北朝鮮になぜ残留日本人がいるのか

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の清津(チョンジン)市で暮らしてきた「残留日本人」の丸山節子さん(86)歳が、1月16日に自宅で家族に看取られながら亡くなったことが分かった。

清津市
清津市の「高秣山展望台」から見た市街地と港(2012年8月31日撮影)

 私は、北朝鮮に残る日本人埋葬地についての取材を2006年に開始。2012年8月には、「全国清津会」が実施した現地調査への同行取材をした。この日本人埋葬地の取材の中で、北朝鮮に「残留日本人」が生存しているとの情報を得た。

 1945年8月8日、ソ連(ソビエト連邦)は日本に対して宣戦布告。「満州」(中国東北地方)・樺太(サハリン)南部・千島列島、そして朝鮮の日本軍に猛攻撃を行った。

 「満州」などに駐屯していた「関東軍」は総崩れになり、そこで暮らしていた日本人のうち約10万人は朝鮮半島へ逃げ込んだ。また、ソ連軍との戦闘があった清津などの朝鮮北部にいた日本人も避難をした。

 その結果、敗戦後のソ連軍管理下の北朝鮮で、日本の民間人と将兵約3万4600人(厚生労働省)が飢えと寒さ、伝染病で死亡。実際には4万人近くになると思われる。

 「中国残留日本人」と同じように、子どもを死なせないために朝鮮人に預けるといったこともあった。また、朝鮮人と結婚していて北朝鮮に残った日本人もいる。

 厚生労働省によれば、日本の家族から「未帰還者」として届け出があったのは1440人。そのうちの43人が「戦時死亡宣告」を受けていないため、今も消息調査の対象となっている。

 丸山節子さんの一家は、開城(ケソン)で果樹園を営みながら暮らしていた。父親が節子さんと妹を連れて「満州」へ行っていた時に敗戦。母親と節子さんの弟・毅さんら兄弟2人は、1946年冬の最後の帰国船に乗った。

 1952年になり、節子さんの消息が分かった。節子さんは、北朝鮮の男性と結婚して9人の子どもを産んだ。毅さんは、2010年9月と2014年9月に訪朝し、節子さんと会うことが出来た。日本への帰国を望んでいたという。

 私は2013年と2014年に、節子さんの取材を北朝鮮の関係機関へ申請。だが、病によって取材を受けることのできない状態であるとして断られた。

 昨年5月の日朝合意で「残留日本人」も調査対象とされ、節子さんは8月に北朝鮮の「特別調査委員会」に聞き取り調査を受けた。
 だがその後の日朝協議に進展がなく、節子さんの日本への里帰りが実現できなかったことが残念でならない。

 北朝鮮の「残留日本人」は、節子さんのほかにも健在な人がいることが判明している。

 日本政府は北朝鮮政府に、4月に期限の切れる独自の経済制裁の延長を検討すると通知したことが26日に分かった。
 北朝鮮による「日本人調査」は、昨年7月の「特別調査委員会」発足から1年以内に結果を報告することになっている。その期限になっていないにもかかわらず、こうした高圧的な姿勢を取ることが正しいと政府は本気で思っているのだろうか。

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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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