北朝鮮は大干ばつか? 水田を撮影!

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都・平壌(ピョンヤン)では、「東平壌火力発電所」の稼動や、2012年の「煕川(ヒチョン)水力発電所」からの送電などにより、電力事情は確実に良くなってきた。

 ところが今年6月の取材で、停電が増えていることを実感した。地方都市だけでなく平壌のアパートでも、小さなソーラーパネルを窓に置いている家が目につくようになった。

 それだけでなく、上水の供給状況も悪くなっている。それは、平壌でのビル建設ラッシュにインフラ整備が追いついていないことが大きいが、最大の原因は水不足である。北朝鮮メディアは「100年に1度の大干ばつ」に襲われていると報道している。どのダム湖も干上がっている状況なのだ。

2015年6月の水田
水を満たした咸鏡北道鏡城(キョンソン)郡の水田(2015年6月26日撮影)

 6月の取材では、地方での水事情のついても気をつけていた。清津(チョンジン)市と羅先(ラソン)特別市のホテルでは断水もなく、時間は限られているもののお湯も供給された。また、どの水田にも水が満たされていた。

 羅先特別市で案内してくれた「人民委員会」の担当者に聞くと「咸鏡北道(ハンギョンブクド)や咸鏡南道(ハンギョンナムド)では水不足はない。起きているのは黄海北道(ファンヘブクド)や黄海南道(ファンヘナムド)など」とのことだった。

 地球温暖化による異常気象によって、北朝鮮でも水害と干ばつに襲われるようになった。北朝鮮での今年の大干ばつは、地域によってかなりの差があるようだ。

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これが平壌の地方議会選挙会場

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で7月19日に地方議会の代議員選挙が実施された。代議員の任期は4年。金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の体制になってから初めて行われた。

6月9日高級中学校
代議員選挙の投票所の一つとなった「平壌6月9日竜北(リョンブ)高級中学校」(2015年6月29日撮影)

 北朝鮮での選挙は、事実上の信任投票になっているという。


投票所看板
「平壌6月9日竜北高級中学校」の投票所の標識(2015年6月29日撮影)

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今年も開催されない「アリラン」公演

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)での大マスゲーム・芸術公演「アリラン」は、今年も開催されないことが13日に分かった。

アリラン祭典のテコンドー
テコンドー姿の出演者。以前は軍服姿で演じられていた(2007年8月15日撮影)

 世界最大のマスゲームとして「ギネスブック」にも掲載されている「アリラン」公演。数万人を動員し、一糸乱れぬ体操・ダンス・アクロバットが1時間半にわたって行われてきた。

 公演会場である平壌(ピョンヤン)市内の「メーデースタジアム」は、15万人の観客を収容することができる。昨年、10カ月間かけて改装工事が行われ、サッカー場の人工芝や観客席が新しくなった。

アリラン祭典の中国国旗
中国との友好を謳う演技が本編の後に加えられた(2010年10月14日撮影)

 毎年の「アリラン」公演の基本内容は同じだが、わずかな変更点が必ずあった。その時の政府の方針や国際関係を反映させてきた。
 そのため私は、平壌滞在中に公演があれば必ず撮影に行った。

 2013年まで夏季に開催され、国内各地からだけでなく海外から毎年1000人以上の観客を集めてきたが昨年は中止。

 今年は、3月4日に解除されたエボラ出血熱での入国規制で開催されるとして、一部の旅行業者が商品を販売している。
 だが北朝鮮の政府関係機関は、「今年のアリラン公演は予定されていない」と私の問い合わせに対して返答してきた。

北朝鮮 エボラ予防隔離解除のめど立たず

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が、エボラ出血熱の国内への感染を防ぐために実施している予防隔離措置の解除にめどが立っていないことが分かった。

 北朝鮮は昨年10月29日から、外国人だけでなく海外から帰国した自国民に対しても21日間もの隔離を行ってきた。しかも、私が2003年4月に受けたSARS(重症急性呼吸器症候群)での10日間の隔離と異なり、今回は滞在費が有料だという。

 現在の措置は、金正日(キム・ジョンイル)総書記の誕生日である2月16日や月末には解除されるのではとの一部報道もあった。

 だが今朝になり、朝鮮外務省の関連団体は私に対し、解除がいつになるのか分からない状態であることを伝えてきた。その文面からすれば、2月末どころか3月末でも解除されない可能性もある。

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北朝鮮で予防隔離を受けた!(下)

 2003年4月24日、SARS(重症急性呼吸器症候群)の予防隔離を受けるために乗せられたバスは、一時間ほどで隔離施設の「清川江(チョンチョンガン)ホテル」へ到着。場所は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)平安南道(ピョンヤンナムド)新安州(シナンジュ)。現在行われているエボラ出血熱への隔離でもこのホテルが使われている。小高い丘の上にあって、たくさんの樹木で囲まれている。つまり「隔離」するには打ってつけの場所なのである。

 建物は新しくはないが、部屋は清潔。時間は限られているものの、蛇口からはお湯も出る。食事は質素ながらも多すぎるほどの量で、新鮮な山菜の料理がうまかった。ビリヤードやカラオケなどの設備もある。窓からの新緑が美しく、鳥たちのにぎやかな鳴き声が聞こえてくる。予想に反して、かなり快適な生活である。

 上の階から「サウンド・オブ・サイレンス」や「レット・イット・ビー」の曲が聞こえてきた。このホテルに隔離された外国人は、ドイツ・ナイジェリア・インド・ニュージーランド・フィリピン・中国と国籍は多様。ドイツ人は3人で、その内の2人は何と新婚旅行でやってきたという。

新安州の田園
隔離を受けた「清川江ホテル」から見続けた田園風景(2003年5月2日撮影)

 このホテルは朝食付きで1泊7000円ほどするため、9泊だと約6万円以上。その金が支払えないという中国人が、ロビーで寝泊りしていた。この「事件」について関係者が協議した結果、全員の滞在費は政府が負担することになった。昼間から大量に飲んだビール・焼酎などの代金まで請求されなかった。この予防隔離は、国家の「防衛」のために極めて重大な措置であるからだ。

 この隔離生活という「非常事態」の中で、私を感動させることがあった。このホテルには6人の在日朝鮮人も収容されたが、その受け入れ機関は感染を恐れてようすを見に来ることさえなかった。いくつかの国の大使館が自国民と会うためにやって来たが、玄関先で5メートルほどの距離を置いて話をしただけで戻って行った。

 ところが私を招聘してくれた機関の一人のスタッフは、私が不自由をしないようにとホテルで一緒に生活をしてくれたのである。死亡率の高い未知の病として世界中が恐れおののいている中で、感染を覚悟しての行動だった。思想や価値観が異なっていても、人として相手への深い思いやりがいかに大切なのか教えられた。

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北朝鮮で予防隔離を受けた!(中)

 2003年4月24日、ロシアのウラジオストクで新潟からの航空便を高麗(コリョ)航空271便・平壌(ピョンヤン)行きへと乗り継ぐ。客席は3分の2ほど埋まっていて、そのほとんどは帰国する朝鮮人のようだ。

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の平壌国際空港へ到着したのは、ほぼ定刻の午後8時12分。機体はターミナルビルの前で止まったものの、乗客を降ろす気配がない。電源車からの電力供給がないため、機内の照明はすぐに消えた。
 しばらくするとドアが開き、窓からの薄明かりしかない機内に何人かが入って来た。そして乗客たちへ、手にした箱から小さな棒状のものを取り出して手渡し始めたのである。私には、それは筆記具のように見えた。近づいて来たその人たちが、マスクをして白衣を着ていることに気づく。手渡されたのは体温計だった。

 2002年11月に中国の広東省で発生したSARS(重症急性呼吸器症候群)は、一気に感染を拡大。致死率は約15%で、最終的には774人が死亡した。「世界保健機構(WHO)」は2003年3月12日に警報を出す。私が平壌へ着いたのはその翌月の24日で、感染者が急増している時期だった。平壌へ乗り入れている航空便は、北京・瀋陽からのものはすでに運休になっており、このウラジオストクからのものが最後だった。機内での検温は、海外からの渡航者に発症者がいないかどうかを調べるためのものだった。

ウラジオストクの高麗航空機
ウラジオストク空港で撮影した高麗航空機(2003年5月撮影)

 機内に発熱している人はいなかったようで、乗客全員は空港ターミナルへ移動して入国審査を受けた。ところが私だけが、入国審査官に事務所へ連れて行かれたのである。朝鮮入国のためのビザを持っていなかったためだ。
 私のビザは、ナホトカにある朝鮮領事館がいつもと同じように空港へ持って来ることになっていた。ところが、それが届いていなかったのである。おそらく領事館は、このような大変な状況の中で訪朝する日本人などいないと勝手に判断したのだろう。

 長い取り調べの結果、始末書を取られたものの何とか入国が認められた。ようやくターミナルビルを出ると、そこで待ち受けていたのは大型バスだった。すべての乗客は、10日間の予防隔離を受けることになったというのである。この措置はWHOの指導に従ったものだという。朝鮮は、食糧不足によって人々の免疫力は低下し、医薬品と医療機器も足りない。そうした状況で感染者が入国すれば、またたくまに広がってしまうからだ。この2003年より状況はかなり改善されたものの、エボラ出血熱への厳しい措置も同じ理由による。

 外国人と朝鮮人とは別の場所で隔離されるとのことで、指示されたバスに乗り込む。外国人を乗せたバスは、空港から北の方へ走り出した。車窓から見えるのは、明かりがほとんどない風景ばかり・・・。今までさまざまな国で「冒険旅行」をしてきた私だが、待ち受けているこれからの事態を考えていたら、不安な気持ちが一気に押し寄せてきた。(続く)

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北朝鮮で予防隔離を受けた!(上)

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がエボラ出血熱の国内への侵入を防ぐために、10月29日から厳しい対策を実施している。そのため、平壌(ピョンヤン)でサッカーやバレーボールの試合を行う予定だった「日本体育大学」や、粉ミルク支援をしているNGO「ハンクネット・ジャパン」といった日本の団体による訪朝も中止された。

 対策は空港だけでなく、開城(ケソン)工業団地へ陸路で出入りする韓国人などへの検査のためにサーモグラフィーカメラが近く設置される。影響を受けているのは北朝鮮への入国者だけではない。平壌駐在の外国公館や国際機関の職員は、再入国が困難になるかも知れないため北朝鮮を出国できずにいる。

 エボラ対策を行っているのは保健省・農業省・労働省・鉄道省などからなる「国家緊急防疫委員会」。入国したすべての外国人と自国民に対して21日間の隔離・予防観察を実施している。隔離場所は、外国公館や国際機関の職員は自らの代表部、在日朝鮮人は「平壌ホテル」など。そしてエボラ出血熱の発生地域からの入国者は、平安南道(ピョンヤンナムド)の「清川江(チョンチョンガン)ホテル」と、平安北道(ピョンヤンブクド)の「鴨緑江(アムロッカン)ホテル」である。

SARS隔離
「清川江ホテル」では、毎朝、部屋にやって来る看護士たちから体温と脈拍を調べられた(2003年5月1日撮影)

 2002年から翌年にかけて、SARS(重症急性呼吸器症候群)が中国を中心に拡大した。その際に私は、北朝鮮で10日間の予防隔離を受けた。エボラ出血熱での隔離も、ほぼ同じように実施されているのだろう。(続く)

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「高麗航空」機内で消された写真

 今日の「朝鮮中央通信」は、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記が平壌国際空港の建設現場を指導したと報じた。その中で、ターミナルビルが「主体性・民族性が生かされるように仕上げる課題を与えたが、そのように出来ていないと指摘」。そして、内部の仕上げ工事を中止して再検討するよう指示したという。

平壌空港新ターミナル建設工事
「朝鮮速度」との看板が掲げられた工事中の新ターミナルビル(2014年9月29日撮影)

 着工から遅々として進まなかった空港の改築工事だが、ターミナルビルと誘導路の建設のためにたくさんの人民軍兵士が動員されている。私は、最近では9月23日・29日、10月2日・9日とこの空港を利用したが、そのたびに工事は進展していた。多くの作業が機械を使わずに行われているにもかかわらず、大変なスピードだ。

平壌空港滑走路建設工事
機内で消去された空港内の建設現場の写真(2014年9月29日撮影)

 10月27日から30日まで訪朝した日本政府代表団への同行記者団は、空港での建設工事のようすの撮影を禁止されたという。空港当局がそのような措置を取っていることを知らされていない私は、9月29日に出国する際に写真を撮った。ところが、離陸した高麗航空の機内で男性の乗員から呼ばれ、デジタルカメラの画像を見せるように言われた。結局、119枚もの写真を消去させられたのである。それは空港での建設工事だけでなく、通勤する空港職員や朝もやの中を歩く人々といったものもある。
 30回以上も取材で訪朝しているが、どのような基準で撮影を禁止しているのかいまだに分からない。TBSの同行記者に報道内容について事情説明を求めたこともそうだが、あまりにも対応が過敏すぎる。しかもそれが、今年になって強化されたような気がする。

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日朝関係改善に立ちふさがる米国

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都・平壌(ピョンヤン)の中心部に、「反帝国主義・反米教育の拠点」と銘打った真新しい豪華な巨大施設があります。それは朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)の博物館「祖国解放戦争勝利記念館」です。北朝鮮では、朝鮮戦争を「祖国解放戦争」と呼んでいます。
 2013年7月、金正恩(キム・ジョンウン)第一書記はこの記念館の全面的な建て直しを指示し、工事中に何度も現地指導を実施。そして休戦60周年の日の開館式で、自らテープカットをしました。

祖国解放戦争記念館
「祖国解放戦争勝利記念館」のモニュメントと本館(2014年4月30日撮影)

 屋外に新設された「捕獲武器展示場」には、朝鮮戦争だけでなくさまざまな時期に米軍から鹵獲した戦闘機など多種多様な兵器が並んでいます。そして最大の目玉は、1968年1月23日に朝鮮人民軍が拿捕した米国の情報収集艦「プエブロ号」です。1998年から大同江(テドンガン)に係留して展示されてきましたが、それが今は記念館の横を流れる普通江(ポトンガン)に浮かんでいます。
 普通江は大同江に流れ込んでいるのですが、全長約54メートルの船体をそのまま運ぶことは不可能なはずです。疑問に思って案内人に聞いたところ「いくつかのブロックに切断してこの場所へ運んだ」とのことでした。

移設されたプエブロ号と見学者たち
移設後の「プエブロ号」(2014年4月30日撮影)。

 北朝鮮が米国に対話を強く求め続けてきた理由は、米国と結んでいる朝鮮戦争休戦協定を平和条約に変えたいからです。そうしなければ米国の圧倒的な軍事力によって、いつ政権を転覆されるかも知れないからです。
 「プエブロ号」事件の際、米国は核兵器の使用を検討しました。また北朝鮮が1993年に「核拡散防止条約(NPT)」、翌年に「国際原子力機関(IAEA)」からの脱退表明をした際には、米国は寧辺(ニョンビョン)の核施設への爆撃を決定しました。幸いにもそれは、韓国の反対で中止されましたが・・・。米国による北朝鮮への軍事攻撃は、かろうじて回避されてきたに過ぎないのです。北朝鮮が米韓合同軍事演習に強く反発しミサイル発射実験を繰り返すのは、米韓によってそのまま侵攻される危険性があるからです。

 7月30日、米国下院で「米国の対北朝鮮政策20年」との特別公聴会が開催されました。この場で、北朝鮮を圧迫して変化を待つという「戦略的忍耐」政策は効果がなく、米国の北朝鮮政策は失敗であったことが議員たちから提起されました。米国は北朝鮮に何もしなかったのですが、一方の北朝鮮は核兵器とそれを米国へ撃ち込む運搬手段の開発を大きく進めたのです。
 北朝鮮が「祖国解放戦争勝利記念館」を新たに建設したことは、米国との戦略的な対決姿勢を続けることを明確に示そうとしたものです。それは、核兵器保有を続け米国とは安易な妥協をしないという強い意思表示でもあります。
 こうした米朝関係は、日本や韓国の北朝鮮政策を大きく制約します。北朝鮮は、日本人の安否調査についての最初の報告書を9月第2週にも日本側へ伝えるようです。私は、日朝関係が改善の方向へ進むことを強く望んでいます。ですが米朝関係がこのままであれば、すぐに米国が日朝関係改善を妨げる巨大な壁となるでしょう。

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北朝鮮の「聖地」で不思議な体験をした

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の「建国の父」である金日成(キム・イルソン)主席は、1994年7月8日に亡くなりました。彼が生前に公務などで使っていた「錦繍山(クムスサン)議事堂」が、遺体を永久保存するための施設として改築されて「錦繍山記念宮殿」になりました。
 そして2011年12月17日に死去した金正日(キム・ジョンイル)総書記の遺体もここへ保存され、「錦繍山太陽宮殿」と名称が変わりました。建国以来の二人の最高指導者をたたえるためのこの施設は、北朝鮮においてもっとも“神聖”な場所なのです。そのため高い塀に囲まれ、武装した兵士によって厳重に警備されています。

太陽宮殿
正面から見た「錦繍山太陽宮殿」(2012年9月5日撮影)

 私は、「記念宮殿」だった時に訪れたことがあります。外国人はここへ自動車で行きますが、北朝鮮の人々は宮殿へ行くためだけに敷設された路面電車を使うのです。この車両はスイス製で、1995年から3・5キロメートルの間を無料で運行されているとのことです。乗客は、女性は色とりどりの美しいチマ・チョゴリ、男性はダークスーツにネクタイといった正装をしています。
 宮殿へ入るには、クロークでコート・鞄・カメラだけでなく、筆記具・タバコ・ライターまで預け、金属探知機をくぐるなど厳しい検査を受けます。次に、約340メートルもの動く歩道に乗って宮殿へ向かうのです。この上を歩いている人などはいません。
 宮殿へ入ると、高さ5メートルほどの金日成主席の白亜の像があります。現在は金正日総書記の像が並んでいるとのこと。そして3階のホールへとエレベーターで上がります。そこに金日成主席の遺体が、ガラスに覆われた棺の中で深紅の布に包まれて安置されていました。うす暗くした室内で遺体にだけスポットライトが当てられており、荘厳な音楽が流れる中を人々は時計回りにひと回りするのです。
 この後、さまざまな国から金日成主席へ贈られた勲章や、使用していた自動車や列車などを見学。次にソニー製の音声ガイド機器を受け取って日本語に合わせ、それを聞きながら豪華な建物内を見て回るのです。
 最後に、クロークで荷物を受け取ってから宮殿前の広場へ出ます。ここは約300×約500メートルもあり、正面にあたる北側と東側に水をたたえた大きな堀が囲んでいます。

 私はこの宮殿の外観だけでもきちんと撮影したいと思って申請したところ、2003年4月に許可が出ました。宮殿前広場が道路に面するところには、立派な装飾を施した正門があります。何と、少しだけ開けられたその巨大な扉から敷地内へ入れてくれたのです。通常の訪問時のことを考えれば驚きです。
 緊張しながら宮殿を撮影していると、突然、静寂を破って鳥たちのにぎやかで低い鳴き声が聞こえてきました。近くにいた職員たちが、堀の中をのぞき込んでいます。自然な流れで、私も三脚を担いだままでそこへ移動。何と堀の中で、女性がボートを漕ぎながら、飼育されているたくさんの白鳥に餌を与えていたのです。

宮殿の白鳥
宮殿の堀で、白鳥に餌を与えている女性(2003年5月14日撮影)

 雲一つない晴天を映し込んだ青い水面。その上を白い帽子とブラウスの若い女性が、赤いボートをゆっくりと漕いで行く・・・。それをたくさんの白鳥が追いかけている。厳戒体制の「聖地」で、とんでもなく穏やかな光景がありました。それにカメラを向けても、誰もとがめようとしません。私は、それまでに経験したことのない不思議な感覚に囚われたのです。

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力道山が贈ったベンツからお宝を大発見!

 日本政府による北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への制裁の一部が解除されたことにより、旅行代理店による「北朝鮮ツアー」が出来るようになりました。8月30~31日に開催される「インターナショナル・プロレスリング・フェスティバルin平壌」の観戦ツアーが販売されています。
 これを企画したのはアントニオ猪木・参院議員。彼がプロレスラーになったのは、1960年に力道山によってスカウトされたからです。アントニオ猪木と北朝鮮との強いつながりは、その偉大な恩師がいたからです。

 力道山は、1924年11月24日に朝鮮半島北側の咸鏡南道(ハムギョンナムド)で、金信洛(キム・シンラク)として生まれました。1940年に力士になるため日本へ渡り、1949年には関脇に昇進。ですが、翌年には廃業してプロレスラーに転身しました。朝鮮人は横綱にはなれない、と悲観したのが理由だという話もあります。
 当時は日本敗戦から時間が経っておらず、人々はそのショックから立ち直れていませんでした。そうした中で、「空手チョップ」という技で悪人役の白人レスラーを次々と打ち倒す姿は絶大な人気を得たのです。力道山には私にも強い思い入れがあり、書棚を調べてみると、彼に関する本は15冊もありました。

 力道山の生まれ故郷がある北朝鮮は、1960年代の初めから彼を評価するようになりました。力道山の生涯を描いた「民族の男」というテレビ映画も制作されています。最近はあまり見かけませんが、平壌市内のみやげ物店では力道山の名前がついた酒やミネラルウォーター、大理石で作った全身像や伝記などが売られていたほどです。北朝鮮では力道山を、日本で暮らしながらも民族の尊厳を守った朝鮮人として高く評価しているのです。

 1971年3月、この国で最高の名誉である「愛国烈士」の称号が亡き力道山に与えられました。これを受け取ったのは、平壌で暮らす娘の金英淑(キム・ヨンスク)さんです。このように、北朝鮮は力道山を「民族的英雄」としています。その理由として、金日成(キム・イルソン)主席へ敬愛の証を贈ったことが大きいのです。そのひとつが高級車でした。

力道山のベンツ
「国際親善展覧館」で展示されている力道山のベンツ(2006年3月2日撮影)

 首都・平壌(ピョンヤン)から北へ直線距離で約120キロメートルにある妙香山(ミョヒャンサン)。風光明媚なこの場所に、2棟の「国際親善展覧館」があります。この宮殿のような施設に、金日成主席と金正日(キム・ジョンイル)総書記への、世界の国々からの膨大な数の贈り物が展示されています。それらをていねいに見ると、日本を含めた世界各国とこの国との関係史が非常に良く分かります。
 その中に、1962年の金日成主席生誕50年のお祝いとして、力道山が贈ったベンツがあります。金日成主席の現地指導で使ってもらいたいと、自動車を選んだということです。ロールスロイスを贈るつもりで注文したもののなかなか届かなく、手元にあったベンツになりました。力道山は、積出港である新潟までこの車を自ら運転し、朝鮮との間で運行されていた貨客船に載せました。力道山はこれとともに、「金日成元帥万歳」「平和統一」と書いた直筆の書も贈っているのです。

 「国際親善展覧館」は国家の重要施設であるため、撮影と荷物の持ち込みは厳しく禁止されています。私は、力道山に関するものに限定した取材を申請し、交渉の末に許可を得ました。
 2006年3月2日、妙香山へ到着。日頃は団体参観者で混んでいる「国際親善展覧館」ですが、この日は閑散としていました。そのため館内は、照明を落としているのでかなり暗いのです。しかも電圧が下がっているのか、たくさんの蛍光灯が点滅し続けており、それが気になって仕方ありません。靴にカバーをつけて女性案内人について行くと、自動車ばかりを並べた細長い展示室へ着きました。その中には、旧ソ連のスターリンから贈られた車と並んで“力道山のベンツ”が置かれています。
 かつては、この車とともに直筆の書が展示されていたという記録があるのですが見当たりません。職員たちが一生懸命に捜してくれるものの見つからないのです。ところが一人の職員がベンツのダッシュボードを開けたところ、そこに「贈呈目録」が入っていたのです。「乗車一台 一九六二年四月三日」との記載と、毛筆で「力道山」と大きな署名があります。間違いなく本人が書いたもので、今まで公開されたことのない「お宝」の大発見です。

力道山のサイン
「贈呈目録」の力道山による直筆サイン(2006年3月2日撮影)

 「日本の国民的英雄」としてあまりにも高く祭り上げられた力道山は、自分が朝鮮人であることを明らかにできませんでした。ですが韓国からの強力な訪問要請に応じ、1963年1月にソウルへ行って政府高官と会っています。1964年の「東京オリンピック」への南北統一チームでの参加を実現させ、その後に北朝鮮へ帰国することを考えていたようです。
 ところが1963年12月15日に、力道山は暴力団員に腹部をナイフで刺され死亡してしまいました。わずか39歳でした。その事件の原因について、「国際親善展覧館」の案内人は次のように私に話しました。「右翼勢力は、力道山の朝鮮へ帰国する意思を変えさせようと策動しましたが、失敗したので襲ったんです」。
 日本・北朝鮮・韓国という国家間でこの「英雄」を奪い合ったのですが、そのことと事件との関係は謎のままです。亡くなってから半世紀以上が過ぎた今、力道山の祖国への思いは弟子によって受け継がれているようです。

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建設ラッシュのために大規模浚渫

 私が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へ最初に行ったのは20数年前。その頃と今とでは何がもっとも変わったかと言えば、高層ビルが増えたこと。とりわけ金日成(キム・イルソン)主席生誕100年の2012年に向けて、古いアパートの改装や道路の再舗装から始まり、モニュメント的な巨大建築物が北朝鮮各地で造られました。その代表的なものが万寿台(マンスデ)地区の倉田(チャンジョン)通り高層アパート群。もっとも高い棟は45階建てです。
 生誕100年での最大の記念行事である閲兵式が行われた4月15日の金日成(キム・イルソン)広場。私はその式典会場にいました。軍事パレードが始まり、兵士や兵器が入場して来る東の方を見ると、絵に描いたように整った形の高層アパート群がその背景に並んでいました。実に見事な演出でした。

 現在も建設ラッシュが続いています。平壌(ピョンヤン)市内を流れる大同江(テドンガン)には、たくさんの浚渫船が浮かんでいます。こうした流れの緩やかな川では砂が堆積しやすく、それを放置すると川床が上がって水害を引き起こします。大雨が降った2007年8月には、大同江の堤防の隙間から流れ出る水を食い止めるため、たくさんの人が土嚢を積んでいるのを見ました。堤防決壊の一歩手前でした。
 現在、大同江で行われている浚渫作業は、それだけが目的ではありません。建設作業に必要なコンクリートを製造するため、川砂を確保しようとしているのです。大規模に浚渫が行われていることからすれば、これからもかなりの数の建設工事が行われるのでしょう。

大同江の浚渫船
羊角島(ヤンガクド)ホテル横の大同江に浮かぶたくさんの浚渫船(2014年4月30日撮影)

 5月13日、平壌市・平川(ピョンチョン)区域で、建設中の23階建てアパートが崩壊し、多数の死傷者が出ました。「朝鮮中央通信」は「住宅の施工をいい加減に行い、それに対する監督・統制を正しく行わなかった幹部らの無責任な行為によって重大な事故が発生」と報じました。平壌中心部での重大事故なので、異例の公表をせざるを得なかったのです。
 建設ラッシュの中で、同じように突貫工事で造られた高層ビルはたくさんあります。倉田通りの高層アパートの工事現場を見ていたら、たくさんの人が人海戦術で建設しているようすが良く分かりました。同じような時期に完成した他の建築物の安全性に問題はないのでしょうか。

建設中の45階建て高層アパート
万寿台地区の45階建て高層アパートの建設工事(2011年11月3日撮影)

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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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