃した理由がこれでわかった。
 「住民登録を朝鮮名にしているため、探し出せない残留日本人が間違いなくいる」とこの担当者は断言する。死と向き合いながらの逃避行の中で、育てられないと判断してわが子を朝鮮人に託した親もいる。その子どもは、自分が日本人であることを知らずにいるのだろう。中国東北地方と同じことがこの朝鮮半島北側でもあり、多くの日本人の子どもが残留した。
 <今も北朝鮮にとどまっている可能性がある日本人が少なくとも1442人に上ることが(97年10月)2日、厚生省の調査で分かった。(略)内訳は、男性1000人弱、女性が約400人で、このうち約500人が軍人や軍属。残り約900人は旧満州の開拓などに従事した人やその家族。約900人のうち孤児とみなされる年齢に相当する終戦当時13歳未満の人は約200人いると推定される。1442人のうちの67人については『未帰還者』として親族が継続して消息確認を厚生省に求めているが、1375人は親族の同意を得た上、法律的には『死亡した』とみなされる戦時死亡宣告を受けた>(『東京新聞』97年10月3日付)
 今回、「厚生労働省社会・援護局」に問い合わせたところ、朝鮮からの未帰還者数は14年現在で1440人、戸籍上で生存となっているのは35人との回答。未帰還者数は20年前とほぼ同じだが、親族が生存を信じて消息確認を求めている数は半減した。
 14年5月の「日朝ストックホルム合意」にもとづき、朝鮮は「特別調査委員会」を設置。そこが実施した日本人調査で、残留日本人8人が健在であることを確認した。咸鏡北道清津(チョンジン)市で暮らし、日本の家族が5回にわたって訪問した丸山節子は15年1月に86歳で死亡。今年6月には、残留日本人は琉璃子しかいないと公表されており、他の人たちは短期間に次々と亡くなったようだ。

●「愛に国境はない」
 琉璃子は義務教育の「高等中学校」を卒業した後、28歳から定年退職するまで絹の織物工場に勤める。結婚したのは60年7月。相手は、咸興駅に勤務する鉄道員のトン・ビョンフル。鉄道で働いていた養母の妹から紹介された。琉璃子は奇しくも、父と同じ職業の男性と結婚することになった。
 「夫は、日本人との結婚をどう思っていたのだろうか」と尋ねると、少し考え込んだ。そして、それまでみせなかった満面の笑みで語る。
 「とにかく私を愛してくれました。愛には国境はないのよ」
その夫は、80年に亡くなってしまった。現在、琉璃子がアパートで一緒に暮らすのは、息子と孫のトン・ウンスクとその夫、そしてひ孫の合わせて5人。

荒井さんと孫
琉璃子と孫のトン・ウンスク(2017年8月8日撮影)

 29歳の孫に、学校で先生から日本の植民地支配について教えられた時の気持ちを聞いてみた。
 「先生の話を聞いて、日本への怒りが湧きました。でもお祖母さんには、学校で習ったということは黙っていました」
琉璃子は、日本で暮らす肉親の住所を持っていたので手紙を送ってみた。すると、秀男だけでなく長男と長女からも返事がくる。それによって、秀男だけでなく徴兵された父と継母も日本へ戻っていることがわかった。すでに亡くなっていた父は、朝鮮に残した琉璃子を探そうとしていたという。
 長男からは会うための方法を聞いてきたが訪朝は実現せず、琉璃子がとりわけ会いたかった秀男は亡くなってしまう。その後、日本との連絡は途絶えてしまい、もはや顔を知る肉親は一人もいないと思われる。「さびしいです」と琉璃子はつぶやいた。

●日本人妻との交流
 琉璃子は、昨年11月15日に結成した「咸興にじの会」の会長をしている。会員11人は、残留日本人の琉璃子のほかは日本人妻である。日朝友好の懸け橋になりたいとして「にじの会」と名づけた。私は、日本人による団体が朝鮮にあることを知った時には本当に驚いた。しかもそれが、首都ではなく地方都市の咸興にあるのだ。
 59年12月に在日朝鮮人の帰還事業が始まり、9万3340人が祖国へ帰国。その際、在日朝鮮人の男性と結婚していた日本人妻1831人と子どもを合わせた6679人の日本人が朝鮮へと渡った。
 そうして咸興へやって来た一人の日本人妻が、琉璃子の働く織物工場へ就職した。
 「私は日本人であることを公にしていなかったのに、そのおばさんが私のことを知って訪ねて来たんです」
こうして、琉璃子と日本人妻たちとの強い絆ができた。人民委員会の担当者が、咸鏡南道で暮らす日本人について説明してくれた。
 「昔は残留日本人24人、日本人妻とその子どもが309人いました。現在は、残留日本人は荒井さん一人で、日本人妻は38人です」
 私はこの担当者に「日朝関係が悪いので朝鮮で暮らす日本人への差別はないのか」と聞くと「差別どころか、むしろ優遇しています。彼らの朝鮮へ報いたいという美しい心を高く評価し『にじの会』へ事務所と自動車を提供しています」との答えだった。私はそれを聞き、朝鮮の日本人たちは社会から後ろ指を差されないよう懸命な努力してきたのではないかと思う。「にじの会」は今、建設現場に支援物資を送る活動を積極的にしている。
 琉璃子や日本人妻たちの里帰りについてこの担当者に聞くと、「私が国を代表して言うことはできませんが、日本政府の対応次第でこの問題は解決するでしょう」と答えた。

●被害者であり加害者
 日本へ帰国する機会を次々と逃し、朝鮮へ残留することになった琉璃子。その人生を自分ではどのように捉えているのか聞いた。
 「私は今、思い切り幸せに暮らしているので、この社会で暮らすことができて良かったと思っています。後悔はしていません」
 そう言わざるを得なかったのではなく、この言葉は本心から出ていると私は思う。朝鮮人に助けられ、朝鮮社会へ懸命に溶け込んで今の家族を築いた。決して豊かではなくても、今のこの生活を何よりも大切にしようとしているのだ。次に「日本をどのように思っているのか」と、琉璃子にあえて抽象的な質問をしてみた。
 「(植民地の時に)日本がやったことを振り返ると、朝鮮人を大量に殺し、悪いことをたくさんしている。それを思うと、日本人でありながら日本が嫌になります」
 琉璃子はそう言うと「そうでしょ?」と私に聞き返してきた。残留日本人の琉璃子は、日本による朝鮮植民地支配の被害者であると同時に加害者でもあることを痛感しているようだ。
 「日朝ストックホルム合意」による「特別調査委員会」は、瑠璃子のところへも調査に来た。
 「日本へ行きたいのか聞かれたので『父さんと母さんの墓参りに行きたい』と伝えました。日本政府は、朝鮮への敵視政策を早くやめてほしい。日本が朝鮮と近い国になることを願うだけです。そうすれば、故郷を訪問して墓参りもできるからです。私には、先はもうあまりないですから・・・」
 日本では、拉致問題が明らかになってからは、日本人埋葬地への墓参や残留日本人・日本人妻の里帰りという人道的なことを進めるのが間違いであるかのような空気になった。朝鮮に残留日本人が今も暮らすのは、日本による植民地支配の結果だ。日本政府には、そうした人を里帰りさせる義務があるだろう。琉璃子が健在なうちに、その願いを何とか実現させてあげたいと私は思う。
 日本・ソ連・米国という大国によって翻弄されてきた朝鮮。その激動の歴史の中で、波乱に満ちた人生を歩むことになった荒井瑠璃子。私は4日間にわたるインタビューの最後に「両親の墓参りに行くことができるよう、長生きして欲しい」と言った。すると琉璃子は笑みを浮かべながら、しっかりとした日本語で「ありがとう」と答えた。 (文中敬称略)

朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(上)

 「週刊金曜日」2017年12月8日号に掲載した記事を、2回に分けて紹介する。

大国に翻弄され続けた最後の朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(84歳) (上)
望むは日本での両親の墓参

84年間も朝鮮半島で暮らしてきた日本人女性が、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の地方都市にいる。いまや、確認できる唯一の朝鮮残留日本人である。記録されることもなく消え去ろうとしていたその歴史を、ロングインタビューで掘り起こした。

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咸興市内を貫く城川江(ソンチョンガン)に架かる「万歳(マンセ)橋」。その上流側には、植民地支配時の橋脚が今も残る(2017年8月7日撮影)

 私を乗せた車は、小高い丘の上に建つ真新しい金日成(キム・イルソン)主席と金正日(キム・ジョンイル)総書記の銅像の前を通り過ぎる。表通りから舗装が悪い路地へ入り、少し古い5階建てのアパートの前で止まる。階段で3階まで上がり玄関で呼びかけると、年老いた女性が奥から出てきた。ここは、平壌(ピョンヤン)市から車で約5時間の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市。
 日本による植民地支配や侵略の結果、アジア太平洋の国々に多くの日本人が残った。その中で朝鮮に残留する日本人については、まったく実態がわからなかった。ところが今年4月、宋日昊(ソン・イルホ)・朝日国交正常化交渉担当大使が一人の残留日本人の存在を明らかにし、取材を認めた。
 荒井琉璃子84歳。朝鮮名は「リ・ユグム」という。日本語はほとんど忘れてしまった。日本敗戦から今までに、3回の帰国の機会があったにもかかわらず朝鮮で暮らしてきた。

●父との別れ
 琉璃子は私が持参した羊羹を口にすると「幼いころに食べた記憶がある」という。琉璃子が生まれたのは1933年1月のソウル(当時の「京城」)。「ホンマチ、ミナカイ」と日本語で言うので何の意味かと思ったら、羊羹を買ったことのある店だという。帰国してから調べてみると、当時は本町1丁目にあった「三中井(みなかい)百貨店本店」のことだと分かる。
 当時の琉璃子の兄弟は5人で、上の3人は日本の学校で学ぶために熊本の祖父母の家で暮らしていた。琉璃子がまだ幼い時に母・月映(つきえ)が亡くなってしまい、父「よしのり」は再婚。母の「月映」と、2歳下の弟「秀男」の漢字は思い出せるが、「よしのり」が分からないという。
 琉璃子は1度だけ日本へ行ったことがある。「7歳の時、私と弟を見たいという祖父母に呼ばれて10日間ほど日本へ行ったんです。初めて会ったので、大変かわいがってくれました」と語る。
 1910年8月22日の「韓国併合に関する条約」で「大韓帝国」は日本によって滅ぼされる。朝鮮植民地支配が始まり、その末期には人口は2600万人に達し、そのうちの75万人が日本人だった。
 琉璃子の父は鉄道員で、貨物の取り扱い係。44年5月頃に転勤になり、一家は中国との国境の町である咸鏡北道(ハムギョンブクト)会寧(フェリョン)へ移る。
 日本敗戦が濃厚になると父にも召集令状が届き、中国へ送られることになった。44年の暮れか45年の始めのことだった。
「父さんは私と弟をぎゅっと抱き寄せました。自分は帰ってこられないと思ったのか、涙を流していました。母さんは亡くなり、父さんが行ってしまうともう頼るところがない・・・。とても悲しくなりました」

●ソ連軍からの逃避行
 45年の8月に入ってすぐのある日、会寧で事件が起きた。
 「朝の7時頃、サイレンが鳴り出したので何事かと思っていたら銃声がしたんです。そこへ行ってみると、日本人の高官が家の中で死んでいました」
 父と親しい朝鮮人たちの忠告に従い、部隊にいる父と連絡を取ることもできないまま、南へ向かって逃げることになった。琉璃子と秀男、継母とその子ども2人の一家5人は夜中に出発。荷車に最小限の家財道具を積み、山道や裏道を歩いた。道端で寝て、水があるところで米を炊いて食べた。
 逃避行の途中で、ソ連(ソビエト連邦)が日本へ宣戦布告をした8月9日を迎える。一家は、早い時期に避難を始めたので、途中でソ連軍と出会わずにすんだ。
 『北鮮の日本人苦難記』(鎌田正二)はこう記す。<ソ連軍がこの地方に進駐してからは、情勢は一変した。(略)いまは、宿をかす家を見つけることも、食糧を手に入れることもむずかしくなっただけでなく、夜ごとのソ連兵の暴行、保安隊の掠奪、圧迫もくわわって、そうでなくても困難をきわめる避難行は、まったく眼もあてられない惨憺たるものになった。(略)乳呑児を前に抱え、背には荷物を背負って、手に幼児の手をひく母親もいた。病める夫を背負った妻もいた。途中お産をしても、1日しか休まず歩きつづける母親もいた。子供を捨てた母親もいた。親が途中で死んで孤児になったのもいた>
 8月15日の日本敗戦からは避難民は一気に増えていき、前に進めないほどにまでなった。
 「長い距離を歩いたので、弟は足が痛いと泣いたんです。私はリュックサックを背負っていたんですが、負ぶってあげました」
一家が歩き始めて15日ほどした時、退潮(トェチョ)駅に汽車が停車していた。避難民たちがそれに群がっていたので、どこへ向かうのかもわからないまま一家も乗り込む。しかし動き始めて七つ目の咸興駅で、汽車から全員が降ろされる。駅前の広場で、行政機関の幹部らしき朝鮮人が通訳を通して日本人たちに話をした。
 「『日本の政府が悪いのであって人民に罪はない。日本へ帰らせるが、混乱で汽車が動かないのでここで泊まるように』と言われたんです。近くにあった旅館へ入りました」

●家族の死
 敗戦直後に朝鮮半島の北緯38度線より北側にいた日本人は、中国東北地方からの避難民を合わせると約30万人とされる。
<咸南(咸鏡南道)に終結した咸北(咸鏡北道)の避難民は、(45年)10月末現在で、咸興に約1万7000名、興南(フンナム)に約9800名、元山(ウォンサン)に約7500名を数えた>(『朝鮮終戦の記録』森田芳夫)。
 つまり咸興と隣接の興南を合わせた地域に、約2万7000人もの日本人避難民がいたのだ。
 朝鮮半島南側を管理する米国は日本人に対し、民間人だけでなく軍人までも積極的に帰国させた。ところが北側を管理するソ連は、軍人はシベリアへ送って過酷な労働をさせ、民間人は帰国させなかったばかりか食料や住居を十分に与えなかった。その結果、4万人近くの日本人が死亡したのだ。その責任はソ連にある。
 凍結した地面に墓穴を掘ることは難しい。帰国を待つ日本人が結成した「咸興日本人委員会」は、咸興にいる日本人の10%が死亡すると予測。12月中旬の凍結前に、4×20メートル・深さ2メートルという巨大な埋葬用の穴を掘る。実際の死者は、その計算の2倍以上にもなった。
 <咸興日本人委員会の統計では、翌年1月までに、咸興の死亡者6400名をかぞえ、1月の死亡者は、1日平均50名をこえていた>(『大東亜戦史8朝鮮編』「北朝鮮の憂愁」森田芳夫)
 こうした極限状態にあった9月初旬のある日の朝、継母が生んだ5歳の弟と2歳の妹が冷たくなっていたのである。死因は分からないという。

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弟と妹を埋葬した場所で、当時のようすを語る琉璃子。この近くを通るたびに、その時のことが鮮明によみがえるという(2017年8月7日撮影)

 「継母が弟の遺体を、私が妹を背負って外へ出ました。すると、日本人の遺体を山積みにしたリヤカーを引く人たちが、行列のようになっていたんです。それについて行くことにしました」
 琉璃子に、その場所で説明してもらうことにした。杖を使っているものの、歩くのは早い。大通りに面した「科学院」の門を入り、建物の裏へ向かう。小高い山の手前に塀があって、行き止まりになっている。
 「ここに大きな穴が掘られていました。リヤカーから遺体が次々と投げ込まれていくので、その人たちがいなくなってから私たちもこっそりと入れたんです」

●秀男との別れ
 弟と妹を埋葬した小高い山には、リンゴ畑があった。義母はそこから風呂敷二包みのリンゴをもらってきた。そして、「日本へ帰るために旅費が必要だから、これを売ってきて」と琉璃子と秀男に1袋ずつ渡す。2人が市場へ行くと、大勢の人で混んでいた。
 「秀男は一生懸命に動き回り、すべて売ってしまいました。私は1カ所に座り込んでいたので、少し売れ残ったんです。日が暮れて暗くなると、秀男の姿が見えなくなりました。捜し回っても見つからず、私は心細くなって泣いていました。すると、通りすがりの見知らぬ朝鮮人のおじさんに『なぜここで泣いているのか』と上手な日本語で聞かれたんです」
 その朝鮮人男性は「仕方がないから私の家へ行こう」と言った。「ついていきたいという気持ちになった」と琉璃子はいう。心細かったのと、父の姿と重なって見えたのかも知れない。
 その家へ行くと、妻と2人の子どもがいた。そして白米と豚肉のスープが出された。会寧を出てから初めて、オンドルの効いた部屋で温かい食事をした。琉璃子はこの一家に、気に入られたようだ。
 「『もし私たちと一緒に暮らしたいのなら、そうしてもいいよ』と言われたものの、その時は黙っていました。寝る時に『どうしても秀男を捜さなくては』という思いになったんです。明け方に起きて、リンゴが入った袋を持ってこっそりとその家を出ました」
 琉璃子は、商人たちが路上に並んで物を売っている場所へ行ってみた。するとそこで、ソ連兵がヒマワリの種を食べているのを目にする。たくさんの種を一度に口へ入れ、殻だけを器用に次々と吐き出しているのだ。瑠璃子は、そのようすがあまりにも面白くて見入っていると、誰かが後ろから突いた。振り返ると秀男だった。偶然にも弟と再会することができたのだ。
 「『一緒に早く行こう』と秀男は言いました。『もうすぐ汽車が出発するので、リンゴが売れてなくても早く連れて来なさい』と(継母が)言っていると・・・。でも私は『リンゴを全部売るので先に行きなさい』と言い張ったんです」
 これが、琉璃子が秀男を見た最後となった。リンゴを売り終えて旅館へ戻ると、誰もいなかったのである。「汽車が出発してしまったんだと思いました」
 日本人たちが、北緯38度線を越えるのは次第に困難になっていた。だが過酷な収容生活から逃れるため、危険を冒して帰国しようとする集団が続出していた。南へと向かう汽車があれば、何としてでもそれに乗らなければここで死ぬことになる・・・。琉璃子を捜す余裕もなく、継母や旅館の収容者たちは出発したのだろう。

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琉璃子が弟の秀男と別れた市場は、今も同じ場所にある。表通りから少し中に入った場所にあり、徒歩や自転車でたくさんの人が行き来している(2017年8月7日撮影)

 それまで淡々とした口調だった琉璃子が、涙を流しながら一気に語り始めた。
「私は、追い払うようにして秀男と別れたんです。秀男は涙を流し、何度も振り返りながら消えて行きました。それが、私が覚えている秀男の顔なんです。思い出すとすごく悲しくなるので、この話は誰にもしたことがありません」
 後になって日本からの手紙でわかったことだが、姉を捜しに出たために秀男も汽車に乗り遅れたのだ。10歳の秀男は誰にも頼れず、物乞いで飢えをしのぎながら38度線を越えて帰国。「大変な思いをした秀男は、私をどれほど恨んだことか」と瑠璃子は語る。
リンゴを売ることにこだわったため汽車に乗り遅れてしまい、大混乱が続く朝鮮へ置き去りになった琉璃子。この出来事で、自分の人生が大きく変わるなどと思いもしなかった。荒井琉璃子、まだ12歳だった。  (文中敬称略)
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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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