日朝関係に翻弄された劇的な人生

『週刊金曜日』2018年3月16日号に掲載した記事を紹介する。

家族を思い、日本と朝鮮を行き来した平島筆子さん死去
日朝関係に翻弄された劇的な人生

 衝撃の事実を告げられ、私は思わず大きな声を上げた。朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の平壌(ピョンヤン)へ行ったところ、取材予定の女性が急死していたのだ。

平島還暦祝い
 平島筆子さん(中央)の還暦祝いでの家族写真。祝宴は朝鮮へ戻ってから、7年遅れで開かれた。孫のオ・チョンヒョクさんは左から3人目。

 1959年12月から在日朝鮮人の帰国事業が始まり、朝鮮人男性と結婚していた日本人妻1831人も朝鮮へ渡った。1938年11月生まれの平島筆子さんもその一人だ。

 平島さんは、東京都葛飾区新小岩のあんみつ屋で働いていて、電気工の朝鮮人男性と出会う。平島さんの両親は強く反対したものの、二人は1959年12月の帰国船で朝鮮へと渡った。平島さんは「安筆花(アン・ピルファ)」という朝鮮名を使った。

 平壌での生活を始めて10年ほどしたころに突然、夫は行方不明になる。家族には「病死した」と伝えられた。頼りにしていた夫がいなくなり、日本の家族からの仕送りもなかった平島さんの生活は苦しくなった。

 日本にいる二人の妹に会いたい、両親の墓参りがしたいという思いが募っていた時に、日本人妻を「脱北」させて高額の利益を得ようとするブローカーに声をかけられた。そして2002年11月に中朝国境の川を歩いて中国へ渡り、翌年1月に日本へ帰国。

 落ち着いたのは、かつて暮らしていた葛飾区。そこを選挙区とする平沢勝栄衆議院議員の秘書・沖見泰一さん(64)が、世話をすることになる。平島さんは、生活保護の支給額が減らされるのを承知で仕事に出るほど元気だった。

 ところが朝鮮から、長男のオ・カンホさんが死亡したという連絡がある。「平島さんは長男の嫁と子どもたちが心配になり、神経性胃潰瘍になったんです。寿司が大好きだったのですが、それも食べなくなりました」と沖見さんは振り返る。

 亡くなった長男には二人、長女には一人の子どもがいた。平島さんは、朝鮮の家族の元へ戻ることを決断。2005年4月18日、北京の朝鮮大使館で記者会見を行い「金正日(キム・ジョンイル)将軍万歳!」と叫んだ。

 朝鮮へ戻ってからの平島さんは優遇を受け、家族たちと平壌で生活を開始。還暦や古希のお祝いや行楽地などで、家族と撮ったどの写真の平島さんも幸せそうにみえる。

 平島さんは北京での記者会見から2カ月後に、沖見さんへ電話をかけた。それをきっかけに沖見さんは、毎月決まった日に電話をし、自費で医薬品などを送り続けてきた。肉親でもできないことである。その理由を聞くと、「日本にいた時の交流で情が移ったから」と語った。

 ところが突然、その平島さんが倒れた。この時のようすを、平島さんの長男の息子であるオ・チョンヒョクさん(29歳)から平壌市内のホテルで聞いた。

 「祖母は2年前から血圧が高くなって頭痛があり、8カ月前からは心臓も悪かったんです。1月11日に、散歩から戻ると心臓に圧迫感あると訴えました。入ったトイレで悲鳴を上げて倒れたので、薬を飲ませようとしたものの死亡していました」。

 祖母への思いを聞くと、「高齢なのに足が速く、燃えるような性格の愉快な人でした。私は誇りに思っています」と答えた。帰国後にインタビューした沖見さんは「日本政府は『日朝ストックホルム合意』で日本人妻についても同意したにもかかわらず、それよりも拉致問題を優先しました。日本人妻の里帰りといった、解決可能なことから取り組むべきです。平島さんの死を無駄にしないで欲しい」と言う。

 朝鮮人の夫、日本の妹たち、朝鮮の子や孫という家族への思いから二つの国を行き来した平島筆子さん。私は日朝関係に翻弄されたその劇的な生き方を、直接に聞きたかった。
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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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