北朝鮮 小野寺防衛相が「日朝平壌宣言」を否定か

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党第1副部長は2月10日、韓国大統領府において文在寅(ムン・ジェイン)大統領に金正恩(キム・ジョンウン)委員長からの早期訪朝を求める親書を手渡した。平昌(ピョンチャン)五輪を通して、南北融和が進む可能性が高くなった。

米軍戦車
朝鮮戦争で北朝鮮が鹵獲した米軍戦車(2017年4月12日撮影)

 こうした流れに日本と米国は、焦り始めている。安倍晋三首相は9日、文在寅大統領との首脳会談で、平昌パラリンピック終了後に米韓合同軍事演習を実施するように求めた。それに対して文大統領は「わが国の主権と内政に関する問題」として反発した。

 外国の2カ国が行なう軍事演習について、他国のトップが口出しするのはどう考えても内政干渉である。そのことを安倍首相が理解できないのは、「反北朝鮮」ということにあまりにも前のめりになっているからだ。

 そして10日には小野寺五典防衛相が、日本や韓国など国際社会が北朝鮮の融和的政策に乗ってしまい、北朝鮮は核・ミサイル開発を進めたと述べた。日本が乗ってしまったというのは「日朝平壌宣言」とそれに関連した「日朝ストックホルム合意」を指すようだ。日本政府は「平壌宣言」と「ストックホルム合意」が生きていることをたびたび表明してきた。

 私は昨年4月、宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使へ3時間の単独インタビューをした。大使は「『日朝平壌宣言』は首脳会談によるものなので非常に大切にしており、関係改善の里程標となっている」と語った。

 つまり、最高指導者である金正日(キム・ジョンイル)総書記が署名した「平壌宣言」は絶対的なものであり、あくまでも守ろうとしているのだ。にもかかわらず日本はそれを否定し、日朝関係改善のための基本方針を変更しようというのか。

米朝危機の中で日本の進む道を探る

 1月30日、米国のトランプ大統領が一般教書演説を行い、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)について5分以上にわたって触れた。すぐにでも米本土の脅威になり得る核・弾道ミサイル開発を阻止するため、最大限の圧力をかけ続けるとしている。

祖国解放戦争勝利記念館と新郎新婦
朝鮮戦争の博物館を訪れた新郎新婦(2017年4月12日撮影)

 そして米国の核戦力の近代化と再建の必要性を訴え、戦略核兵器の強化を打ち出した。前のオバマ政権とまったく逆の方向へ進もうというのだ。

 同じ日の「ワシントンポスト」(電子版)は、韓国駐在米大使にビクター・チャ氏を起用する人事案が白紙になったと報じた。チャ氏は、ブッシュ政権(第43代)で、北朝鮮の核についての「6カ国協議」での次席代表を務めた。

 起用されなかったのは、トランプ政権の「国家安全保障会議」が北朝鮮への限定攻撃を検討していることに対し、懸念を示していることが理由だという。

 毎年2月から行われる米韓合同軍事演習は、韓国での平昌(ピョンチャン)五輪の後に延期された。だが終了後に実施されれば一気に緊張が高まり、米軍による先制攻撃の可能性がある。

 こうした米国の動きに対し、安倍政権は完全に支持し追随をしている。米国は北朝鮮との複数の交渉ルートを持っているが、日本は北京の北朝鮮大使館へ抗議文を送ることぐらいしかできないようだ。

 しかも北朝鮮と国交のある国々に、外交・経済関係を断つよう積極的に働きかけている。それは「国連安保理」決議で求めていることでもなく、他国の外交政策に介入するものだ。

 そして何よりも、このような「圧力一辺倒」の極端な政策を続けるならば、その傷痕と恨みは北朝鮮の人々の心にいつまでも残るだろう。日本がかつて行なった植民地支配と同じように、長期にわたって修復ができない。

 また安倍政権は、敵対する国を徹底的に追い詰めることの危険性を、日本の歴史から学んでいない。米国ジョンズ・ホプキンズ大学の北朝鮮分析サイト「38ノース」が出した被害想定は、最悪の場合の死者は「ソウルで203万人」「東京で180万人」というとんでもない数字だ。これには、北朝鮮や日本の他の都市での被害は入っていないので、数百万人で済まない可能性もある。

 東アジアがこうした極めて危険な状況にあることを、自分のこととして正面から受け止めることが必要だ。そのための一助となればと、イベントが予定されている。

第2弾 緊急企画 北朝鮮 もう一つの視点
-日本初公開映像を交え、日本の進む道を探る-
◆日時 2018年2月5日(月) 13:30 - 17:30  13:00開場
◆場所 参議院議員会館講堂(千代田区永田町2−1−1)
◆プログラム
◇講 演 「米朝危機の歴史的経緯と日朝の課題」 伊藤孝司(フォトジャーナリスト)
◇映像上映「廃墟の上に立ち上がった朝鮮(朝鮮戦争での米軍爆撃の記録)
         「米帝侵略軍の武装スパイ船 プエブロ号」(平壌市内の艦内で上映)
◇対 談 「朝鮮映画と日本」 小林正夫(カナリオ企画代表)& 伊藤孝司
◇交流紹介「日本と朝鮮半島の子どもたちの心をつなぐ」
        筒井由紀子(KOREAこどもキャンペーン事務局長)
◇朝鮮半島の平和に向けてのメッセージ
        宇都宮健児(元日弁連会長)
        井筒高雄(VFPジャパン / ベテランズ・フォー・ピース・ジャパン代表)
◆主催 NPO法人世界ヒバクシャ展
◆資料代 1000円(学生は500円)
◆お申し込み フォームhttps://form.os7.biz/f/1dc21f1e/  080-3558-3369

北朝鮮 カメラがとらえた「三池淵楽団」

 1月15日、板門店(パンムンジョム)の軍事境界線北側にある「統一閣」で、平昌(ピョンチャン)五輪への北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の芸術団派遣について南北局長級実務協議が開かれた。北朝鮮が「三池淵(サムジヨン)管弦楽団」の約140人を派遣することが決まった。

三池淵楽団軍服

三池淵最高指導者

三池淵楽団ミサイル
三池淵楽団(3枚とも2017年8月15日撮影)

 この楽団についてテレビのさまざまな番組で報じられているが、誤った内容があまりにも多い。私は昨年8月15日に平壌(ピョンヤン)市内において、公演のすべてを写真とビデオで撮影した。

 テレビで「北朝鮮通」のコメンテーターたちが自信ありげに、この楽団はクラシック演奏が中心なので「モランボン楽団」よりも政治色がないように語っているが決してそのようなことはない。楽器の編成や演出が異なるだけである。

 昨年8月の公演では、金日成(キム・イルソン)主席、その妻の金正淑(キム・ジョンスク)女史、金正日(キム・ジョンイル)総書記、そして金正恩(キム・ジョンウン)委員長の映像がスクリーンに次々と登場。2発の弾道ミサイルの発射時の映像も流れた。また楽団員は、チマ・チョゴリの民族衣装だけでなく軍服姿でも登場している。ディズニー映画の音楽を演奏したことがあるのは「モランボン楽団」であるにもかかわらず、「三池淵楽団」だと流した局もある。

 北朝鮮についての報道は、間違っていても不正確であっても抗議や告訴を受けないため、いい加減な確認作業をしただけの言いたい放題になっている。マスメディアはそのことに長らく甘んじてきたが、それは報道のあり方そのものを歪めてしまっていることに気づいていない。

北朝鮮の五輪参加を素直に喜ぼうとしない日本

 1月9日に板門店(パンムンジョム)において開催された南北高官級協議で、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は平昌(ピョンチャン)冬季五輪に政府高官・選手団・応援団・芸術団・参観団などを派遣すると発表した。

板門店
会談は板門店の韓国側施設「平和の家」(右奥)で行われた(2016年2月23日撮影)

 米国のゴールドスティーン国務次官(広報外交担当)は「朝鮮半島の緊張緩和をもたらすことは、どのようなものでも前向きな動き」と述べた。米国政府はおおむね歓迎している。

 いつ米国による北朝鮮への軍事攻撃があるかも知れない状況の中で、「五輪停戦」によって冷却期間を持つことは重要だ。

 ところが日本のマスメディアは韓国が北朝鮮の申し出を受け入れたことを、北朝鮮の手玉に取られていると批判したり、五輪から南北対話が進むことを警戒したりする意見を盛んに流している。そもそも北朝鮮の五輪参加は、韓国が熱心に北朝鮮へ働きかけてきたことだ。韓国人の76.7パーセントが、北朝鮮の五輪参加に賛成している。

 あるテレビ局の情報番組のコメンテーターは、北朝鮮から多くの人が韓国へ入国しても安全なのかと語った。つまり、テロをする危険性があるのではというのだ。北朝鮮で暮らしている人は、何をするかも知れないと思っているのだろう。これほど無知で非常識な発言をしても、テレビで流れるとそれは確実に影響を与える。

 菅義偉官房長官は10日、北朝鮮の融和姿勢には日米韓の北朝鮮包囲網を崩そうとの思惑があると語った。日本政府は、対話のための対話になってはならないと繰り返す。こうした北朝鮮の五輪参加に懐疑的な姿勢は、日本は韓国どころか米国よりも徹底的にバッシングしてきたからだ。喧嘩をしてきた隣人たちが仲良くしようとしていることを素直に喜べないほど、日本はいびつな国になってしまった。

朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(下)

「週刊金曜日」2017年12月8日号に掲載した記事を、2回に分けて紹介する。

大国に翻弄され続けた最後の朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(84歳) (下)
望むは日本での両親の墓参


咸興市内
現在の咸興市は、植民地支配時の咸興府と興南府が合併したもので、当時は合計数万人の日本人が居住(2017年8月7日撮影)

●「リ・ユグム」として
 「私の足が自然に向いたのは、ソ連兵がヒマワリの種の殻を口から飛ばしていた場所でした。そこにずっと立っていたら、家に泊めてくれた朝鮮人のおじさんと出会うことができたんです」
 男性は琉璃子を心配して捜しにきたのだ。「何も食べていないのだろう」とパンを買ってくれた。そして「私の家へ戻ろう」と言った。琉璃子は、その言葉に素直に従った。秀男の消息は気になるが、生母はすでに亡くなり父の生死は分からない・・・。日本で暮らしたことのない瑠璃子は、「祖国・日本」を何としてでも目指そうという気持ちにならなかったのだろう。何よりも、日本から主権を取り戻して勢いのある朝鮮人社会にいきなり放り出されたのだ。日本人少女には、他に選択肢はなかった。
 琉璃子は朝鮮語をわずか2カ月で習得し、「リ・ユグム」としてたくましく生き始める。「荒井琉璃子」の名を使うことは、この時からまったくなかった。
 ところが数カ月したころ、世話になっている男性の一家が故郷へ戻らなければならなくなる。「一緒に行かないか」と言われたが、琉璃子は弟と別れた咸興を離れたくなかった。「ここにいれば再会できるかも知れない」と思い、頑強に拒む。

荒井さんと養母家族
琉璃子(前列中央)が、結婚後の1960年代に養母のキム・コブンスン(前列左)らと撮った写真。

 この男性が仲良くしている隣家の女性には、子どもが2人いたが息子だけだった。「私はこういう可愛い娘が欲しい」と言うほど琉璃子をすっかり気に入っていた。こうして、このキム・コブンスンさんとの新しい生活が始まる。

●正式帰国の機会を逃す
 46年6月、「連合国軍総司令部」と「対日理事会」ソ連代表が、ソ連軍占領下の日本人送還について会談を始める。その結果、朝鮮半島北側からの正式引き揚げが決まった。しかしこの時すでに、北側に留め置かれた日本人の97%が、北緯38度線を大変な思いをして越えて帰国していた。残る日本人は、8000余人しかいなかった。
 この年の12月18日 に最初の引き揚げ船「栄豊丸」が元山を出港。2年後の7月4日の「宗谷丸」が最後の船となった。朝鮮半島北側を管理していたソ連は、9月9日の朝鮮民主主義人民共和国の建国前に日本人の引き揚げを完了させようとしたのだ。この正式引き揚げは、希望者を対象にしたものではなかった。朝鮮への残留を望んでも、強制的に帰された。例外は朝鮮人と結婚した日本人女性だけである。
 この時は未婚だった琉璃子は、この正式引き揚げの対象だが帰国していない。
その大きな疑問を琉璃子にぶつけてみると、困ったような表情になった。そして少し考えてから「どこからも連絡はまったくなかったんです」というのだ。
 すると、近くで聞いていた咸鏡南道人民委員会の担当者が説明をしてくれた。琉璃子は朝鮮人家庭に身を寄せていたため、解放直後の混乱した状況によって引き揚げ情報が届かなかったというのである。琉璃子は、二度目の帰国の機会を逃してしまった。

●焼けた日本人の証
 50年6月25日に始まった朝鮮戦争は、53年7月27日 に休戦。翌年1月に「日本赤十字社」は「朝鮮赤十字会」に、残留日本人の安否確認を依頼した。それに対して「残留日本人の中に帰国希望者がいれば、喜んで帰国を援助する」との回答がある。こうして、残留日本人の集団帰国が合意された。56年4月22日、残留日本人36人を乗せた「こじま丸」が舞鶴港へ到着した。
 この時点でも未婚だった琉璃子は、この船で帰国できたはずだ。そうしなかった理由についても琉璃子に聞くと「知らなかったんです。連絡がありませんでした」とあっさりと言う。このことについても、人民委員会の担当者が説明した。
 「朝鮮戦争の時、咸鏡南道は米軍の野蛮な爆撃によって建物はすべて破壊されました。住民登録名簿も焼失し、戦争後に新しく作成しています。この時、リ・ユグムさんは朝鮮名で登録しました」
 琉璃子は日本名も一緒に登録しなかったため、日本人であることの証が行政機関に何もなかったのだ。瑠璃子が、3回の帰国の機会を逃した理由がこれでわかった。
 「住民登録を朝鮮名にしているため、探し出せない残留日本人が間違いなくいる」とこの担当者は断言する。死と向き合いながらの逃避行の中で、育てられないと判断してわが子を朝鮮人に託した親もいる。その子どもは、自分が日本人であることを知らずにいるのだろう。中国東北地方と同じことがこの朝鮮半島北側でもあり、多くの日本人の子どもが残留した。
 <今も北朝鮮にとどまっている可能性がある日本人が少なくとも1442人に上ることが(97年10月)2日、厚生省の調査で分かった。(略)内訳は、男性1000人弱、女性が約400人で、このうち約500人が軍人や軍属。残り約900人は旧満州の開拓などに従事した人やその家族。約900人のうち孤児とみなされる年齢に相当する終戦当時13歳未満の人は約200人いると推定される。1442人のうちの67人については『未帰還者』として親族が継続して消息確認を厚生省に求めているが、1375人は親族の同意を得た上、法律的には『死亡した』とみなされる戦時死亡宣告を受けた>(『東京新聞』97年10月3日付)
 今回、「厚生労働省社会・援護局」に問い合わせたところ、朝鮮からの未帰還者数は14年現在で1440人、戸籍上で生存となっているのは35人との回答。未帰還者数は20年前とほぼ同じだが、親族が生存を信じて消息確認を求めている数は半減した。
 14年5月の「日朝ストックホルム合意」にもとづき、朝鮮は「特別調査委員会」を設置。そこが実施した日本人調査で、残留日本人8人が健在であることを確認した。咸鏡北道清津(チョンジン)市で暮らし、日本の家族が5回にわたって訪問した丸山節子は15年1月に86歳で死亡。今年6月には、残留日本人は琉璃子しかいないと公表されており、他の人たちは短期間に次々と亡くなったようだ。

●「愛に国境はない」
 琉璃子は義務教育の「高等中学校」を卒業した後、28歳から定年退職するまで絹の織物工場に勤める。結婚したのは60年7月。相手は、咸興駅に勤務する鉄道員のトン・ビョンフル。鉄道で働いていた養母の妹から紹介された。琉璃子は奇しくも、父と同じ職業の男性と結婚することになった。
 「夫は、日本人との結婚をどう思っていたのだろうか」と尋ねると、少し考え込んだ。そして、それまでみせなかった満面の笑みで語る。
 「とにかく私を愛してくれました。愛には国境はないのよ」
その夫は、80年に亡くなってしまった。現在、琉璃子がアパートで一緒に暮らすのは、息子と孫のトン・ウンスクとその夫、そしてひ孫の合わせて5人。

荒井さんと孫
琉璃子と孫のトン・ウンスク(2017年8月8日撮影)

 29歳の孫に、学校で先生から日本の植民地支配について教えられた時の気持ちを聞いてみた。
 「先生の話を聞いて、日本への怒りが湧きました。でもお祖母さんには、学校で習ったということは黙っていました」
琉璃子は、日本で暮らす肉親の住所を持っていたので手紙を送ってみた。すると、秀男だけでなく長男と長女からも返事がくる。それによって、秀男だけでなく徴兵された父と継母も日本へ戻っていることがわかった。すでに亡くなっていた父は、朝鮮に残した琉璃子を探そうとしていたという。
 長男からは会うための方法を聞いてきたが訪朝は実現せず、琉璃子がとりわけ会いたかった秀男は亡くなってしまう。その後、日本との連絡は途絶えてしまい、もはや顔を知る肉親は一人もいないと思われる。「さびしいです」と琉璃子はつぶやいた。

●日本人妻との交流
 琉璃子は、昨年11月15日に結成した「咸興にじの会」の会長をしている。会員11人は、残留日本人の琉璃子のほかは日本人妻である。日朝友好の懸け橋になりたいとして「にじの会」と名づけた。私は、日本人による団体が朝鮮にあることを知った時には本当に驚いた。しかもそれが、首都ではなく地方都市の咸興にあるのだ。
 59年12月に在日朝鮮人の帰還事業が始まり、9万3340人が祖国へ帰国。その際、在日朝鮮人の男性と結婚していた日本人妻1831人と子どもを合わせた6679人の日本人が朝鮮へと渡った。
 そうして咸興へやって来た一人の日本人妻が、琉璃子の働く織物工場へ就職した。
 「私は日本人であることを公にしていなかったのに、そのおばさんが私のことを知って訪ねて来たんです」
こうして、琉璃子と日本人妻たちとの強い絆ができた。人民委員会の担当者が、咸鏡南道で暮らす日本人について説明してくれた。
 「昔は残留日本人24人、日本人妻とその子どもが309人いました。現在は、残留日本人は荒井さん一人で、日本人妻は38人です」
 私はこの担当者に「日朝関係が悪いので朝鮮で暮らす日本人への差別はないのか」と聞くと「差別どころか、むしろ優遇しています。彼らの朝鮮へ報いたいという美しい心を高く評価し『にじの会』へ事務所と自動車を提供しています」との答えだった。私はそれを聞き、朝鮮の日本人たちは社会から後ろ指を差されないよう懸命な努力してきたのではないかと思う。「にじの会」は今、建設現場に支援物資を送る活動を積極的にしている。
 琉璃子や日本人妻たちの里帰りについてこの担当者に聞くと、「私が国を代表して言うことはできませんが、日本政府の対応次第でこの問題は解決するでしょう」と答えた。

●被害者であり加害者
 日本へ帰国する機会を次々と逃し、朝鮮へ残留することになった琉璃子。その人生を自分ではどのように捉えているのか聞いた。
 「私は今、思い切り幸せに暮らしているので、この社会で暮らすことができて良かったと思っています。後悔はしていません」
 そう言わざるを得なかったのではなく、この言葉は本心から出ていると私は思う。朝鮮人に助けられ、朝鮮社会へ懸命に溶け込んで今の家族を築いた。決して豊かではなくても、今のこの生活を何よりも大切にしようとしているのだ。次に「日本をどのように思っているのか」と、琉璃子にあえて抽象的な質問をしてみた。
 「(植民地の時に)日本がやったことを振り返ると、朝鮮人を大量に殺し、悪いことをたくさんしている。それを思うと、日本人でありながら日本が嫌になります」
 琉璃子はそう言うと「そうでしょ?」と私に聞き返してきた。残留日本人の琉璃子は、日本による朝鮮植民地支配の被害者であると同時に加害者でもあることを痛感しているようだ。
 「日朝ストックホルム合意」による「特別調査委員会」は、瑠璃子のところへも調査に来た。
 「日本へ行きたいのか聞かれたので『父さんと母さんの墓参りに行きたい』と伝えました。日本政府は、朝鮮への敵視政策を早くやめてほしい。日本が朝鮮と近い国になることを願うだけです。そうすれば、故郷を訪問して墓参りもできるからです。私には、先はもうあまりないですから・・・」
 日本では、拉致問題が明らかになってからは、日本人埋葬地への墓参や残留日本人・日本人妻の里帰りという人道的なことを進めるのが間違いであるかのような空気になった。朝鮮に残留日本人が今も暮らすのは、日本による植民地支配の結果だ。日本政府には、そうした人を里帰りさせる義務があるだろう。琉璃子が健在なうちに、その願いを何とか実現させてあげたいと私は思う。
 日本・ソ連・米国という大国によって翻弄されてきた朝鮮。その激動の歴史の中で、波乱に満ちた人生を歩むことになった荒井瑠璃子。私は4日間にわたるインタビューの最後に「両親の墓参りに行くことができるよう、長生きして欲しい」と言った。すると琉璃子は笑みを浮かべながら、しっかりとした日本語で「ありがとう」と答えた。 (文中敬称略)

朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(上)

 「週刊金曜日」2017年12月8日号に掲載した記事を、2回に分けて紹介する。

大国に翻弄され続けた最後の朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(84歳) (上)
望むは日本での両親の墓参

84年間も朝鮮半島で暮らしてきた日本人女性が、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の地方都市にいる。いまや、確認できる唯一の朝鮮残留日本人である。記録されることもなく消え去ろうとしていたその歴史を、ロングインタビューで掘り起こした。

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咸興市内を貫く城川江(ソンチョンガン)に架かる「万歳(マンセ)橋」。その上流側には、植民地支配時の橋脚が今も残る(2017年8月7日撮影)

 私を乗せた車は、小高い丘の上に建つ真新しい金日成(キム・イルソン)主席と金正日(キム・ジョンイル)総書記の銅像の前を通り過ぎる。表通りから舗装が悪い路地へ入り、少し古い5階建てのアパートの前で止まる。階段で3階まで上がり玄関で呼びかけると、年老いた女性が奥から出てきた。ここは、平壌(ピョンヤン)市から車で約5時間の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市。
 日本による植民地支配や侵略の結果、アジア太平洋の国々に多くの日本人が残った。その中で朝鮮に残留する日本人については、まったく実態がわからなかった。ところが今年4月、宋日昊(ソン・イルホ)・朝日国交正常化交渉担当大使が一人の残留日本人の存在を明らかにし、取材を認めた。
 荒井琉璃子84歳。朝鮮名は「リ・ユグム」という。日本語はほとんど忘れてしまった。日本敗戦から今までに、3回の帰国の機会があったにもかかわらず朝鮮で暮らしてきた。

●父との別れ
 琉璃子は私が持参した羊羹を口にすると「幼いころに食べた記憶がある」という。琉璃子が生まれたのは1933年1月のソウル(当時の「京城」)。「ホンマチ、ミナカイ」と日本語で言うので何の意味かと思ったら、羊羹を買ったことのある店だという。帰国してから調べてみると、当時は本町1丁目にあった「三中井(みなかい)百貨店本店」のことだと分かる。
 当時の琉璃子の兄弟は5人で、上の3人は日本の学校で学ぶために熊本の祖父母の家で暮らしていた。琉璃子がまだ幼い時に母・月映(つきえ)が亡くなってしまい、父「よしのり」は再婚。母の「月映」と、2歳下の弟「秀男」の漢字は思い出せるが、「よしのり」が分からないという。
 琉璃子は1度だけ日本へ行ったことがある。「7歳の時、私と弟を見たいという祖父母に呼ばれて10日間ほど日本へ行ったんです。初めて会ったので、大変かわいがってくれました」と語る。
 1910年8月22日の「韓国併合に関する条約」で「大韓帝国」は日本によって滅ぼされる。朝鮮植民地支配が始まり、その末期には人口は2600万人に達し、そのうちの75万人が日本人だった。
 琉璃子の父は鉄道員で、貨物の取り扱い係。44年5月頃に転勤になり、一家は中国との国境の町である咸鏡北道(ハムギョンブクト)会寧(フェリョン)へ移る。
 日本敗戦が濃厚になると父にも召集令状が届き、中国へ送られることになった。44年の暮れか45年の始めのことだった。
「父さんは私と弟をぎゅっと抱き寄せました。自分は帰ってこられないと思ったのか、涙を流していました。母さんは亡くなり、父さんが行ってしまうともう頼るところがない・・・。とても悲しくなりました」

●ソ連軍からの逃避行
 45年の8月に入ってすぐのある日、会寧で事件が起きた。
 「朝の7時頃、サイレンが鳴り出したので何事かと思っていたら銃声がしたんです。そこへ行ってみると、日本人の高官が家の中で死んでいました」
 父と親しい朝鮮人たちの忠告に従い、部隊にいる父と連絡を取ることもできないまま、南へ向かって逃げることになった。琉璃子と秀男、継母とその子ども2人の一家5人は夜中に出発。荷車に最小限の家財道具を積み、山道や裏道を歩いた。道端で寝て、水があるところで米を炊いて食べた。
 逃避行の途中で、ソ連(ソビエト連邦)が日本へ宣戦布告をした8月9日を迎える。一家は、早い時期に避難を始めたので、途中でソ連軍と出会わずにすんだ。
 『北鮮の日本人苦難記』(鎌田正二)はこう記す。<ソ連軍がこの地方に進駐してからは、情勢は一変した。(略)いまは、宿をかす家を見つけることも、食糧を手に入れることもむずかしくなっただけでなく、夜ごとのソ連兵の暴行、保安隊の掠奪、圧迫もくわわって、そうでなくても困難をきわめる避難行は、まったく眼もあてられない惨憺たるものになった。(略)乳呑児を前に抱え、背には荷物を背負って、手に幼児の手をひく母親もいた。病める夫を背負った妻もいた。途中お産をしても、1日しか休まず歩きつづける母親もいた。子供を捨てた母親もいた。親が途中で死んで孤児になったのもいた>
 8月15日の日本敗戦からは避難民は一気に増えていき、前に進めないほどにまでなった。
 「長い距離を歩いたので、弟は足が痛いと泣いたんです。私はリュックサックを背負っていたんですが、負ぶってあげました」
一家が歩き始めて15日ほどした時、退潮(トェチョ)駅に汽車が停車していた。避難民たちがそれに群がっていたので、どこへ向かうのかもわからないまま一家も乗り込む。しかし動き始めて七つ目の咸興駅で、汽車から全員が降ろされる。駅前の広場で、行政機関の幹部らしき朝鮮人が通訳を通して日本人たちに話をした。
 「『日本の政府が悪いのであって人民に罪はない。日本へ帰らせるが、混乱で汽車が動かないのでここで泊まるように』と言われたんです。近くにあった旅館へ入りました」

●家族の死
 敗戦直後に朝鮮半島の北緯38度線より北側にいた日本人は、中国東北地方からの避難民を合わせると約30万人とされる。
<咸南(咸鏡南道)に終結した咸北(咸鏡北道)の避難民は、(45年)10月末現在で、咸興に約1万7000名、興南(フンナム)に約9800名、元山(ウォンサン)に約7500名を数えた>(『朝鮮終戦の記録』森田芳夫)。
 つまり咸興と隣接の興南を合わせた地域に、約2万7000人もの日本人避難民がいたのだ。
 朝鮮半島南側を管理する米国は日本人に対し、民間人だけでなく軍人までも積極的に帰国させた。ところが北側を管理するソ連は、軍人はシベリアへ送って過酷な労働をさせ、民間人は帰国させなかったばかりか食料や住居を十分に与えなかった。その結果、4万人近くの日本人が死亡したのだ。その責任はソ連にある。
 凍結した地面に墓穴を掘ることは難しい。帰国を待つ日本人が結成した「咸興日本人委員会」は、咸興にいる日本人の10%が死亡すると予測。12月中旬の凍結前に、4×20メートル・深さ2メートルという巨大な埋葬用の穴を掘る。実際の死者は、その計算の2倍以上にもなった。
 <咸興日本人委員会の統計では、翌年1月までに、咸興の死亡者6400名をかぞえ、1月の死亡者は、1日平均50名をこえていた>(『大東亜戦史8朝鮮編』「北朝鮮の憂愁」森田芳夫)
 こうした極限状態にあった9月初旬のある日の朝、継母が生んだ5歳の弟と2歳の妹が冷たくなっていたのである。死因は分からないという。

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弟と妹を埋葬した場所で、当時のようすを語る琉璃子。この近くを通るたびに、その時のことが鮮明によみがえるという(2017年8月7日撮影)

 「継母が弟の遺体を、私が妹を背負って外へ出ました。すると、日本人の遺体を山積みにしたリヤカーを引く人たちが、行列のようになっていたんです。それについて行くことにしました」
 琉璃子に、その場所で説明してもらうことにした。杖を使っているものの、歩くのは早い。大通りに面した「科学院」の門を入り、建物の裏へ向かう。小高い山の手前に塀があって、行き止まりになっている。
 「ここに大きな穴が掘られていました。リヤカーから遺体が次々と投げ込まれていくので、その人たちがいなくなってから私たちもこっそりと入れたんです」

●秀男との別れ
 弟と妹を埋葬した小高い山には、リンゴ畑があった。義母はそこから風呂敷二包みのリンゴをもらってきた。そして、「日本へ帰るために旅費が必要だから、これを売ってきて」と琉璃子と秀男に1袋ずつ渡す。2人が市場へ行くと、大勢の人で混んでいた。
 「秀男は一生懸命に動き回り、すべて売ってしまいました。私は1カ所に座り込んでいたので、少し売れ残ったんです。日が暮れて暗くなると、秀男の姿が見えなくなりました。捜し回っても見つからず、私は心細くなって泣いていました。すると、通りすがりの見知らぬ朝鮮人のおじさんに『なぜここで泣いているのか』と上手な日本語で聞かれたんです」
 その朝鮮人男性は「仕方がないから私の家へ行こう」と言った。「ついていきたいという気持ちになった」と琉璃子はいう。心細かったのと、父の姿と重なって見えたのかも知れない。
 その家へ行くと、妻と2人の子どもがいた。そして白米と豚肉のスープが出された。会寧を出てから初めて、オンドルの効いた部屋で温かい食事をした。琉璃子はこの一家に、気に入られたようだ。
 「『もし私たちと一緒に暮らしたいのなら、そうしてもいいよ』と言われたものの、その時は黙っていました。寝る時に『どうしても秀男を捜さなくては』という思いになったんです。明け方に起きて、リンゴが入った袋を持ってこっそりとその家を出ました」
 琉璃子は、商人たちが路上に並んで物を売っている場所へ行ってみた。するとそこで、ソ連兵がヒマワリの種を食べているのを目にする。たくさんの種を一度に口へ入れ、殻だけを器用に次々と吐き出しているのだ。瑠璃子は、そのようすがあまりにも面白くて見入っていると、誰かが後ろから突いた。振り返ると秀男だった。偶然にも弟と再会することができたのだ。
 「『一緒に早く行こう』と秀男は言いました。『もうすぐ汽車が出発するので、リンゴが売れてなくても早く連れて来なさい』と(継母が)言っていると・・・。でも私は『リンゴを全部売るので先に行きなさい』と言い張ったんです」
 これが、琉璃子が秀男を見た最後となった。リンゴを売り終えて旅館へ戻ると、誰もいなかったのである。「汽車が出発してしまったんだと思いました」
 日本人たちが、北緯38度線を越えるのは次第に困難になっていた。だが過酷な収容生活から逃れるため、危険を冒して帰国しようとする集団が続出していた。南へと向かう汽車があれば、何としてでもそれに乗らなければここで死ぬことになる・・・。琉璃子を捜す余裕もなく、継母や旅館の収容者たちは出発したのだろう。

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琉璃子が弟の秀男と別れた市場は、今も同じ場所にある。表通りから少し中に入った場所にあり、徒歩や自転車でたくさんの人が行き来している(2017年8月7日撮影)

 それまで淡々とした口調だった琉璃子が、涙を流しながら一気に語り始めた。
「私は、追い払うようにして秀男と別れたんです。秀男は涙を流し、何度も振り返りながら消えて行きました。それが、私が覚えている秀男の顔なんです。思い出すとすごく悲しくなるので、この話は誰にもしたことがありません」
 後になって日本からの手紙でわかったことだが、姉を捜しに出たために秀男も汽車に乗り遅れたのだ。10歳の秀男は誰にも頼れず、物乞いで飢えをしのぎながら38度線を越えて帰国。「大変な思いをした秀男は、私をどれほど恨んだことか」と瑠璃子は語る。
リンゴを売ることにこだわったため汽車に乗り遅れてしまい、大混乱が続く朝鮮へ置き去りになった琉璃子。この出来事で、自分の人生が大きく変わるなどと思いもしなかった。荒井琉璃子、まだ12歳だった。  (文中敬称略)

北朝鮮 「挙国一致」で日本は戦争準備

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が2カ月以上も核・ミサイル実験をしていないこともあり、米朝の軍事衝突は今のところ回避されている。だが11月20日に米国のトランプ大統領が、朝鮮への「テロ支援国家」再指定を発表したことで、米朝が交渉する環境は遠のいてしまった。

清津港
たくさんの木造漁船が係留されている清津港(2012年8月31日撮影)

 そして日本政府は米朝による大規模軍事衝突や全面戦争に備え、市民に対して戦争による影響や被害の覚悟を促すなど着実に準備を進めている。

 27日に河野太郎外相は衆院予算委員会において、韓国に在住・滞在する日本人の退避について言明。

 「民間航空機で退避できない状況になった場合は、政府保有の航空機・船舶を派遣する必要になる」と述べた。つまり、政府専用機や自衛隊の航空機・艦船を派遣するというのだ。自衛隊を使うということについては、間違いなく韓国で反発が起きるだろう。

 また厚生労働省は、北朝鮮から数万人の難民がやって来ることを想定して、感染症対策のための研究班を発足させる。この難民が武装していた場合について麻生太郎副総理兼財務相は9月23日、「新潟・山形・青森の方には間違いなく漂着する。じゃあ射殺か、真剣に考えた方がいい」と述べた。

 そして、23日に北朝鮮から秋田県へ漂着した漁船に乗っていた8人についての妄言が続いている。菅義偉官房長官はその翌日、北朝鮮の工作員である可能性を踏まえて調べると述べた。わざわざそのように言明する姿勢からは、命からがらたどり着いた人たちへの人としての心が感じられない。

 そればかりか、「リベラル」を掲げている立憲民主党の長妻昭代表代行は26日のテレビ番組で、「偽装漁民の可能性を精査しなければならず、国境と海域の守りを徹底して欲しい」と語った。

 日本のいかなる政党も、米朝の軍事衝突回避のために独自に動こうとしていない。政治的立場を越えた「挙国一致」で、日本は戦争への準備をしているようにみえる。

「自民党大勝は北朝鮮のおかげ」発言は正確

 麻生太郎副総理は26日、衆院選で自民党が大勝したことについて「明らかに北朝鮮のおかげもありましょう」と発言。これに対して野党から批判が出ているが、それは間違いである。

三池淵の子どもたち
三池淵(サムジオン)の屋外で歌う子どもたち(2017年8月13日撮影)

 安倍首相は、米朝の軍事的衝突が起きる前にとの理由で解散・総選挙を行ない、選挙では「国難」という言葉で「北朝鮮の脅威」を最大限に煽った。麻生副総理の述べたように、自民党大勝の大きな理由はまさしく「北朝鮮」だったのである。

 安倍首相の極端な米国隷属の政策によって、日本の外交力は確実に衰退しつつある。10月27日、軍縮問題を扱う「国連総会第1委員会」で、日本政府が提出した「核兵器全廃をめざす決議案」の採択が行なわれた。

 日本政府は24年連続でこの決議案を提出しているが、賛成は昨年の167カ国から144カ国へと減少。賛成が減った理由は明確である。今年7月に「国連総会」で採択された「核兵器禁止条約」に、米国などの核保有国だけでなく、米国の「核の傘」の下にある日本も反対した。

 日本政府の決議案は、国際社会の核廃絶に向けての画期的な前進である「核兵器禁止条約」に触れることもせず、内容は昨年のものよりも大きく後退。その一方で、「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核・ミサイル開発の脅威」を強調している。

 トランプ政権は原子力空母を3隻も朝鮮半島周辺に配備し、いつでも北朝鮮に軍事攻撃できる態勢にしている。しかもその攻撃では、小型核兵器を使用する可能性もある。そうした中で日本政府は米国に「忖度」し、このような腑抜けの「決議案」を出したのだ。

 28日朝、もう一つ大きな出来事がニュースになっていた。スペイン北東部にあるカタルーニャ自治州の州議会は27日、「独立宣言」決議を賛成多数で可決した。独立を阻止しようとするスペイン政府のさまざまな強権発動を覚悟しての決議である。

 「民族自決」のために犠牲と苦難をいとわないカタルーニャ。それに比べ、米軍の沖縄での数々の横暴に対しても容認し、軍事だけでなく政治・経済でも米国に依存し続ける日本・・・。この国の100年後、200年後を見据えた政治家はいないのか。

北朝鮮 安倍首相は米国追随で日本を危険に陥れるな!

 米国CNNは10月16日、「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)政府関係者」の話を報じた。北朝鮮は、米国東海岸に到達する大陸間弾道ミサイル(ICBM)が完成するまでは米国との交渉に応じないとしている。

捕虜の人形
「祖国解放戦争勝利記念館」に展示されている朝鮮戦争での米兵の人形(2017年4月12日撮影)

 トランプ大統領の11月5日からの日本・韓国・中国訪問を前に、16日より米韓合同軍事演習が行なわれている。今年になって3回目の、最新兵器を大量に動員した大規模演習である。「演習」といってもそのまま奇襲攻撃に移ることが出来るので、北朝鮮は毎回、強く反発している。

 また10月23日から27日まで、韓国で暮らす米国の民間人を国外へ退避させる「非戦闘員退避活動」が実施される。

 先の北朝鮮政府関係者は、米韓合同軍事演習やトランプ大統領のアジア歴訪中に大気圏核実験やICBM発射を実施する可能性についても言及した。

 日本などのマスメディアは、北朝鮮の核・ミサイル実験を「挑発」とし、米韓合同軍事演習を「牽制」と呼んでいる。だが、どう考えても米韓合同軍事演習も北朝鮮への挑発でしかない。正確に言えば、双方が相手に対して軍事的威嚇をしているのだ。

 そうした米朝だが、非公式のいくつかの接触は行なわれているようだ。「6カ国協議」に参加した関係国で、北朝鮮との対話を放棄して圧力一辺倒なのは日本だけである。現在の危機は米朝対立によるものであるにもかかわらず、安倍政権は米国よりも熱心に「北朝鮮の脅威」を国際社会にアピールしている。

 この行為は日本にとって極めて危険である。米朝での戦闘や戦争が始まったならば、それに対する反撃として「敵国」日本へミサイルが発射される可能性を高めているからだ。

現在の日本の「危機」は安倍首相が、第1次政権の時からコツコツと築いてきたものだ。この米朝危機を機会として、日本の対米追随政策を根本的に転換すべきだ。

北朝鮮への安倍首相の強硬姿勢には目論見が

 国連の安全保障理事会で、9月19日に米国のトランプ大統領は「米国や同盟国の防衛を迫られれば北朝鮮を完全に破壊する」と表明。しかもこれまでは、核実験が中断されれば対話するとしていたにもかかわらず、戦争を望まないなら「非核化」しろとハードルを上げた。

バス停の人々
平壌市内でバスを待つ人々(2017年8月16日撮影)

 そして20日に演説した安倍首相は「必要なのは対話でなく圧力」とし、軍事攻撃も選択肢としている米国の姿勢を「一貫して支持する」とした。日米のトップが超タカ派の姿勢を示したのだ。

 中国とロシアは安保理決議に賛成したものの、軍事攻撃に反対して対話を求めている。またドイツのメルケル首相は、外交的解決のためにあらゆる努力をすると表明。ポーランドなども緊張緩和に向けて動いている。

 米朝が激しく喧嘩しているところへ、トランプ親分の一大事だとして子分の安倍首相が割って入って、親分よりも大声で北朝鮮に噛みついている・・・。このみじめで悲しいほどの米国追随には、大きな理由がある。

 それは安倍首相が、日本の安保理常任理事国入りを目論んでいるからだ。現在の危機は長年の米朝対決の結果であり、日本は当事者ではない。にもかかわらず異常なほどの北朝鮮への徹底的なバッシングをしているのは、国際社会に日本の存在感を示そうとしているのだ。これは、拉致問題への強硬姿勢で首相の座を得たのと同じ手法である。

 自らの利益や目的のために、派手なパフォーマンスをする安倍首相。しかも現在の北朝鮮への強力な敵対姿勢は、日本の安全を大きく脅かしている。

北朝鮮「火星12型」上空通過で日本は異常事態

 8月29日午前5時58分、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は中距離弾道ミサイル「火星12型」を発射。平壌(ピョンヤン)市郊外の「順安(スナム)国際空港」の滑走路から打ち上げられ、日本の渡島半島から襟裳岬の上空を通過して公海へ落下した。相次いで行われた「ロフテッド軌道」での打ち上げ実験が、次の段階へと進んだのだ。

火星12型
軍事パレードで公開された「火星12型」(2017年4月15日撮影)

 驚きなのは、この打ち上げに対する日本国内での異常な反応だ。日本政府は発射4分後に「全国瞬時警報システム(Jアラート)」で12道県にミサイル発射情報を伝達。テレビ各局は、通常番組を中断して「国民保護に関する情報」として「ミサイル発射。ミサイル発射。北朝鮮からミサイルが発射された模様です。頑丈な建物や地下に非難して下さい」との画面へ切り替えたりした。

 また、対象地域では携帯電話が自動的に鳴って情報が通知され、屋外に設置された「防災行政無線」はサイレンが鳴ってアナウンスが流れた。これではまるで、アジア太平洋戦争での「空襲警報」と同じではないか。そのため新幹線を含むいくつもの鉄道が運行を一時停止し、休校にした学校もあった。政府がそのようにおおげさな警報を流せば、社会が大混乱するのは当然だ。

 それでいて日本政府は、この弾道ミサイルを撃ち落とそうとしたわけではない。安倍首相は「発射直後からミサイルの動きを完全に把握している」と語った。つまり、日本に被害をもたらすことがないと分かっていて警報を流し続けたのである。

 拉致問題への厳しい対応で政権を取った安倍首相は、北朝鮮への恐怖を徹底的に煽ることが支持率を増やす最大の方策だと思っているのだろう。その結果、もはや日朝関係は容易に修復できない最悪の状態になってしまった。

 安倍首相は北朝鮮との外交交渉を放棄し、米国に追随して圧力一辺倒の対応をしている。それが、米朝の軍事衝突に巻き込まれるなどこの国を危うくしていることは、百も承知しているはずだ。拉致・核・ミサイル問題を、自らの利益のために利用するのはもうやめるべきだ。

北朝鮮の米国向けICBMに怯えてみせる安倍首相

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は7月28日午後11時42分に、慈江道(チャガンド)舞坪里(ムピョンリ)から大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星14」を発射した。「任意の場所と時間に奇襲として発射できる能力が誇示」された。

 高度約3700キロメートルの「ロフテッド軌道」で発射されたこのミサイルは、約1000キロメートルを飛翔。通常軌道ならば、米本土に届く1万キロメートルを超える可能性がある。

閲兵式の戦車
閲兵式で登場した戦車(2017年4月15日撮影)

 日本政府は同じ日の閣議で、北朝鮮への新たな独自制裁として、中国の銀行と船舶会社などの5団体と9個人を資産凍結の対象に追加。これに対して中国政府は「安保理決議の枠組み外での一方的な制裁に反対。中日関係に重大な障害になる」と述べた上で、「某国(注:米国のこと)に追随すれば自らも報いを受ける」と警告した。

 日本の北朝鮮への独自制裁は、でき得ることはすべて実行してしまった状態。そのため、米国が開始した北朝鮮とつながりの強い中国の企業・個人への制裁を日本でも始めた。これは、日中関係に影響するという大きなリスクがあるにもかかわらず実行した。日本の北朝鮮政策は、日本の「国益」を無視し、完全に米国に追随している。

 そもそも北朝鮮の核兵器と大陸間弾道ミサイルの開発は、米国に体制保障を認めさせることを目的に行われてきた。日本や韓国にそれらを使うことなどあり得ない。北朝鮮が、米国との戦争になれば日本と韓国へも攻撃すると言っている理由は、米国に追随・加担して北朝鮮への軍事的・経済的圧迫に極めて積極的だからだ。

 米国が、北朝鮮が求める朝鮮戦争の休戦協定を平和条約にすることを頑なに拒んでいることが現在の深刻な事態を招いている。その米朝対立に、なぜ日本が首を突っ込み、戦闘・戦争に巻き込まれるリスクを負う必要があるのか。

 安倍首相は第1次政権の時から、日本を「戦争のできる国」にするため着実に準備してきた。そして今、危機を最大限に煽っている。政府の指導により始められた北朝鮮からのミサイル攻撃に備えた避難訓練は、すでに8カ所の地方自治体で行われ全国へ広がろうとしている。

 米国が北朝鮮との対話へ踏み出せば「北朝鮮の脅威」は一気に解消する。米国内には、もはや北朝鮮との話し合いしかないとの声があるというが、日本ではほとんど聞かれない。メディアは、北朝鮮の核・ミサイル問題の本質を正確に報じるべきだし、日本をこれほど危険な状態に陥れた安倍政権の責任を追及すべきだ。

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北朝鮮国民の命はどうでもいいのか

 7月8日、安倍晋三首相はドイツ・ハンブルクで開催された「20カ国・地域首脳会議(G20)」の場で中国の習近平国家主席と会談。その際、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への制裁として、石油輸出の停止を要請した。これは米国・トランプ大統領が強く主張していることで、首相の発言はそれに追随したものだ。

咸興の通勤通計
咸興(ハムフン)市中心部で自転車通勤する人たち(2017年4月12日撮影)

 北朝鮮は鉱物資源に恵まれているものの、まったく産出できない石油は全量を輸入している。そして、その多くを中国に頼っているのが現状だ。もし、中国が石油供給をすべて止めたならば、北朝鮮は極めて大きな打撃を受ける。

 日本ほど石油に依存した社会構造ではないものの、社会のさまざまな機能が麻痺する。そして何よりも深刻なのは、数十万・数百万の餓死・凍死者が出ることだ。そのことは、1990年代後半に北朝鮮で起きた水害・干ばつでの被害からすれば、容易に推測できる。

 6月21日、石川県の谷本正憲知事は「(地元の)志賀原発を狙う暴挙をするなら、兵糧攻めにして北朝鮮の国民を餓死させなければならない」と発言。これについての報道陣の質問に対して「(北朝鮮)国民が痛みを感じる制裁をしなければ意味がない」と述べた。

 日朝関係は、戦闘・戦争が起きても不思議ではないほど最悪で危険な状態に陥った。責任ある立場の政治家である安倍首相と石川県知事の発言には、北朝鮮国民の命を何とも思っていないことが明確に表れている。「敵国」には、何をしても構わないとでもいうのだろうか。その人権感覚のなさに驚くが、日本がいかに非民主主義国家なのか改めて思い知らされる。

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歴史的・大局的視点で設立された朝鮮の「日本研究所」

 昨年12月、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に「日本研究所」という機関があることが相次いで報じられた。3日付の朝鮮総連機関紙「朝鮮新報」はその存在を明らかにしただけだったが、21日付の朝鮮政府機関紙「民主朝鮮」は「日本研究所」研究員による論評を掲載した。日本政府が、朝鮮の弾道ミサイル発射に対して住民参加の避難訓練を検討していることを非難する内容だった。

曺喜勝
インタビューに答える曺喜勝氏(2017年4月13日撮影)

 2014年5月の「日朝ストックホルム合意」に基づき、朝鮮に「特別調査委員会」が設置され、「日本人調査」が進められた。ところが、2016年1月に朝鮮が行なった核実験を理由に日本は追加制裁を実施。そのため朝鮮は「特別調査委員会」を解体した。それ以降、日朝政府間での動きは止まったままだ。

 そうした時に突如として、「日本研究所」の存在が明らかにされた。この最悪の日朝関係の中で日本の何を研究しようというのか。日本への何らかのサインなのか・・・。さまざまな憶測が飛び交った。

朝日関係研究の必要性

 そうしたこともあり、今年4月の朝鮮取材では「日本研究所」について説明してくれる人へのインタビューもリクエストしていた。それについて、歴史学者の曺喜勝(チョ・ヒスン)さんから13日に話を聞くことになった。

 私の朝鮮での取材は歴史的出来事に関するものが多いため、歴史学者からたびたび話を聞いてきた。曺さんとは、2007年に知り合ってから何度も会っている。曺さんは、日本敗戦の混乱の中で死亡した日本人の埋葬地調査を中心になって行い、2012年から訪問が始まった埋葬地への墓参団を案内して回った。

 今回、改めてもらった名刺の肩書はさらに増え、「歴史学会常任委員長」「社会科学院歴史研究所元所長」など八つもある。その中に新しく「日本研究所上級研究員」というものがあった。

 最近の朝鮮でのインタビューは、その人が日本語が上手であっても通訳を通して答えることが多くなった。ところが曺さんは、最初から流ちょうな日本語で答えてくれた。

――「日本研究所」は学者だけの研究機関なのか。
曺  そうではなく、外務省の外交官・学者・言論関係のジャーナリストなどでつくられた。所長は、外務省の車成日(チャ・ソンイル)日本担当副局長がやっている。設立したのは昨年12月。

――設立した理由は。
曺  日本には朝鮮の、中国には日本というように研究機関がある。朝鮮には今まで、日本について研究する機関がなかった。朝鮮と日本は、歴史的にみても切っても切れない絆がある。だから政治・経済・社会や歴史・文化など、さまざまな面で日本をよく研究しようという趣旨でつくられた。

――研究対象は、日本の植民地時代のことが中心になるのか。
曺  植民地時代だけでなく、古代から中世・近代・現代における朝日関係はどうだったかという研究がやはり必要。また歴史的なことだけでなく、現在の日本の政治・文化や今後の朝日関係についても研究する必要があるとの考えだ。

――近代になると、日本に批判的な内容ばかりになるのでは。
曺  言いづらいけれど、そうならざるを得ない。なぜかといえば、日本による加害行為を仕方がなかったとか、朝鮮を植民地にして良かったという話しが出る。また、植民地支配への謝罪もしないし賠償もしない。それでは批判をせざるを得ない。
 ただ朝鮮と日本との2000年、 3000年の間に、悪いことばかりあったのではない。とくに文化交流の面では「朝鮮通信史」などとても良い場面がたくさんあった。そうしたことについても研究する。

――植民地時代に関する研究内容は。
曺  日本帝国主義による蛮行について。朝鮮人の強制労働・強制連行とか「慰安婦」、細菌戦などに力を入れている。

――日本人埋葬地や残留日本人といったことも扱うのか。
曺  ええ、そうだ。

日本語講座
閑散とした「人民大学習堂」の日本語講座(2016年8月23日撮影)

 また曺さんは、日本語を習うことに関心を持たない若者が増えたと言った。「平壌外国語大学」の日本語「学部」は、希望者が減ったために「学科」になってしまっている。
 昨年8月に私は、朝鮮で最も大きい図書館である「人民大学習堂」へ、社会人を対象とした外国語講座のようすを見に行った。大きな教室に溢れんばかりの聴講生がいたのが中国語で、熱気に満ちていた。その次が英語。そして日本語は、小さな教室にわずか十数人しかいなかった。

 これは言語だけのことではない。私はこの数年の取材の中で、朝鮮の社会が日本に対する関心を急速に失っていると感じていた。曺さんが次のように語った。
 「新しい世代には、日本について何も知らない人がたくさんいる。朝鮮と日本は『近くて遠い国』といわれているけど、今は『遠くて遠い国』になった」

目先の問題しか見えない日本

 朝鮮はどのような日朝関係であっても、日本を歴史的・大局的視点から客観的に捉えようと努力しているようだ。ところが日本は「拉致・核・ミサイル」という現在の問題、つまり自らの利益に関わる目先のことでしか朝鮮との関係を考えることが出来ない。

 日本による朝鮮植民地支配、南北分断・朝鮮戦争といった歴史の上に、核・ミサイル開発をせざるを得なくなった朝鮮がある。そうした歴史を認識・理解しようとせずに、現在の核・ミサイル問題を理由に対話を頑なに拒んでいたのでは、危機的状況の日朝関係はどれほどの歳月が過ぎようとも変わらないだろう。

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北朝鮮との戦争の覚悟を求める安倍政権

 日朝は、さらに敵対関係が進みつつある。今までそれはおもに政府間でのものだったが、安倍政権は国民レベルまで積極的に拡大させようとしている。

平壌風景
平壌市内(2017年4月12日撮影)

 日本政府は4月21日、都道府県の危機管理担当者を集めて説明会を開催し、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)からの弾道ミサイルに対する住民の避難訓練を行うよう指示した。それに従い、各地で訓練が次々と実施されている。

 内閣官房の「国民保護ポータルサイト」で着弾情報が流れた場合の行動を示している。
(1)屋外にいる場合は頑丈な建物や地下街に避難
(2)建物がない場合は物陰に身を隠すか地面に伏せて頭部を守る
(3)屋内にいる場合は窓から離れるか窓のない部屋に移動

 このサイトは、昨年2月以降は月30万~40万件だったが、今年4月には約930万件もアクセスがあったという。

 アジア太平洋戦争中、「防空訓練」が日常的に実施された。総務省のウェブサイトには下記の記載がある。
 「防空訓練は中国と戦争を始めたころから定期的に行われていましたが、太平洋戦争に入ってからは日常化し、家庭の主婦までが参加させられるようになりました。訓練は焼夷弾の処理や消化訓練、防毒マスクのつけ方など実戦的な内容でした。しかし、B29爆撃機による焼夷弾の大量投下の前には日ごろの訓練はほとんど役に立ちませんでした。火を消そうとしてかえって、逃げ遅れてしまい犠牲者の数を増やす結果になってしまったのです」

 現在、日本政府が地方自治体に実施させている訓練はこの70数年前と同じ内容である。さすがに、「竹槍訓練」までやれとは言わないだろうが・・・。

 今年4月・5月、米国による北朝鮮への軍事攻撃が実施される寸前までになった。しかしその時の日本国内には、突如として米朝戦争に巻き込まれるかも知れないことへの驚きと動揺が広がった。

 今月16日には山口県下関市が、韓国の姉妹都市への小学生派遣の中止を明らかにした。朝鮮半島情勢の緊迫化がその理由だという。

 日本政府が全国で実施させようとしている避難訓練は、言葉だけでなく実際に行動させることによって、北朝鮮への恐怖心を感じさせようとするものだ。戦争が出来る国にするため次々と立法を強引に行った安倍政権は、市民に北朝鮮との戦争への覚悟を求めようとしているようだ。

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「拉致問題」で切り捨てられた帰国への思い

「週刊金曜日」2017年6月2日に号へ掲載した記事を紹介する。

 日本敗戦時の混乱で、朝鮮半島北側から帰国できなかった「残留日本人」。そして帰国事業で朝鮮人の夫とともに海を渡った「日本人妻」が取材に応じた。日本政府は、彼女ら朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)で暮らす日本人の帰国や里帰りへの取り組みをやめている。

荒井
荒井琉璃子さん(2017年4月13日撮影)

 1945年8月15日の日本敗戦で、朝鮮半島は北緯38度線で南北に分断。北側を管理したソ連は、そこに居住していたり中国東北地方から逃げ込んだりした日本人の帰国を認めなかった。その年から翌年にかけ、飢えと寒さと伝染病で民間人約2万4000人、将兵約1万600人が死亡。その極限状態の中で親から朝鮮人に託されたり、肉親とはぐれたりした子どもたちがいた。また工場などを動かすために、技術者とその家族が留め置かれた。

 朝鮮半島北側から引揚げた日本人は約32万人。ソ連管理下での日本政府による引揚げ事業は、46年12月から48年7月まで実施された。厚生労働省によると「未帰還者」として家族から届けられているのは1442人。その内訳は男性が約1000人で半数が軍人・軍属、女性は約400人。だが実際は、この数字を大きく上回ると予想される。

 48年9月に建国した朝鮮と、残留日本人帰国のための交渉が始まったのは54年1月。「日本赤十字社」と「朝鮮赤十字会」とのさまざまなやり取りの結果、56年4月にわずか36人が帰国。これ以降は実現していない。

 これまで残留日本人を日本のメディアが取材したことはなく、その実態はまったく分からなかった。だが断片的な情報はあった。清津(チョンジン)市で暮らしてきた日本名・丸山節子さんは、日本の家族と頻繁に手紙のやり取りをし、5回にわたって弟が訪朝。私は丸山さんへの取材を何度か申請したものの「取材を受けるだけの体力がない」として断られていた。

調査は済んでいた
 忘れ去られそうになっていた残留日本人に再び注目が集まったのは2014年5月の「日朝ストックホルム合意」である。それに基づき朝鮮は「特別調査委員会」を設置し「日本人遺骨」「残留日本人・日本人配偶者」と「拉致被害者・行方不明者」について調査することになった。

 私は4月13日に「日本研究所」の曺喜勝(チョ・ヒスン)上級研究員にインタビューをした。「3年前の残留日本人調査の時、私が会ったのは3人ですが9人いました」と流ちょうな日本語で語った。「特別調査委員会」は、発足直後に調査をしていたのだ。

 「その時、朝鮮の赤十字会とメディアが丸山節子さんと会い、テレビで紹介しました。ですが日本からは何の反応もなかった。(日本人埋葬地への)墓参と同じように、日本の問題なのに放置したままです。地方の埋葬地では、開発で失われてしまった場所もあると聞いています」

 19日に、1人の残留日本人が取材に応じてくれることになった。歴史の闇の中に消えようとしていた日本人の朝鮮への残留。その重大な出来事の当事者と会えることに私は興奮した。
その残留日本人が暮らすのは咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市。案内されたのは、建設からかなり年月の経ったアパートだった。リ・ユグムさんの日本名は「荒井琉璃子(あらい・るりこ)」で、1933年1月生まれ。日本語は話せない。

 「咸鏡北道(ハムギョンブクド)会寧(フェリョン)で暮らしていた時に父が徴兵され、間もなく解放を迎えました。家族は日本へ引き揚げるため南へ向かったものの、咸興で汽車から降ろされたんです。ここで私は家族とはぐれ、朝鮮人に育てられて結婚しました」
連絡を取ったことのある残留日本人はいないのかと私が尋ねると「自分のような境遇の人はいない」と言う。他の残留日本人の存在を知らずに生きてきたのだ。

 午後からは、市内中心部にある新興山(シンフンサン)ホテルで「咸興にじの会」の人たちと会う。リ・ユグムさんが会長で、他の5人は「日本人妻」だ。「咸鏡南道人民委員会」の担当者が、概要を説明してくれた。
「この咸鏡南道には、残留日本人が24人と、帰国事業で朝鮮人男性とやってきた日本人妻と子ども308人がいました。今は(合わせて)39人が残っています」

里帰りを望む日本人妻
 日本は朝鮮植民地支配において、朝鮮人を天皇に忠実な「日本人」にしようと「皇民化政策」を実施。その一つとして、日本人と朝鮮人との「内鮮結婚(ないせんけっこん)」を奨励した。その多くが日本人女性と朝鮮人男性との結婚だった。そうした日本人妻が、韓国と朝鮮で暮らしている。
 韓国の場合は、日本敗戦後も生活基盤のある朝鮮半島南側へ残った人や、生活していた日本から帰国する朝鮮人の夫とともに渡った人だ。私が取材した90年代半ばの推定で約1000人。朝鮮は韓国と異なり、59年から84年まで行われた帰国事業で夫とともに渡った人で、その数は約1800人である。

 74年に日本において、朝鮮で暮らす日本人妻の里帰り(一時帰国)を求める動きが始まる。それが実現したのは97年になってからで、2000年まで3回にわたり43人が里帰りをした。そこには2人の残留日本人も含まれていた。99年に村山富市元首相を団長とする超党派訪朝団が、里帰りの継続について朝鮮労働党と合意。だが日朝関係の悪化によって中断されてしまった。

 こうした状況の中で、咸鏡南道で暮らす日本人たちが「咸興にじの会」を設立した。日本と朝鮮との間に虹の橋を架けたいとして名付けたという。昨年11月から活動を開始し、会員は11人。新興山ホテル内に事務室まで設けている。熊本県出身のリ・エイスンさんは日本語で次のように語った。

 「2002年の第4回里帰りに参加することになり荷造りまでしていたのに、日本政府が中止にしてしまったんです。どれだけ泣いたのか分かりません。両親の墓参りに日本へ行きたいし、一日でも早く日朝国交正常化を実現してほしいのです」

 残留日本人と日本人妻の帰国については、日本が朝鮮へ長年にわたり強く要求してきたことである。ところが1990年代に拉致問題が浮上すると、これらは顧みられなくなる。それどころか、これらへの取り組みは拉致問題解決の足を引っ張るかのような主張が溢れた。

 2015年の日朝非公式協議において、日本人妻について朝鮮側が「具体的に帰国させる人物を特定してきたが、日本側は応じていない」(「朝日新聞」15年9月23日付)ということがあった。日本政府は「拉致被害者・行方不明者」で満足できる報告がなければ、他のことは完全に無視するという姿勢なのだ。

 14年8月、「特別調査委員会」が丸山節子さんを訪ね、帰国の意思があるかどうかを聞いたという。日本政府が決断すれば、すぐにでも帰国ができる状況だった。ところが丸山さんは15年1月に86歳で亡くなってしまう。

 朝鮮を極端に敵視する安倍政権は、日朝間には拉致問題しか存在しないかのような政策を行い、残留日本人と日本人妻などを切り捨ててきた。そうしている間に朝鮮で暮らす日本人は亡くなり、日本人遺骨の収容は困難になりつつある。

 朝鮮がこうした人道問題を日朝関係改善の糸口にしようとしているのは確かだ。しかしそうであっても、これらの課題に取り組まないというのは棄民政策である。日本政府は、朝鮮で暮らす日本人の帰国と、政府支援による遺族の墓参を早急に実現するべきだ。

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北朝鮮 宋日昊大使に単独インタビュー

 「週刊金曜日」2017年4月28日・5月5日合併号に掲載した記事を紹介する。


宋日昊大使に単独インタビュー
「平壌宣言」を重視しながら人道的課題で日朝関係改善を求める


 朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)が計画する核実験と米韓合同軍事演習により、朝鮮戦争以降で最大の軍事的危機が高まっている。そうした中で朝鮮は、4月15日に金日成(キム・イルソン)主席生誕105年の記念日を迎えた。

宋日昊大使
単独インタビューに応じる宋日昊大使(2017年4月20日撮影)

 宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使は17日、その取材に訪れていた日本メディアの記者団との会見に応じた。私はそれを聞いた翌日、記者団とともに平壌(ピョンヤン)から車で約5時間の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市へ。ここで、残留日本人と日本人妻を取材した。

 84歳のリ・ウグンさん(日本名・荒井琉璃子さん)は、自宅でインタビューに応じた。熊本県出身の両親の間に「京城」(現在のソウル)で生まれる。日本敗戦の混乱の中で家族とはぐれ、朝鮮人に育てられて結婚。中国東北地方と同じ状況がソ連軍管理下の朝鮮半島北部でもあり、残留日本人がたくさんいた。13日に単独インタビューした「日本研究所」の曺喜勝(チョウ・ヒスン)上級研究員は、3年前の調査で残留日本人9人を確認していることを明らかにした。

 咸興市では、在日朝鮮人の夫とともに「帰国事業」によって朝鮮へ渡ったいわゆる日本妻たちによる「咸興にじの会」の会員たちとその事務所の取材もすることができた。

 平壌へ戻った20日夜に、宋大使への3時間に及ぶ単独インタビューが実現した。記者団には語られなかったより突っ込んだ話があった。
 私はまず、残留日本人と「にじの会」を初公開した意図について聞いた。「日本の記者から取材希望があったが、個別に認めると(朝鮮の)工作活動と言われるので、多くの記者が来た時に設定した」と述べた。だが「日本の政府・民間を問わず、(日本人埋葬地)墓参や残留日本人での提起があれば前向きに対応する」と語るなど、人道的課題を見せようとしたのは確かだ。

 宋大使は17日の会見で「ストックホルム合意」は「すでに無くなっており、その責任は日本にある」とした。そして「合意」に基づいて日本人調査を実施していた「特別調査委員会」は「解体された」と語った。

 この発言に対して岸田文雄外務大臣は18日、「まったく受け入れられず、合意履行を引き続き求めていく」と強く反発。私は宋大使に、それをどのように受け止めるか質した。「拉致問題だけを進めるよう求める発言であり認められない。合意とは、破棄すると再び戻すことができないもの」と述べ、復帰する意思がまったくないことを明言した。

 しかし宋大使は「『日朝平壌宣言』は首脳会談によるものなので非常に大切にしており、関係改善の里程標となっている」とした。つまり、金正日(キム・ジョンイル)総書記が署名した宣言は絶対的なものであり、あくまでも守ろうとしているのだ。

 「朝鮮革命博物館」がリニューアルされて3月30日に開館。朝鮮の解放と建国、社会主義建設の歴史が約100室に展示されている。私は外国人ジャーナリストとして初めて取材できた。日本に関する展示室にはパネルや写真、人々の日用品などが並び、植民地支配の実態を細かく解説。昨年6月には、日本・米国との対決の歴史を若い世代に教えることを目的とした「中央階級教養館」がオープンしている。

 宋大使は「『日朝平壌宣言』の中核は過去の清算であり、これを抜きにして実りある関係は結べない」と語った。その姿勢を改めて示しながらも、日本国内で批判が出にくい人道課題で対話の糸口を再び探る。これが現在の朝鮮の、日本に対する方針のようだ。

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金正男事件でわかった「脱北」への日本人記者の関与

 2月24日、金正男(キム・ジョンナム)氏の死因についてマレーシアの警察長官はVXによる殺害と断定したと表明。いくつものマスメディアは、それを実行したインドネシア人とベトナム人の女性が、二つの毒物を金正男氏の顔面で混ぜてVXにしたとの推測を流している。果たしてそのようなことが可能なのか、マレーシア政府は解明する必要がある。

 他に気になるのは、クアラルンプール空港で死亡したのは金正男氏ではないとの報道があることだ。2月24日に発売された講談社『フライデー』(3月10・17日号)は、「金正男の遺体から消えた『虎と龍の入れ墨』のナゾ」との記事を掲載。インターネット・メディアでも同様の記事が出ている。

 その内容は次のようだ。2013年に「フジテレビ」記者へ金正男氏から送られてきたという写真には、腹部と肩に大きな入れ墨がある。18日にマレーシアの『NEWS STRAITS TIMES』紙が、空港にある診療室の椅子で仰向けになった金正男氏の写真を掲載。それには、Tシャツの下に見えている腹部に入れ墨がないように見えるのだ。

 つまり死亡した人か、入れ墨をした人のどちらかが金正男氏ではない可能性があるというのだ。マレーシア政府はこの点についても、親族へのDNA鑑定によって明らかにする必要がある。

 この事件によって北朝鮮への関心が高まる中で、普段では取り上げられないような話が記事になっている。韓国の『ハンギョレ新聞』電子版(2月23日付)は「[コラム]北京の北朝鮮担当日本記者たち」との記事を配信。

 その中に注目すべき内容がある。「北朝鮮の実態を取材しようと(中国)東北地方で脱北者に接触して、こころならずも脱北の過程に介入したという記者もいた」。つまり、日本人記者が「脱北」の手助けをしたということなのだ。

 「ハンギョレ新聞」という同業者に日本人記者が気を許して語ったことなのだろうが、これは重大な問題である。つまり、国家関係にも大きな影響を与える可能性がある極めて政治的な「脱北」に、取材者という一線を越えてかかわった。その時に明らかになればその責任を問う「事件」となったのであろうし、所属するメディアからの処分を受けたかも知れない。

 韓国の次期大統領は、北朝鮮との融和・関係改善を目指す候補者が当選する可能性が高い状況だが、今回の事件でそれを阻止しようとする保守勢力の勢いが増している。米国のトランプ大統領は「ロイター通信」に対して、金正恩(キム・ジョンウン)委員長とのトップ会談の可能性について「もう遅すぎる。我々は彼がやってきたことに非常に怒っている」と述べた。

 北朝鮮に対する非難が高まるならば、米国と韓国による北朝鮮への軍事攻撃の可能性が高まるのは確かだ。

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メディアは北朝鮮の現地取材をすべき!

 2月13日に死亡した金正男(キム・ジョンナム)氏について、錯綜した報道が続いている。テレビ各局には、近年は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪れたことがない「北朝鮮評論家」のほぼすべてが登場。

 彼らの金正男氏死亡に関する話は推測ばかりである。そもそも情報が少ないので無理はない。スタジオに呼ばれてコメントを求められたら、確信がなくても、無理やりでも何らかの発言をせざるを得ないということがある。問題は、その発言が「事実」として広がることだ。

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主体(チュチェ)思想塔とマスゲームの練習が行われている金日成(キム・イルソン)広場(2016年8月23日撮影)

 新聞とテレビの多くは、金正男氏の死亡を「北朝鮮による毒殺」と事実上の断定をしている。だが、マレーシア当局の発表がない現在(2月18日午前11時)、それは推測でしかない。結果がどうであれ、確たる証拠がない現状では「容疑」とすべきだ。その危うさを、マスメディアは百も承知で報道している。「北朝鮮バッシング」は人々に関心が持たれ、雑誌の発行部数やテレビの視聴率が上がるからだ。

 2月17日、「東京新聞」編集委員の五味洋治氏が、「外国人特派員協会」で会見を開いた。五味氏は2012年5月に「父・金正日と私 金正男独占告白」という金正男氏への取材を本にしている。出版に先立つ1月28日には「東京新聞」へインタビュー内容を掲載。本には、記事掲載後に金正男氏から届いたメール内容が紹介されている。

 「東京新聞に掲載された記事内容が北朝鮮を刺激したようです。一種の警告を受けました。追加の記事掲載は当分保留して下さい」(「父・金正日と私」143頁)

 記事と本が出たことで、金正男氏と北朝鮮との関係は決定的に悪くなったと私は思う。五味氏はそれについて、会見で次のように述べた。

 「金正男氏には、私がこれまで積み重ねてきた取材、Eメールについて、本にしてもいいかということについては許可を受けています。ただし、『タイミングが、今は悪い、ちょっと待ってほしい』と言われたのは事実です。私はタイミング的には非常に微妙な時期ではありましたが、彼の思想や北朝鮮に関する考え方、人間性を伝えることこそ、北朝鮮に関する関心を高め、理解が進み日本だけでなく他の国との関係が改善されるという信念のもとに、本を出版いたしました」(アンダーラインは筆者)

 これは完全に言い訳でしかない。スクープ取材を発表したいという五味氏の記者としての気持ちは痛いほど分かる。だが、「本の出版を一番反対したのは、私の妻です」と述べているように、出版は金正男氏にとって非常に大きなリスクになることを十分に認識していたが、それでも出版に踏み切った。このことについて五味氏は会見で次のように語っている。

 「『北朝鮮は経済の改革開放、中国式の改革開放しか生きる道はない』とも言っていました。この発言を報道したり、本にしたことで彼が暗殺されたとみなさまがお考えなら、むしろこういう発言で1人の人間を抹殺するという、そちらの方法に焦点が当てられるべきでしょう」(アンダーラインは筆者)

 これは「北朝鮮による犯行」を持ち出すことで、自らの判断を不問にしようとするものだ。ただ、共感できる発言もあった。

 「この3日間、英語圏・中国圏・韓国語圏、数百件の電話をいただきました。私はみなさまがたにお勧めします。私に対してすべての答えを得ようとせず、ご自分で直接ソースにあたって、取材をしてみてください。それが北朝鮮を変える力になります」

 「北朝鮮を変える力」ではなく「北朝鮮の実態に迫る」ということだと思うが、日本や海外のメディアは自ら北朝鮮取材をすべきである。現状は、北朝鮮へ取材に行きもせず、怪しげな情報に飛びついて不正確や間違った報道をしている。

 私は山ほど出した取材申請のほとんどを断られながらも、何とか35回の現地取材を実現させた。北朝鮮取材には大きな制約があるが、それでも現地でさまざまな取材を実現させるための努力をするべきだ。

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「北鮮」との宛名で公文書を送った広島県

 『週刊金曜日』2017年1月20日号に掲載した拙稿を紹介する。

「北鮮」との宛名で公文書を送った広島県
差別表記に朝鮮の被爆者は強く抗議


 朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で暮らす被爆者だけが、日本政府の援護措置から除外されている。そうした中で、広島県がようやく送付した文書の宛名には差別表記があった。

朴文淑さん
 厳しい表情で「北鮮」表記の宛名について語る朴文淑さん。1992年の「原水禁大会」に、朝鮮の被爆者代表として派遣された際に「被爆者健康手帳」を取得した(2016年8月22日撮影)

 昨年8月22日、「平壌高麗(ピョンヤンコリョ)ホテル」の会議室。朝鮮を訪れた日本人グループを前に、朴文淑(パク・ムンスク)さんが長崎での被爆体験を語り始めた。

 「私が被爆したのは2歳です。日本人は、朝鮮人の子どもが防空壕の中で泣くのを嫌がりました。そのため、家の中にいて被爆したんです。放射能での汚染を知らされなかったので、一家8人はその場所で生活しました。家族は後遺症で苦しむことになり、がんで次々と亡くなりました。今は私しか生き残っていません」

 話は広島県から朴さんへ送られてきた郵便物のことに移った。すると、それまで穏やかな口調で淡々と語っていた朴さんが急に声を荒げたのである。「医療費等の申請に関するご案内」が入ったその封書の宛名には「北鮮(ほくせん)民主主義人民共和国」と書かれていたというのだ。それまでは朝鮮語で語っていたが、通訳を通して自分の怒りを伝えるのがまどろっこしくなったのか日本語で話し始めた。

 朴さんはかなり前から、深刻な心臓疾患を抱えている。頻繁に心臓発作を起こして病院へ運ばれているため、家族からは外出を止められているほどだ。それにもかかわらず、あまりにも感情を高ぶらせているので、この場で倒れるのではないかと私は心配になった。

 「北鮮」という言葉は、1910年の日本による「韓国併合」から日本人によって差別的に使われてきた。「北朝鮮」という呼び方も同じで、その地域で暮らす人たちはそのように呼ばれることに強く反発している。

●日本に棄てられた朝鮮の被爆者
 被爆した朝鮮人は広島で約5万人、長崎で約2万人と推定されている。1945年の解放後、朝鮮半島北側へ帰国したのはそれらのうちの約3000人という。「朝鮮被爆者協会」などによる2007年の調査で、1911人の被爆者を確認したものの1529人がすでに死亡していた。調査から10年たった今、生存者はごくわずか。

 韓国など海外で暮らす被爆者とその支援団体による長年の闘いにより、在外被爆者に対しても日本政府は援護措置を実施するようになった。「被爆者援護法」にもとづき、「健康管理手当」などを支給。それは日本と国交のない台湾の被爆者へも実施されている。ところが、唯一の例外となっているのが朝鮮である。
 「被爆者健康手帳」を持っている朴さんへは、援護措置の実施どころか関係書類さえ送付してこなかった。これは明らかに「被爆者援護法」に反する行為である。

 01年に、日本の外務省・厚生労働省による政府調査団が平壌へ派遣された。被爆者の実態把握後に、援護措置を検討することになった。しかし日朝関係の悪化により、完全に反故にされてしまった。朴さんの怒りは宛名のことだけでなく、朝鮮で暮らす被爆者だけが日本政府に棄てられてきたことにある。

 最高裁判所は15年9月8日、「被爆者援護法」にもとづき在外被爆者への医療費の支給を認める判決を下した。その判決を受けて11日に、「韓国の原爆被害者を救援する市民の会(市民の会)」(市場淳子会長)が厚労省と交渉。在外被爆者への文書は、朝鮮の被爆者へも送付することが確認された。同年10月、「市民の会」は「被爆者実態調査票」を朴さんへも送るように要請。厚労省は長崎県を通して送付した。この時初めて、朝鮮の被爆者に日本政府から被爆に関する文書が送られたのである。

 昨年5月になり、在外被爆者に「医療費等の申請に関するご案内」が送付されたことを「市民の会」が知る。朴さんへの送付を厚労省に確認したところ、送られていないことが判明。この医療費申請の窓口は、韓国居住者だけが長崎県、それ以外の国は広島県となっている。そのため厚労省は広島県に指示して送付し、そのことを「市民の会」へ連絡した。

 私は、この2通の文書が朴さんへ届いているかどうかを「朝鮮被爆者協会」へ問い合わせた。すると「広島県からのものだけ受け取っているが、それについて会ってから話したいことがある」との返事だった。その話というのが、宛名の「北鮮」表記だったのである。

●体質的な敵視政策の表れと抗議
 9月19日、朴さんは厚生労働大臣と広島県知事に抗議文を送付した。「朝鮮被爆者協会」の副会長をしているとはいえ、朝鮮の一市民が日本の政府や行政へ文書を送るのは極めて異例なことだ。

封筒全体
宛名部分
朴文淑さんが「広島県健康福祉局被爆者支援課」から受け取った「北鮮民主主義人民共和国」と書かれた封書とその宛名(提供/朝鮮被爆者協会、画像の一部にぼかし)

 「(「北鮮」と)公文書に表記することは、わが国の被爆者に対する冒涜。担当者の無知から生まれたミスではなく、行政末端から政府当局にいたるまで貫かれた日本の体質的な反共和国敵視政策のあらわれ」

 そのように批判した上で「この問題に厳重に抗議し、広島県当局が公式に謝罪文を送ることと、関係者を厳しく処罰することを強く要求する」としている。

 この翌日、「広島県原水禁」代表委員で元衆議院議員の金子哲夫さんが、広島県庁の健康福祉局被爆者支援課へ事実確認のために出向く。朴さんへ送った「北鮮民主主義人民共和国」の宛名データは残っていた。
 「(宛名は)公式な文書ではない」と言った担当者に金子さんが抗議すると訂正された。ところが担当者は次に「私たちも一生懸命に支援している」と語ったのだ。それに対して金子さんは「今回のことは、裁判で(行政が)敗訴したことによる作業で発生したのであって、支援という認識はどこから出てくるのか」と批判した。

 韓国などの在外被爆者たちが40年以上も日本の政府や行政と闘い、ようやく日本国内の被爆者と同じ援護が受けられるようになった。被爆地・広島の被爆者援護の担当窓口でさえ、そのことをまったく理解していないというひどさだ。

 10月7日、広島県は健康福祉局長名の「お詫び文」を朴さんへメールと郵便で送付した。それには、パソコンでの宛名の入力ミスによって「あってはならない表記となってしまった。特別な意図を持って行ったものでない」としている。

 日本政府が朝鮮の被爆者へ、援護措置や医療支援など何一つ実施してこなかったのは、朝鮮への敵視・差別政策によるものだ。広島県による「北鮮」表記は、その異常な政府政策の反映である。

 朴さんは抗議文の中で「国家賠償とは別途に、被爆者やその子どもの原爆症治療に必要な医療設備や医薬品の提供など、人道的な医療支援措置を講じるべき」としている。朝鮮の被爆者は、医療支援を緊急に必要としているのだ。

 朴さんが、「北鮮」表記の宛名は反朝鮮政策の表われと批判し関係者の処罰を求めていることについて、私は広島県の「被爆者支援課」へ質問した。それに対して「当事者間でやり取りをしていることなので回答を差し控える」と連絡してきた。

 そして厚労省の「原子爆弾被爆者援護対策室」には、朝鮮の被爆者だけを援護対象から除外している理由などを質した。すると「(朝鮮の被爆者も)出来る限り同じように扱いたいとは思っているが、出来ることできないことが被爆者施策と違うところで発生している」とした。日朝の国家関係が最悪であるため、「被爆者援護法」の順守ができずにいるということだ。

 日朝の非公式接触が昨年9月以降、中国で数回にわたって行なわれている。だが日本政府は朝鮮に対して強力な独自制裁を実施しており、具体的成果を得るのは容易ではないだろう。日本政府はこうした状況でこそ、朝鮮の被爆者や朝鮮北部での大水害の被災者への人道支援を行なうことで、少しでも信頼関係を築くべきではないか。

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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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