「拉致問題」で切り捨てられた帰国への思い

「週刊金曜日」2017年6月2日に号へ掲載した記事を紹介する。

 日本敗戦時の混乱で、朝鮮半島北側から帰国できなかった「残留日本人」。そして帰国事業で朝鮮人の夫とともに海を渡った「日本人妻」が取材に応じた。日本政府は、彼女ら朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)で暮らす日本人の帰国や里帰りへの取り組みをやめている。

荒井
荒井琉璃子さん(2017年4月13日撮影)

 1945年8月15日の日本敗戦で、朝鮮半島は北緯38度線で南北に分断。北側を管理したソ連は、そこに居住していたり中国東北地方から逃げ込んだりした日本人の帰国を認めなかった。その年から翌年にかけ、飢えと寒さと伝染病で民間人約2万4000人、将兵約1万600人が死亡。その極限状態の中で親から朝鮮人に託されたり、肉親とはぐれたりした子どもたちがいた。また工場などを動かすために、技術者とその家族が留め置かれた。

 朝鮮半島北側から引揚げた日本人は約32万人。ソ連管理下での日本政府による引揚げ事業は、46年12月から48年7月まで実施された。厚生労働省によると「未帰還者」として家族から届けられているのは1442人。その内訳は男性が約1000人で半数が軍人・軍属、女性は約400人。だが実際は、この数字を大きく上回ると予想される。

 48年9月に建国した朝鮮と、残留日本人帰国のための交渉が始まったのは54年1月。「日本赤十字社」と「朝鮮赤十字会」とのさまざまなやり取りの結果、56年4月にわずか36人が帰国。これ以降は実現していない。

 これまで残留日本人を日本のメディアが取材したことはなく、その実態はまったく分からなかった。だが断片的な情報はあった。清津(チョンジン)市で暮らしてきた日本名・丸山節子さんは、日本の家族と頻繁に手紙のやり取りをし、5回にわたって弟が訪朝。私は丸山さんへの取材を何度か申請したものの「取材を受けるだけの体力がない」として断られていた。

調査は済んでいた
 忘れ去られそうになっていた残留日本人に再び注目が集まったのは2014年5月の「日朝ストックホルム合意」である。それに基づき朝鮮は「特別調査委員会」を設置し「日本人遺骨」「残留日本人・日本人配偶者」と「拉致被害者・行方不明者」について調査することになった。

 私は4月13日に「日本研究所」の曺喜勝(チョ・ヒスン)上級研究員にインタビューをした。「3年前の残留日本人調査の時、私が会ったのは3人ですが9人いました」と流ちょうな日本語で語った。「特別調査委員会」は、発足直後に調査をしていたのだ。

 「その時、朝鮮の赤十字会とメディアが丸山節子さんと会い、テレビで紹介しました。ですが日本からは何の反応もなかった。(日本人埋葬地への)墓参と同じように、日本の問題なのに放置したままです。地方の埋葬地では、開発で失われてしまった場所もあると聞いています」

 19日に、1人の残留日本人が取材に応じてくれることになった。歴史の闇の中に消えようとしていた日本人の朝鮮への残留。その重大な出来事の当事者と会えることに私は興奮した。
その残留日本人が暮らすのは咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市。案内されたのは、建設からかなり年月の経ったアパートだった。リ・ユグムさんの日本名は「荒井琉璃子(あらい・るりこ)」で、1933年1月生まれ。日本語は話せない。

 「咸鏡北道(ハムギョンブクド)会寧(フェリョン)で暮らしていた時に父が徴兵され、間もなく解放を迎えました。家族は日本へ引き揚げるため南へ向かったものの、咸興で汽車から降ろされたんです。ここで私は家族とはぐれ、朝鮮人に育てられて結婚しました」
連絡を取ったことのある残留日本人はいないのかと私が尋ねると「自分のような境遇の人はいない」と言う。他の残留日本人の存在を知らずに生きてきたのだ。

 午後からは、市内中心部にある新興山(シンフンサン)ホテルで「咸興にじの会」の人たちと会う。リ・ユグムさんが会長で、他の5人は「日本人妻」だ。「咸鏡南道人民委員会」の担当者が、概要を説明してくれた。
「この咸鏡南道には、残留日本人が24人と、帰国事業で朝鮮人男性とやってきた日本人妻と子ども308人がいました。今は(合わせて)39人が残っています」

里帰りを望む日本人妻
 日本は朝鮮植民地支配において、朝鮮人を天皇に忠実な「日本人」にしようと「皇民化政策」を実施。その一つとして、日本人と朝鮮人との「内鮮結婚(ないせんけっこん)」を奨励した。その多くが日本人女性と朝鮮人男性との結婚だった。そうした日本人妻が、韓国と朝鮮で暮らしている。
 韓国の場合は、日本敗戦後も生活基盤のある朝鮮半島南側へ残った人や、生活していた日本から帰国する朝鮮人の夫とともに渡った人だ。私が取材した90年代半ばの推定で約1000人。朝鮮は韓国と異なり、59年から84年まで行われた帰国事業で夫とともに渡った人で、その数は約1800人である。

 74年に日本において、朝鮮で暮らす日本人妻の里帰り(一時帰国)を求める動きが始まる。それが実現したのは97年になってからで、2000年まで3回にわたり43人が里帰りをした。そこには2人の残留日本人も含まれていた。99年に村山富市元首相を団長とする超党派訪朝団が、里帰りの継続について朝鮮労働党と合意。だが日朝関係の悪化によって中断されてしまった。

 こうした状況の中で、咸鏡南道で暮らす日本人たちが「咸興にじの会」を設立した。日本と朝鮮との間に虹の橋を架けたいとして名付けたという。昨年11月から活動を開始し、会員は11人。新興山ホテル内に事務室まで設けている。熊本県出身のリ・エイスンさんは日本語で次のように語った。

 「2002年の第4回里帰りに参加することになり荷造りまでしていたのに、日本政府が中止にしてしまったんです。どれだけ泣いたのか分かりません。両親の墓参りに日本へ行きたいし、一日でも早く日朝国交正常化を実現してほしいのです」

 残留日本人と日本人妻の帰国については、日本が朝鮮へ長年にわたり強く要求してきたことである。ところが1990年代に拉致問題が浮上すると、これらは顧みられなくなる。それどころか、これらへの取り組みは拉致問題解決の足を引っ張るかのような主張が溢れた。

 2015年の日朝非公式協議において、日本人妻について朝鮮側が「具体的に帰国させる人物を特定してきたが、日本側は応じていない」(「朝日新聞」15年9月23日付)ということがあった。日本政府は「拉致被害者・行方不明者」で満足できる報告がなければ、他のことは完全に無視するという姿勢なのだ。

 14年8月、「特別調査委員会」が丸山節子さんを訪ね、帰国の意思があるかどうかを聞いたという。日本政府が決断すれば、すぐにでも帰国ができる状況だった。ところが丸山さんは15年1月に86歳で亡くなってしまう。

 朝鮮を極端に敵視する安倍政権は、日朝間には拉致問題しか存在しないかのような政策を行い、残留日本人と日本人妻などを切り捨ててきた。そうしている間に朝鮮で暮らす日本人は亡くなり、日本人遺骨の収容は困難になりつつある。

 朝鮮がこうした人道問題を日朝関係改善の糸口にしようとしているのは確かだ。しかしそうであっても、これらの課題に取り組まないというのは棄民政策である。日本政府は、朝鮮で暮らす日本人の帰国と、政府支援による遺族の墓参を早急に実現するべきだ。

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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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