朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(上)

 「週刊金曜日」2017年12月8日号に掲載した記事を、2回に分けて紹介する。

大国に翻弄され続けた最後の朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(84歳) (上)
望むは日本での両親の墓参

84年間も朝鮮半島で暮らしてきた日本人女性が、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の地方都市にいる。いまや、確認できる唯一の朝鮮残留日本人である。記録されることもなく消え去ろうとしていたその歴史を、ロングインタビューで掘り起こした。

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咸興市内を貫く城川江(ソンチョンガン)に架かる「万歳(マンセ)橋」。その上流側には、植民地支配時の橋脚が今も残る(2017年8月7日撮影)

 私を乗せた車は、小高い丘の上に建つ真新しい金日成(キム・イルソン)主席と金正日(キム・ジョンイル)総書記の銅像の前を通り過ぎる。表通りから舗装が悪い路地へ入り、少し古い5階建てのアパートの前で止まる。階段で3階まで上がり玄関で呼びかけると、年老いた女性が奥から出てきた。ここは、平壌(ピョンヤン)市から車で約5時間の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市。
 日本による植民地支配や侵略の結果、アジア太平洋の国々に多くの日本人が残った。その中で朝鮮に残留する日本人については、まったく実態がわからなかった。ところが今年4月、宋日昊(ソン・イルホ)・朝日国交正常化交渉担当大使が一人の残留日本人の存在を明らかにし、取材を認めた。
 荒井琉璃子84歳。朝鮮名は「リ・ユグム」という。日本語はほとんど忘れてしまった。日本敗戦から今までに、3回の帰国の機会があったにもかかわらず朝鮮で暮らしてきた。

●父との別れ
 琉璃子は私が持参した羊羹を口にすると「幼いころに食べた記憶がある」という。琉璃子が生まれたのは1933年1月のソウル(当時の「京城」)。「ホンマチ、ミナカイ」と日本語で言うので何の意味かと思ったら、羊羹を買ったことのある店だという。帰国してから調べてみると、当時は本町1丁目にあった「三中井(みなかい)百貨店本店」のことだと分かる。
 当時の琉璃子の兄弟は5人で、上の3人は日本の学校で学ぶために熊本の祖父母の家で暮らしていた。琉璃子がまだ幼い時に母・月映(つきえ)が亡くなってしまい、父「よしのり」は再婚。母の「月映」と、2歳下の弟「秀男」の漢字は思い出せるが、「よしのり」が分からないという。
 琉璃子は1度だけ日本へ行ったことがある。「7歳の時、私と弟を見たいという祖父母に呼ばれて10日間ほど日本へ行ったんです。初めて会ったので、大変かわいがってくれました」と語る。
 1910年8月22日の「韓国併合に関する条約」で「大韓帝国」は日本によって滅ぼされる。朝鮮植民地支配が始まり、その末期には人口は2600万人に達し、そのうちの75万人が日本人だった。
 琉璃子の父は鉄道員で、貨物の取り扱い係。44年5月頃に転勤になり、一家は中国との国境の町である咸鏡北道(ハムギョンブクト)会寧(フェリョン)へ移る。
 日本敗戦が濃厚になると父にも召集令状が届き、中国へ送られることになった。44年の暮れか45年の始めのことだった。
「父さんは私と弟をぎゅっと抱き寄せました。自分は帰ってこられないと思ったのか、涙を流していました。母さんは亡くなり、父さんが行ってしまうともう頼るところがない・・・。とても悲しくなりました」

●ソ連軍からの逃避行
 45年の8月に入ってすぐのある日、会寧で事件が起きた。
 「朝の7時頃、サイレンが鳴り出したので何事かと思っていたら銃声がしたんです。そこへ行ってみると、日本人の高官が家の中で死んでいました」
 父と親しい朝鮮人たちの忠告に従い、部隊にいる父と連絡を取ることもできないまま、南へ向かって逃げることになった。琉璃子と秀男、継母とその子ども2人の一家5人は夜中に出発。荷車に最小限の家財道具を積み、山道や裏道を歩いた。道端で寝て、水があるところで米を炊いて食べた。
 逃避行の途中で、ソ連(ソビエト連邦)が日本へ宣戦布告をした8月9日を迎える。一家は、早い時期に避難を始めたので、途中でソ連軍と出会わずにすんだ。
 『北鮮の日本人苦難記』(鎌田正二)はこう記す。<ソ連軍がこの地方に進駐してからは、情勢は一変した。(略)いまは、宿をかす家を見つけることも、食糧を手に入れることもむずかしくなっただけでなく、夜ごとのソ連兵の暴行、保安隊の掠奪、圧迫もくわわって、そうでなくても困難をきわめる避難行は、まったく眼もあてられない惨憺たるものになった。(略)乳呑児を前に抱え、背には荷物を背負って、手に幼児の手をひく母親もいた。病める夫を背負った妻もいた。途中お産をしても、1日しか休まず歩きつづける母親もいた。子供を捨てた母親もいた。親が途中で死んで孤児になったのもいた>
 8月15日の日本敗戦からは避難民は一気に増えていき、前に進めないほどにまでなった。
 「長い距離を歩いたので、弟は足が痛いと泣いたんです。私はリュックサックを背負っていたんですが、負ぶってあげました」
一家が歩き始めて15日ほどした時、退潮(トェチョ)駅に汽車が停車していた。避難民たちがそれに群がっていたので、どこへ向かうのかもわからないまま一家も乗り込む。しかし動き始めて七つ目の咸興駅で、汽車から全員が降ろされる。駅前の広場で、行政機関の幹部らしき朝鮮人が通訳を通して日本人たちに話をした。
 「『日本の政府が悪いのであって人民に罪はない。日本へ帰らせるが、混乱で汽車が動かないのでここで泊まるように』と言われたんです。近くにあった旅館へ入りました」

●家族の死
 敗戦直後に朝鮮半島の北緯38度線より北側にいた日本人は、中国東北地方からの避難民を合わせると約30万人とされる。
<咸南(咸鏡南道)に終結した咸北(咸鏡北道)の避難民は、(45年)10月末現在で、咸興に約1万7000名、興南(フンナム)に約9800名、元山(ウォンサン)に約7500名を数えた>(『朝鮮終戦の記録』森田芳夫)。
 つまり咸興と隣接の興南を合わせた地域に、約2万7000人もの日本人避難民がいたのだ。
 朝鮮半島南側を管理する米国は日本人に対し、民間人だけでなく軍人までも積極的に帰国させた。ところが北側を管理するソ連は、軍人はシベリアへ送って過酷な労働をさせ、民間人は帰国させなかったばかりか食料や住居を十分に与えなかった。その結果、4万人近くの日本人が死亡したのだ。その責任はソ連にある。
 凍結した地面に墓穴を掘ることは難しい。帰国を待つ日本人が結成した「咸興日本人委員会」は、咸興にいる日本人の10%が死亡すると予測。12月中旬の凍結前に、4×20メートル・深さ2メートルという巨大な埋葬用の穴を掘る。実際の死者は、その計算の2倍以上にもなった。
 <咸興日本人委員会の統計では、翌年1月までに、咸興の死亡者6400名をかぞえ、1月の死亡者は、1日平均50名をこえていた>(『大東亜戦史8朝鮮編』「北朝鮮の憂愁」森田芳夫)
 こうした極限状態にあった9月初旬のある日の朝、継母が生んだ5歳の弟と2歳の妹が冷たくなっていたのである。死因は分からないという。

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弟と妹を埋葬した場所で、当時のようすを語る琉璃子。この近くを通るたびに、その時のことが鮮明によみがえるという(2017年8月7日撮影)

 「継母が弟の遺体を、私が妹を背負って外へ出ました。すると、日本人の遺体を山積みにしたリヤカーを引く人たちが、行列のようになっていたんです。それについて行くことにしました」
 琉璃子に、その場所で説明してもらうことにした。杖を使っているものの、歩くのは早い。大通りに面した「科学院」の門を入り、建物の裏へ向かう。小高い山の手前に塀があって、行き止まりになっている。
 「ここに大きな穴が掘られていました。リヤカーから遺体が次々と投げ込まれていくので、その人たちがいなくなってから私たちもこっそりと入れたんです」

●秀男との別れ
 弟と妹を埋葬した小高い山には、リンゴ畑があった。義母はそこから風呂敷二包みのリンゴをもらってきた。そして、「日本へ帰るために旅費が必要だから、これを売ってきて」と琉璃子と秀男に1袋ずつ渡す。2人が市場へ行くと、大勢の人で混んでいた。
 「秀男は一生懸命に動き回り、すべて売ってしまいました。私は1カ所に座り込んでいたので、少し売れ残ったんです。日が暮れて暗くなると、秀男の姿が見えなくなりました。捜し回っても見つからず、私は心細くなって泣いていました。すると、通りすがりの見知らぬ朝鮮人のおじさんに『なぜここで泣いているのか』と上手な日本語で聞かれたんです」
 その朝鮮人男性は「仕方がないから私の家へ行こう」と言った。「ついていきたいという気持ちになった」と琉璃子はいう。心細かったのと、父の姿と重なって見えたのかも知れない。
 その家へ行くと、妻と2人の子どもがいた。そして白米と豚肉のスープが出された。会寧を出てから初めて、オンドルの効いた部屋で温かい食事をした。琉璃子はこの一家に、気に入られたようだ。
 「『もし私たちと一緒に暮らしたいのなら、そうしてもいいよ』と言われたものの、その時は黙っていました。寝る時に『どうしても秀男を捜さなくては』という思いになったんです。明け方に起きて、リンゴが入った袋を持ってこっそりとその家を出ました」
 琉璃子は、商人たちが路上に並んで物を売っている場所へ行ってみた。するとそこで、ソ連兵がヒマワリの種を食べているのを目にする。たくさんの種を一度に口へ入れ、殻だけを器用に次々と吐き出しているのだ。瑠璃子は、そのようすがあまりにも面白くて見入っていると、誰かが後ろから突いた。振り返ると秀男だった。偶然にも弟と再会することができたのだ。
 「『一緒に早く行こう』と秀男は言いました。『もうすぐ汽車が出発するので、リンゴが売れてなくても早く連れて来なさい』と(継母が)言っていると・・・。でも私は『リンゴを全部売るので先に行きなさい』と言い張ったんです」
 これが、琉璃子が秀男を見た最後となった。リンゴを売り終えて旅館へ戻ると、誰もいなかったのである。「汽車が出発してしまったんだと思いました」
 日本人たちが、北緯38度線を越えるのは次第に困難になっていた。だが過酷な収容生活から逃れるため、危険を冒して帰国しようとする集団が続出していた。南へと向かう汽車があれば、何としてでもそれに乗らなければここで死ぬことになる・・・。琉璃子を捜す余裕もなく、継母や旅館の収容者たちは出発したのだろう。

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琉璃子が弟の秀男と別れた市場は、今も同じ場所にある。表通りから少し中に入った場所にあり、徒歩や自転車でたくさんの人が行き来している(2017年8月7日撮影)

 それまで淡々とした口調だった琉璃子が、涙を流しながら一気に語り始めた。
「私は、追い払うようにして秀男と別れたんです。秀男は涙を流し、何度も振り返りながら消えて行きました。それが、私が覚えている秀男の顔なんです。思い出すとすごく悲しくなるので、この話は誰にもしたことがありません」
 後になって日本からの手紙でわかったことだが、姉を捜しに出たために秀男も汽車に乗り遅れたのだ。10歳の秀男は誰にも頼れず、物乞いで飢えをしのぎながら38度線を越えて帰国。「大変な思いをした秀男は、私をどれほど恨んだことか」と瑠璃子は語る。
リンゴを売ることにこだわったため汽車に乗り遅れてしまい、大混乱が続く朝鮮へ置き去りになった琉璃子。この出来事で、自分の人生が大きく変わるなどと思いもしなかった。荒井琉璃子、まだ12歳だった。  (文中敬称略)
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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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