北朝鮮 里帰りを熱望する在朝日本人妻たち

 『週刊金曜日』2018年6月8日号に掲載した記事を紹介する。

 朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と米国との激しい駆け引きが続いている。一方で、朝鮮敵視政策を続けてきた日本政府は、交渉の糸口さえ見いだせずにいる。そうしたなか、日本への里帰りを強く望む人たちが朝鮮にいる。在朝日本人妻7人と1人の遺族を、首都・平壌(ピョンヤン)と地方都市で時間をかけた取材をした。

在朝日本人
咸興(ハムフン)で暮らす在朝日本人たち(2018年2月22日撮影)

 半年後に、こうした形で「再会」するとは思っていなかった。昨年8月にこの部屋でインタビューした時には、寡黙ながらも日本へ再び里帰りする希望を語っていた。その人は今、小さな額縁の中におさまっている。岩瀬藤子(朝鮮名:リ・ミヒョン)さんが亡くなったのは今年1月3日。偶然にも、その日は78歳の誕生日だった。
 岩瀬さんの息子のキム・テソンさん(40歳)は「『日本は地理的に近いが遠くて行けない国』とお母さんが言ったことがあります。高齢になって、故郷を思い出したのだと思います」と語る。1人の日本人が、望郷の念を抱きながら亡くなってしまった。
 朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市は、首都・平壌から車で5時間以上かかる。私はそこを、昨年4月からの1年間に4回も訪ねた。この地に、たくさんの日本人女性が暮らしているからだ。彼女たちは「咸興にじの会」という日本人の親睦団体を結成し、岩瀬さんは副会長をしてきた。この会は建設現場へ支援物資を送る活動もしている。「お礼の返事はあるのか」と私が質問すると、「くる時もあれば、こない時もある」と岩瀬さんがぶっきらぼうに答えたので、その場にいた日本人妻たちと大笑いをした。
 この「咸興にじの会」の会長は、日本敗戦前から朝鮮で暮らしてきた85歳の荒井琉璃子(朝鮮名:リ・ユグム)さん(『週刊金曜日』「大国に翻弄され続けた“最後の朝鮮残留日本人”」2017年12月8日号参照)。
 「亡くなってすぐに家へ行き、顔を撫でてあげました。本当に寂しいですね。残念です。1人また1人と亡くなってしまうので・・・」
荒井さん宅に集まった3人の日本人妻が、その言葉にうなずく。咸興ではこの半年で、岩瀬さんの他にもう1人亡くなったという。
私が今年2月に取材を予定していた日本人妻4人のうち、2人も死亡していることが平壌へ着いてからわかった。それが岩瀬さんと、日本へ帰国したものの朝鮮へ戻った平島筆子(朝鮮名:アン・ピルファ)さん(79歳で死亡)である(『週刊金曜日』「日朝関係に翻弄された劇的な人生」18年3月16日号参照)。

●帰国事業と日本人妻
 1959年12月から在日朝鮮人の帰国事業が始まり、9万3340人が朝鮮へ渡る。その中の日本国籍者は6679人。朝鮮人と結婚していた日本人配偶者はそのうちの1831人で、ほとんどが女性だった。なぜそれほど多くの日本人女性が、見ず知らずの国へ渡る決断をしたのだろうか。
 日本の植民地支配によって、朝鮮半島から膨大な数の朝鮮人が日本へ渡ってきた。過酷な植民地政策によって生活できなくなった家族や、本人の意思に反して「徴用」などによる労働者として玄界灘を越えてきた。日本で暮らす朝鮮人は、もっとも多かった44年には約194万人にもなる。45年8月に祖国が解放されても、約30%の人たちが日本へ残った。だが在日朝鮮人の多くは、民族差別と失業による貧困で苦しむ。59年ごろには生活保護受給者は約8万1000人にも達し、年間経費は約16億9000万円にもなっていた。
 外務省から「日本赤十字社(日赤)」へ派遣された外事部長は「日本政府は、はっきり云えば、厄介な朝鮮人を日本から一掃することに利益を持つ」(『在日朝鮮人帰国問題の真相』井上益太郎)とした。日本政府は財政負担を減らすために、在日朝鮮人を追放したいと考えていたのだ。「日赤」は54年1月に「朝鮮赤十字会(朝赤)」へ文書を送る。
 「もし帰国が許されるならば、その便船を利用し、日本にある貴国人にして帰国を希望するものを帰国に帰すことを本社は援助したい」(『日本赤十字社社史稿』第6巻)
 つまり、朝鮮残留日本人の帰国と在日朝鮮人の帰国をセットで進めようという提案なのだ。このように、帰国事業が始まるきっかけは、日本側がつくっていた。
 一方の朝鮮は、中国とソ連の対立が深刻化する中でそれらの国と距離を置き、日本との関係改善を模索していた。55年2月には南日(ナム・イル)外務大臣が国交正常化を呼びかける。そして58年9月に金日成(キム・イルソン)首相(当時)は「共和国政府は在日同胞が帰国して新しい生活ができるようにすべての条件を保障する」と表明。こうして両国政府の思惑が一致し、熱気を帯びた大規模な帰国運動へと発展していった。しかも『産経新聞』や『読売新聞』を含むマスメディアは、朝鮮戦争による廃墟から急速に復興する朝鮮を褒め称え、帰国運動の後押しをした。
 帰国する在日朝鮮人のほとんどは、出身地が朝鮮半島南側だった。しかし韓国では李承晩(イ・スンマン)大統領による軍事独裁政権が続いていたため、社会主義体制の朝鮮半島北側へ渡ることを決断した人も多い。

●未知の国への渡航
 「日本では、朝鮮人への差別があったんです。今でもそうですか?  選挙で朝鮮人は投票できないので、夫に申し訳ないと思いながら私一人で投票所へ行きました。そしてお腹の子どもは、学校で日本人の子どもたちからいじめられ、思うように勉強できないだろうと思ったんです」
 このように中本愛子(朝鮮名:キム・エスン)さん(86歳)は、民族差別から逃れるために朝鮮行きを決断したという。他の日本人妻や帰国者も、子どもの教育のために一家揃ってとか、学費がなくて断念した大学で学ぶために朝鮮へ渡ったと語る。私は中本さんに、両親が渡航に反対しなかったのか聞いた。
 「お父さんは『嫁ぎ先のいうことを聞かないといけないので行きなさい』と言いました。ですがお母さんは、病身だったこともあり長女の私を頼っていたので泣きながら反対しました。私は『3年したら里帰りできる』となだめたんです」
 岩瀬さんも「3年経ったら日本と朝鮮を行き来することができるという話があり、別れることを深刻に思う人はいませんでした」という。取材したどの日本人妻たちも「3年で里帰り」という話を聞いたというが、その出所はわからない。
 59年8月に「日赤」と「朝赤」は、インドのカルカッタ(現コルコタ)で帰国事業についての協定に調印。その年の12月14日、最初の帰国船が新潟港から清津(チョンジン)港へ向かった。
 「わたしたち帰国者は歓迎の人たちと接した埠頭で、またショックを受けた。彼らのほとんどはやせていた。(略)男性が身に着けていた服装ときたら、眺めているだけで悲しくなるほど粗末である」(『帰国船』鄭箕海)
 そしてここで、中本さんが目撃した光景がある。
 「日本人妻の中には、船から降りた埠頭で朝鮮人の夫と喧嘩した人がいます。『私を騙した。すぐに日本に帰してくれ』と言って・・・」。
 しかしこうしたようすを見ても、中本さんは何の不安もなかったという。朝鮮は、朝鮮戦争での米軍による攻撃で焦土と化した。最初の帰国船が出たのはその休戦からわずか6年後。復興は始まったばかりであり、食料・日用品や住宅の不足は深刻な状況だった。過剰な宣伝によりつくり上げられた「地上の楽園」と現実との落差に失望した人もいれば、どのようなことでも受け入れようと覚悟して渡った人もいるのだ。
 帰国事業は84年7月の第187次船まで続いたが、帰国者の80%にあたる7万4779人は61年末までの約2年間に渡航。そのため帰国船は、月に3~4回も清津へ入港した。朝鮮では、押し寄せるようにやって来る人々への対応が追いつかない状態に陥る。帰国者たちは、清津や咸興での数日間の滞在中に行き先が決まった。だがこうした状況から、自分の希望と異なる地域や職場・学校へ配置される人たちが出たのである。しかも帰国希望者を、審査や選別することなく無条件ですべて受け入れたため、渡航してきた帰国者の半数以上は財産をほとんど持っていなかった。また、世話をする多数の人員を用意する必要があった。十分な対応ができるような状況ではなかったのだ。

新井好江さん
日本人妻の新井好江さん(2018年2月28日撮影)

●生活はさまざまな
 「来た当時は朝鮮の言葉も文字もわからないし、日本人はいじめられるのではと不安でたまりませんでした。ところがみんな優しくて親切で、お店へ行くと『日本から来たのだから最初に買いなさい」と言ってくれたんです」
 中本さんはこう語る。同じような話は他の日本人妻からも聞いた。彼女たちが朝鮮へ渡った時期は、まだ朝鮮戦争の傷跡が残っていた。
 「田んぼに爆弾の大きな穴が空いていて、不発弾が見えたのでウワーと思ったんです。戦争復興のために私も動員され、初めてスコップを持って作業をしました」
 しばらくそのようなことをしていた中本さんは、働きに出ることにした。
「編み機でセーターを編む職場です。ノルマを200%達成したのでみんなから栄誉だと言われ、温泉旅行にも行かせてもらいました」。
 在日朝鮮人帰国者やその日本人妻が、「脱北」してから書いた手記がいくつか出版されている。差別されて社会的に低い地位に置かれている、収容所へ入れられたり行方不明になったりした人がいる、地方都市で貧しい生活をしているなどと書かれている。それらによって、日本では朝鮮に対する極めて悪いイメージがつくられた。率直に話をしてくれる中本さんに、そうしたことがあるのかと聞いた。
 「私の夫は朝鮮へ来てからも日本と同じ運転手でしたが、商売してお金を持ってきた人はここでも裕福な生活をしていました。日本の都会から来て、やったこともない農業をした人は苦労したでしょう。だけど、日本人だからといってそうしたんではないですよ。それは運なので、仕方ないんです」
 帰国者の生活水準は、日本の親族による送金や訪問があるかないかでも大きく異なっている。私は取材で平壌や地方都市の個人宅を数十回訪ねており、差があることははっきりとわかった。また帰国者は10万人近くいたのであり、その中には日本とまったく異なる社会体制を受け入れることが出来なかった人もかなりいただろう。
 日本人妻は帰国事業の犠牲者のようにいわれてきたが、それは正確ではない。社会的に大きな評価を受けている帰国者や日本人妻もいる。取材先で、そういった人と偶然出会うことがたびたびあった。農業や歴史の研究機関で働く学者、病院の医師、大規模なインフラ整備を担当する行政機関の幹部、そして海外との交流をする機関の責任者とさまざまだ。
 日本人妻の新井好江(朝鮮名:シン・チョンホ)さん(85歳)は、日本では病気になっても病院へ行くことができないほど貧しかった。夫とともに子ども4人を連れて、何の財産も持たずに朝鮮へ渡る。そしてすぐに、「平壌日用品総合工場」で夫婦揃って働き始めた。新井さんの作業はカバン製造だった。
 「工場で働いていた87年11月に、住んでいる船橋(ソンギョ)区域の人民委員会から呼び出されました。そして、この区域の『出版物普及所』の所長に任命されたんです。図書を、企業や学校へ配布する機関です。それまでの仕事とまったく違いましたが、69歳まで張り合いのある仕事ができました」
 朝鮮で日本人妻が置かれた社会的状況は実にさまざまである。家庭生活や仕事がうまくいき幸せだと思っている人もいれば、ここでの生活に馴染めなくて失敗したと思った人もいるのだ。
 「脱北」して日本へ帰国したものの再び朝鮮へ戻った人は平島筆子さんだけではない。石川一二三さんは在日朝鮮人のト・サンダルさんの三女で、60年に両親とともに朝鮮へ。2003年10月に「脱北」して日本で暮らしていたが、07年6月に朝鮮へ戻った。平島さんと同じように、再び朝鮮の家族と暮らすために支援者の説得を振り切って戻ったという。別れて暮らす日本の肉親、新しく築いた朝鮮の家族との間を行き来できないために起きたことだ。
 日本人妻や在日朝鮮人帰国者は、国交正常化が実現すれば日朝間を自由に往来できると信じていた。ところが国交は、朝鮮植民地支配の終焉から73年たっても結ばれていない。日本人妻たちの苦難は、日朝に国交がなく日本が朝鮮を敵視していることが根本的な原因だ。

●里帰り事業は3回
 1991年1月に日朝国交正常化交渉が始まる。それにより、日本政府が要求してきた日本人妻の里帰り事業が97年11月から開始された。その第1回は15人で、98年1月に12人、2000年9月に16人の、合わせて43人が里帰りをした。
 「成田空港の記者の多さにはびっくりしちゃった。でも、嬉しかったんです。『おかえりなさーい』ってみんなが言ってくれてね」
第1回に参加した新井さんはこう語る。同じ回で岩瀬さんも里帰りし、兄弟と会ったり墓参をした。
 「37年ぶりに帰ったので『浦島太郎のような日本人妻の里帰りが実現した』って新聞に出たのを覚えていますよ。日本では慌しかったのですが、行って良かったです。気持ちの踏ん切りがつきました」
 わずか2泊3日の滞在であっても、願い続けてきた里帰りをしたことで大いに満足できたのだろう。
 だが、中本さんが参加予定の2002年10月の4回目の里帰りは「延期」と発表された。
 「やっと私も行けると、喜んでいました。17人が一緒に日本へ行くことになり、飛行機に乗る日も決まっていました。この少し前に小泉首相が朝鮮へ来ていたので、うまく行くだろうと安心していたんですよ。ところが、平壌で見物したりして待っていたら急に中止になったんです。日本の方で来るなと言ったんです。なぜ里帰りさせてくれないのかと、恨んで恨んで泣きました」
 当時を知る外務省関係者が、その理由を明かしてくれた。02年9月の小泉純一郎首相の訪朝によって朝鮮が拉致を認めたことで日本の世論が悪化し、実施できなくなったという。この第4回目の延期は、そのまま里帰り事業の中止になってしまった。「一緒に行くことになっていた人のうち、5~6人がすでに亡くなってしまった」と中本さんは悔しそうに語った。
 この後、99年に村山富市元首相を団長とした超党派訪朝団が里帰り事業の再開を要請。朝鮮労働党と合意したものの、日朝関係がさらに悪化したために実施されなかった。

●唯一の日本人組織
 日本人妻たちの話からすると、朝鮮へ渡った日本人6679人のかなりがすでに亡くなっているのは確かだ。またその消息は、帰国者とその配偶者である日本人妻の世話をしている「海外同胞事業局」でも、もはや全体を把握できていないようである。
 そうした状況の中で、しかも地方都市の咸興において日本人妻11人が集まり、16年11月に残留日本人を会長に「咸興にじの会」を結成。これは朝鮮にある唯一の日本人組織であり、極めて異例なことだ。
ともに積極的な生き方をしてきた荒井さんと岩瀬さん・中本さんは、姉妹のように仲良くしてきた。子や孫の世話になるようになって時間ができ、この3人が行政機関に働きかけた。
 「日本人に何の差別もなく良くしてくれたこの国のために、何かしようということで『にじの会』をつくりました。月1回は集まって、話しをしたりごはん食べたりして過ごしています。これが楽しくて、時間を忘れるほどなんですよ」
 このように中本さんは語る。だがこの会は高齢者ばかりなので、岩瀬さんの息子の妻のキム・ウンスクさんが事務をしている。「新興山(シンフンサン)ホテル」内の立派な事務所で「設立目的」を説明してくれた。
① 咸鏡南道で暮らす在朝日本人(残留日本人と日本人妻)の融和と親睦を推進する
② 在朝日本人を差別なく待遇し、すべての生活を保障している朝鮮政府に報いるために社会活動を行なう
③ 朝鮮の政治・社会主義制度などを、日本人民に広く紹介するための活動を行なう
④ 日本政府に、朝鮮敵視政策の撤回と過去の清算をさせるための活動を行なう
⑤ 在朝日本人の自由な里帰りの実現のために努力し、朝鮮内の日本人遺骨と墓参問題の解決のための活動で朝日関係改善に寄与する
 会員たちが高齢であるのに大きな目標を掲げていることを聞くと、その子どもたちの入会を進めているという。
何人かの日本人妻は、日本は植民地支配の清算をすべきと語った。岩瀬さんからは、日本人遺骨の話が出た。
「いっぱい埋まっている日本人の遺骨を早く探し、日本へ持っていってあげるのが本当じゃないのですか? 日本政府に言いたいのは、昔のことをきれいに清算してほしいということです」
 45年8月9日に、中国東北地方や朝鮮半島北部などをソ連軍が攻撃。それを逃れてきた日本人が、ソ連管理下の朝鮮半島北部で4万人近く死亡。咸興とその周辺には、何カ所もの大規模な埋葬地がある(『週刊金曜日』「戦後初の墓参で遺骨に手を合わす遺族の願い」2012年9月14日号参照)。農作業で見つかった遺骨10体の埋葬に、「にじの会」の人たちが立ち会った。身近なところに、日本人遺骨が放置されていることに心を痛めているのだ。

●2時間でも故郷へ
 日本人妻たちに、日本の親族との現在の関係を聞くと誰もが口を濁す。現在でも、手紙や電話で連絡が取れている人はほとんどいないようだ。新井さんは「私は今も日本の兄弟へ年賀状を出しています。『私は生きています』って知らせるためです。ただ3年前に、返事は止まっちゃったけどね」と少し寂しそうに語る。
 中本さんも、兄弟からの手紙が届かなくなって久しい。「生きているのかどうか、それだけでもわかればいいのに。手紙の一つでもくれればと思うんですよ。このまま死ぬのかなあ・・・」と寂しそうだ。そして、51年前に妹から送られてきた古ぼけた手紙を見せてくれた。「宝物です。私が死んだとき、これを一緒に棺へ入れてもらうんです」と語る。
 私が岩瀬さんの写真アルバムを複写していると、日本へ里帰りした時に撮影した兄弟の写真があった。「この写真が日本で公表されたら本人たちの仕事に支障があるので、絶対に出さないでほしい」と岩瀬さんは慌てて手で隠した。
 両親がともに亡くなると、兄弟は連絡を絶つことが多い。日本の肉親たちは最悪の日朝関係が長く続く中で、朝鮮に身内がいることを隠している人がほとんどなのだ。日本へ里帰りした日本人妻で、肉親から会うことを拒否された人もいるという。それにもかかわらず日本人妻たちは、日本の親族に迷惑がかからないように気遣っている。
 高齢化した日本人女性には、動けなくなって寝込んでいる人も多いという。荒井さんは私が訪ねる10日前に転倒し、腰を強打して自分で歩くことが出来なくなっていた。「いっそ死んでしまいたいよ」と荒井さんが言うと、1歳年上の中本さんが「何でそんなこと言うの、弱音を言わないで」とたしなめた。その中本さんは、次のように願いを語る。
 「お父さんとお母さんが亡くなったとき、長女なのに行けなかったんです。せめて1回でも、『やっと今、長女が会いに来ました』と墓前で言うことができたら、いつ死んでも思い残すことはありません。故郷に1泊できなくても、2時間でも帰りたいです」

●人道問題で関係改善を
 14年5月、ノルウェーで日朝政府間協議が行われ「ストックホルム合意」が発表された。「日本側は、北朝鮮側に対し、1945年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を要請した」(日本外務省ウェブサイト)
 この合意にもとづいて朝鮮は「特別調査委員会」を立ち上げて調査を開始。残留日本人の荒井さんや日本人妻たちも調査を受けた。「特別調査委員会に『(永住)帰国はしたいか』と聞かれたので『そういう気持ちはないが、死ぬ前に墓参りして兄弟に会えれば思い残すことはない』と答えたんです」と新井さんは言う。
 こうした動きに日本人妻の誰もが、里帰り事業が再開されるのではと期待したという。だが日本政府は拉致被害者を優先し、他の項目については調査報告の受け取りさえ拒んだという。非人道的対応である。
 そして朝鮮が16年1月に核実験を行なうと、日本政府はすぐに追加制裁を実施。そのため朝鮮は「特別調査委員会」の解体を宣言し、それ以降は日朝間の政府間協議は止まったままだ。
 朝鮮と韓国・中国との首脳会談により、米朝交渉がどのようになろうとも、昨年と同じ危機的状況に戻ることはない。一方、日朝交渉は、拉致問題がネックとなってまったく進展しない状況が続く。日本政府は、拉致問題「解決」の着地点を明示する必要があるだろう。
 高齢になった在朝日本人は誰もが「死ぬ前に里帰りしたい」と強く望んでいる。日朝交渉の進展と関係なく、すぐに取り組むことができる残留日本人と日本人妻の里帰りを実施すべきだ。もはやその対象者は極めて少なくなっており、過去に里帰りした人も含めるのが現実的である。
 新井さんは次のように語る。
 「地図で見ると、日本と朝鮮は本当に近いところにあるのにね。理解して仲良くなれば、お互いに利益があるんじゃないかと思うんです。戦争にならないわけでしょ。できるなら、私たち日本人妻が日本と朝鮮のかけ橋になりたいです」

米朝首脳会談の日に北朝鮮監視衛星を打ち上げた日本

 6月12日の歴史的な米朝首脳会談の共同声明では、「トランプ大統領は北朝鮮への安全保障の提供を決意。金正恩委員長は朝鮮半島の完全な非核化への揺るぎない固い決意を再確認」としている。トランプ大統領はその後の記者会見で、米韓合同軍事演習の中止や拉致問題を提起したとも言及した。

万寿台の銅像
平壌の万寿台(マンスデ)に建つ最高指導者の銅像(2018年3月2日撮影)

 首脳会談の報道をテレビで見ていたら「北朝鮮側の状況について現地からの中継です」と某テレビ局のキャスターが言う。てっきり平壌(ピョンヤン)からだと思ったら、その「現地」とはシンガポールだった。

 実は私は、今日の歴史的な米朝首脳会談を平壌で取材する予定だった。あるテレビのキー局から、その会談を北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都で取材して欲しいとの急な依頼があった。

 シンガポールからだけでなく、北朝鮮からも首脳会談についての市民の声などを発信するべきとの話に私は共感。平壌から中継などをするために、北朝鮮へ直ちに申請をした。結局、手続きのための時間がなさすぎるとの理由で実現しなかった。

 雑誌・テレビからの私への協力や取材依頼が続いている。その中には、驚くようなとんでもない企画もある。記者などの、会って話を聞きたいという連絡も多くとても対応できない。米朝関係が大きく変わりつつあるため、日本のマスメディアは北朝鮮報道のスタンスを変えようとしているのだ。

 ところが日本の政府の方は、拉致問題解決のために日朝首脳会談を模索しているというが、とてもそれが本気だとは思えない。今日の午後1時20分に、北朝鮮の核・ミサイル施設を監視するための偵察衛星を種子島宇宙センターから打ち上げた。また6月1日には、北朝鮮からのミサイルへの防衛システムのイージス・アショアを配備する自治体への説明を開始している。

 このように、日本政府の北朝鮮への敵視姿勢はまったく変更されていないのだ。これでは、とても話し合いの環境ではないのは確かだ。安倍首相は異常なまでの強硬姿勢で走り続けてきたため、軌道修正をすることができないようだ。

「トランプタワー平壌」建設の可能性

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と米国は互いに牽制しながら、6月12日の首脳会談での合意内容を固めようとしている。そうした中で、米朝関係改善後のさまざまな話が流れている。

 その中に、平壌(ピョンヤン)に「トランプタワー」を建設するという話がある。4月26日、韓国の文正仁(ムン・ジョンイン)大統領統一外交安保特別補佐官は「北朝鮮が望む体制保障は、大同江(テドンガン)に「トランプタワー」が建ち、平壌市内にマクドナルドが開店することだ」と語った。米国資本の商業施設ができれば、北朝鮮は米国の軍事攻撃を受けないための担保を得ることになるというのだ。

 北朝鮮の首都に、米国資本の高層ビルが造られることなどあり得ないと誰もが思うだろう。ところがかつて、同じような計画があったのだ。

北関大捷碑
吉州へ戻った北関大捷碑(2009年10月18日撮影)

 私は2005年から翌年にかけて、北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)という石碑の返還の一部始終を取材した。豊臣秀吉による朝鮮侵略の際、朝鮮北部の吉州(キルジュ)において地元で組織された義勇軍が加藤清正軍を撃退。この石碑は、それを記念して1709年に建立された。

 これを日露戦争で朝鮮へ派兵された日本軍が持ち帰り、靖国神社の境内に置かれてきた。それを韓国の研究者が見つけ、返還への動きが始まる。靖国神社所有の文化財を、北朝鮮へ帰そうという無謀とも思える計画だ。

 当時は南北関係が良かったため、日本・韓国・北朝鮮の仏教者たちが連絡を取り合った。私は、日本の窓口になっている僧侶をたびたび取材。その中で、1枚の文書を見せられて驚いた。返還のため、靖国神社と北朝鮮との仲介について記された「世界貿易センター連合」のトゾリ総裁によるものだった。

 総裁が北朝鮮と強いつながりを持つようになったのは、平壌に「世界貿易センタービル」を建設する計画があったからである。石碑の返還を決断した靖国神社に対し、トゾリ総裁からは感謝状が贈られたという。

 このように米国資本は、北朝鮮への大規模な経済的進出のチャンスを狙い続けてきた。日本は朝鮮植民地支配時に北朝鮮の豊かな鉱物資源について詳細な調査をしており、米国は最近も東京の「国立国会図書館」でそれを閲覧したという。

 極めて勤勉な労働力と豊かで多様な鉱物資源がある北朝鮮。トランプ大統領は、北朝鮮との関係改善が実現すれば、怒涛のように経済援助と投資を進めるのは確かだ。この巨大な利益の前には、異常なまでの北朝鮮バッシングの結果としてまったく身動きできなくなった安部首相など見捨てるだろう。

北朝鮮 日朝交渉には新たな首相が必要

 6月12日の米朝首脳会談に向けて、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が次々と行動を起こしている。南北首脳会談、2度の中朝首脳会談、そして今月23日~25日には豊渓里(プンゲリ)の核実験場を廃棄すると5月12日に発表した。

バス停と人々
平壌市内のバス停の人々(2018年3月2日撮影)

 その廃棄作業の透明性を示すため、中国・ロシア・米国・英国、そして韓国のマスメディアの現地取材を認めた。米国メディアなどは、そのようすを現場から衛星中継する準備をしている。

 北朝鮮が取材を認めたのはこの5カ国だけで、日本は入っていない。つまり排除されたのだ。2008年6月27日の、寧辺(ニョンビョン)の核施設にある黒鉛減速炉の冷却塔爆破では日本のメディアも取材している。北朝鮮における国家の重要行事に外国メディアを招き入れる際には日本も必ず入っていたので、今回の措置は異例だ。

 そして同じ12日に「朝鮮中央通信」は日本に関する論評を発表。これでも「日本外し」の姿勢がはっきりとしている。
「全世界が近づいた朝米首脳の対面と会談を朝鮮半島の肯定的な情勢発展を促し、立派な未来を建設するための第一歩として積極的に支持し、歓迎している時に唯一、日本だけがひねくれている」

 このように制裁を言い続ける日本の姿勢を批判した上で、「日本の反動層がすでに解決済の『拉致問題』をまたもや持ち出して世論化するのは、国際社会が一致して歓迎している朝鮮半島の平和気流をあくまでも阻んでみようとする稚拙で愚かな醜態だ」としている。

 拉致問題について日朝首脳会談で談判しようとしていた安倍首相に、強烈なパンチを食らわせた形だ。朝鮮半島が非核化に向かい、東アジアの政治情勢が大きく変わろうとしている時に、日本はまったく身動きできなくなってしまった。

 こうした事態を招いた責任は安倍首相にある。拉致問題を理由に、「日朝平壌(ピョンヤン)宣言」に明記された日本による朝鮮植民地支配の清算にまったく取り組もうとしなかった。日本からの補償を求めていた被害者たちは、その多くが亡くなってしまった。

 そして、「日朝ストックホルム合意」で拉致問題と同時に調査項目になっていた残留日本人・日本人妻・日本人遺骨については、拉致に関する調査結果が日本の満足できるものでないことを理由に報告書さえ受け取らなかったという。そうした日本政府の対応によって、里帰りを期待していた残留日本人・日本人妻や、政府事業による墓参を希望していた遺族がどれほど涙を流したことだろうか。

 このような非人道的な政策が、安倍首相によって拉致問題を利用して政権を維持するために行われてきた。北朝鮮からすれば、米国以上にバッシングをしてきた日本と容易には対話できないだろう。

 現在の日本が置かれた状況をみれば、安倍首相によって日本の「国益」が大きく損なわれた。安部晋三氏が首相になった時、日本をこの人物に任せるととんでもないことになるのではないか⁉ そうした漫然とした不安は、見事に的中したようだ。日朝交渉をするには、新たな首相が必要なようだ。

歴史的な南北首脳会談の影で日本は?

 4月27日、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金正恩(キム・ジョンウン)委員長と韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領との会談が、軍事境界線上にある板門店(パンムンジョム)で開催された。

板門店平和の家
北朝鮮の「板門閣」から見た板門店の韓国側の施設。左の建物は「自由の家」で、その右側が首脳会談の行われた「平和の家」。その右奥には「開城工業団地」が見える。(2014年10月5日撮影)

 北朝鮮側からは10回ほど、韓国側からも訪れてそのようすがすっかり頭に入っているその板門店は、南北の軍事対峙の最前線だった。たった1歩で跨ぐことのできる幅50センチの境界線は、南北分断の象徴である。

 文大統領と握手をした金委員長がそれを歩いて越えた。文大統領が「私はいつごろ軍事境界線を越えられますか」と言うと、「それでは今、越えてみますか」と金委員長が答え、二人は手をつないで北側へ入った。

 南北分断の歴史が大きく変わろうとしていることを示す出来事である。朝鮮半島情勢に40年間も関心を持ち、南北合わせて83回の取材に訪れた者として、大きな感動を覚えた。

 この南北首脳会談は単に3回目ということではなく、過去の金正日(キム・ジョンイル)総書記と金大中(キム・デジュン)大統領・盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領との会談の成果の上に行なわたものだ。

 両首脳は「完全な非核化による核のない朝鮮半島の実現」をうたった「板門店宣言」に署名。朝鮮戦争の終戦を年内に目指すことや、南北に米国・中国を加えた平和体制構築の協議構想などを発表した。おそらく米朝首脳会談においても、関係改善が大きく進むだろう。

 このように東アアジア情勢はダイナミックに動き出しているが、日本だけが完全に置き去りになっている。もちろんその責任は、異常なまでの北朝鮮への敵視政策を進めてきた安倍政権にあるのは明白だ。

 安倍政権は米朝首脳会談の開催が決まると、あわてて日朝首脳会談をさまざまなルートで打診してきた。だが平昌(ピョンチャン)冬季五輪の開会式において、安倍首相が北朝鮮の金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長に話しかけた際、「植民地支配に対する謝罪と賠償が先」と相手にされなかったという。

 その日本への姿勢は、他にも表れている。今日から訪朝する予定だった地方議員による大型訪朝団が、北朝鮮側の「都合」によって延期になった。北朝鮮にとって、韓国・米国との関係改善を進めることが重要であって、日本との関係改善は後回しにするという姿勢が明確になった。

北朝鮮 核・ミサイル実験中止で日本はリング外へ

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は20日に開催された「朝鮮労働党中央委員会総会」において、核兵器開発が完成したとして、核実験と中長距離ミサイル・大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射実験の21日からの中止を決定した。そして使命を終えた北部豊渓里(プンゲリ)の核実験場を廃棄するとも表明。これに対して、米国と韓国は歓迎すると表明した。

火星12型
大陸間弾道ミサイル「火星(ファソン)12型」(2017年4月15日撮影)

 これは近く開かれる韓国・文在寅(ムン・ジェイン)大統領、そして米国のトランプ大統領とのトップ会談の準備交渉において、すでに合意されたことを踏まえての決定だろう。

 このように、北朝鮮が求め続けてきた朝鮮戦争の休戦協定を平和条約に替えて米国と国交正常化を行ない、米国から軍事的脅威を受けないという状況に向けて交渉が着実に進んでいるのだ。

 それにしても、金正恩(キム・ジョンウン)委員長の戦略は実に見事である。実業家で政治的経験がなく独裁的なトランプ氏が大統領になるや、数十年間もうまくいかなかった米国との交渉の千載一遇のチャンスだと判断。

 同盟国・中国との関係悪化や「国連安保理」決議による厳しい制裁を覚悟で、一気に核と弾道ミサイル開発を推進して完成させた。そして韓国と中国を後ろ盾にするための外国攻勢を成功させ、米国との最後の交渉に臨もうとしている。完璧なシナリオである。

 米朝関係が大きく改善されれば「安保理」や米韓の制裁は解除され、北朝鮮へのさまざまな投資が一気に行われるのは確かだ。長期の制裁によって日本にまったく依存しない経済をつくり上げた北朝鮮は、妥協してまで日本からの経済支援を求める必要がない。

 日本政府がこれからも「拉致被害者の全員帰国」を拉致問題解決のゴールとするならば、日本だけがこうした流れから完全に取り残されるのは明白だ。北朝鮮問題での「蚊帳の外」どころか、国際的な外交での「リング外」に置かれつつある。

 拉致問題解決のための外交交渉は、着地点を示す必要がある。平壌(ピョンヤン)に米国大使館が開設されるのはそれほど遠くないだろう。北朝鮮での拉致被害者調査は、米国などの第3国や国際機関を入れて行なうのが現実的だ。

 ただ安倍政権は、北朝鮮に対してあまりにも敵対的姿勢を続けてきた。小野寺防衛相は、21日の北朝鮮の画期的な発表を一言も評価することなく「現段階で圧力を緩めるタイミングではない」と表明した。「北朝鮮の脅威」を煽って政権の座につき、ひたすら軍事力を増強してきた安倍首相にとって、拉致問題解決や北朝鮮との関係改善は不都合なのかも知れない。

北朝鮮 宋日昊大使が日本政府に返答を要求

 米朝首脳会談が発表される直前の2018年3月1日、平壌市内レストランで宋日昊(ソン・イルホ)・朝日国交正常化交渉担当大使と3時間半にわたって会食した。その時の大使の発言要旨を掲載する。
                 *
 北南(注:北朝鮮と韓国)関係は良好に発展している。日本の一般の人は良いこととみている。ただ日本政府の一部の人は芳しく思っておらず、和解の雰囲気を妨害している。安倍首相と河野外相は、制裁と圧力を無分別に強調。(朝鮮で)日本政府への敵愾心が高まっている。両国関係は悪化している状況。

宋日昊大使
宋日昊大使(2018年3月1日撮影)

 米国は久しく前から、朝鮮への侵略戦争や核戦争を公言。トランプ政権はもっとひどくなった。この状況の中で、日本が米国に加担していることが目立っている。日米は絡みすぎている。

 (日本による)40年間の植民地支配で、個人と国の財産が奪われた。(金日成)主席が祖国と自主権を取り戻す戦いをして勝利。その5年後、米国により(朝鮮)戦争になった。人口43万人の平壌に、米国は46万3000トンの爆弾を落とした。国なき民の悲しみと屈辱を2度と繰り返さないという思いで戦って勝利。自力で国をつくってきた。

 (朝鮮は)欲しくて核を持ったのではない。朝鮮半島の非核化は主席の遺訓。それを守ろうとしているが、やむを得ず核開発している。米国が毎年、平壌への攻撃や斬首作戦をしようとしており、抑止力として核を保有した。核をなくせというのは、朝鮮をなくせということ。リビアやイラクと同じことになる。核放棄すれば、植民地支配の奴隷状態に戻ることになる。核開発をせざるを得ない前提をなくして欲しい。

 朝鮮労働党第7回大会の(金正恩委員長)演説で、他の国に核攻撃をしないと明言した。日本を含む地域の平和と安定のためだ。朝鮮だけの非核化だけでなく、全世界の非核化を主張している。我々の核武力は、米国などによる核攻撃をなくすためのもの。朝鮮は、世界中から核をなくすために貢献する。

 日本は、朝鮮に対して出来ることはみんなしようとしている。日本の人民と社会に、朝鮮からの脅威を煽っている。北海道上空のロケット通過は高度4000キロメートルの宇宙空間。それを問題にするのは国民を騙すこと。

 こうして日本は、米国と一緒に朝鮮を攻撃できるようにしている。憲法を変えようとしている。自衛隊を国防軍にしようとしている。こうした考えは間違いである。

 朝鮮は日本を侵略したことはないし、これからもない。だが日本の米軍基地が朝鮮を攻撃するならとことんやる。日朝での戦争があれば、20年前は日本が上。今は朝鮮が日本を滅ぼす力を持っている。戦略的地位が変わった。戦争になっても米国は日本を守らない。自国の平和は自国で守る必要がある。

 米国は日本へ2回も核を落とした。ビキニ環礁での核実験で日本の漁民を殺した。日本人民は米国の核によって被害を受けた。米国は世界で核をもっとも多く持っている。

 米軍基地によって、沖縄県民に被害が出ている。米国が日本人民に被害を与えているのに、(日本を)現実的に支配している米国に脅威を感じていない。政策が大きく間違っている。

 日本が米国に頼ることには干渉しない。だが日本は米軍基地に(年間)700億ドル出しているが、朝鮮への(植民地支配の)賠償はしていない。日本が賠償をし、関係改善へ向かうならば対決にはならない。安倍が考えを変えれば、その700億ドルを出さなくても良くなる。

 道(注:地方の行政区域)にある(日本人の)遺骨(への対応)は、中央から言っても聞かないことがある。日本の外務省が、日本人遺骨を勝手に処分しても良いと言えば地方の人たちは喜ぶだろう。そうなれば処分して花園にし、この問題をなくす。

 朝鮮側は、遺骨は厄介な物と考えているので、日本政府からこのことについて、何らかのコメントが欲しい。人道問題を政治的に利用することはない。

北朝鮮からの拉致被害者情報を政府が隠ぺい

 米国政府当局者が8日、金正恩(キム・ジョンウン)委員長が「朝鮮半島の非核化」について協議する意思があることを北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)当局から直接伝えられたことを明らかにした。5月末までに行なう予定の米朝首脳会談に向けての秘密接触の中で伝えられたようだ。

平壌のバス停
平壌(ピョンヤン)市内でバスを待つ人々2018年3月2日撮影)

 「朝鮮半島の非核化」は金日成(キム・イルソン)主席の時代から北朝鮮から提案されているものだ。しかし、北朝鮮が米国まで到達する核ミサイルを完成させている現在ではまったくその重みが違う。

 こうした米朝交渉の準備と、北朝鮮と韓国・中国との関係改善が着実に進む中で、日本は完全に取り残されている。慌てて日朝首脳会談を模索したものの、それによる「成果」が期待できない状況になった。今年3月頃、北朝鮮が日本に「拉致問題は解決済」と改めて伝えてきたというのだ。

 そうした中で3月下旬に、日本政府のリークか内部告発によると思われるとんでもない情報が流れた。政府によって、「拉致被害者」と認定されている田中実さん=失踪当時(28)と「拉致の可能性を排除できない」とされている金田龍光さん=失踪当時(26)について、2014年に日朝が接触した際に北朝鮮から「入国していた」と伝えられていたというのだ。

 この二人が、自分の意志に反して北朝鮮へ渡ったのかどうかは分からない。だがこれは極めて重要な情報であり、日本政府がその安否を確認するために全力で取り組んでもおかしくない。ところが、何もしなかった疑いがある。

 二人に関する情報が伝えられたのは2014年5月の「日朝ストックホルム合意」の前だという。この「合意」によって、北朝鮮は国内にいるすべての日本人を調査することになった。

 その対象は、拉致被害者と行方不明者・残留日本人・日本人妻・日本人遺骨。私の取材で、残留日本人と日本人妻たちだけでなく、「よど号グループ」まで複数の担当が出向いてきちんと調査をしたことが分かっている。政府はその結果を聞くため、中国・瀋陽で協議したり訪朝団を派遣したりしている。

 このように、日本政府がこの二人の情報についての確認や本人たちへの面会をする機会は何度もあったが、それをしなかったのだろうか。何よりも、この重要な情報を今まで隠し続けてきた安倍政権の責任が厳しく問われる。

日朝関係に翻弄された劇的な人生

『週刊金曜日』2018年3月16日号に掲載した記事を紹介する。

家族を思い、日本と朝鮮を行き来した平島筆子さん死去
日朝関係に翻弄された劇的な人生

 衝撃の事実を告げられ、私は思わず大きな声を上げた。朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の平壌(ピョンヤン)へ行ったところ、取材予定の女性が急死していたのだ。

平島還暦祝い
 平島筆子さん(中央)の還暦祝いでの家族写真。祝宴は朝鮮へ戻ってから、7年遅れで開かれた。孫のオ・チョンヒョクさんは左から3人目。

 1959年12月から在日朝鮮人の帰国事業が始まり、朝鮮人男性と結婚していた日本人妻1831人も朝鮮へ渡った。1938年11月生まれの平島筆子さんもその一人だ。

 平島さんは、東京都葛飾区新小岩のあんみつ屋で働いていて、電気工の朝鮮人男性と出会う。平島さんの両親は強く反対したものの、二人は1959年12月の帰国船で朝鮮へと渡った。平島さんは「安筆花(アン・ピルファ)」という朝鮮名を使った。

 平壌での生活を始めて10年ほどしたころに突然、夫は行方不明になる。家族には「病死した」と伝えられた。頼りにしていた夫がいなくなり、日本の家族からの仕送りもなかった平島さんの生活は苦しくなった。

 日本にいる二人の妹に会いたい、両親の墓参りがしたいという思いが募っていた時に、日本人妻を「脱北」させて高額の利益を得ようとするブローカーに声をかけられた。そして2002年11月に中朝国境の川を歩いて中国へ渡り、翌年1月に日本へ帰国。

 落ち着いたのは、かつて暮らしていた葛飾区。そこを選挙区とする平沢勝栄衆議院議員の秘書・沖見泰一さん(64)が、世話をすることになる。平島さんは、生活保護の支給額が減らされるのを承知で仕事に出るほど元気だった。

 ところが朝鮮から、長男のオ・カンホさんが死亡したという連絡がある。「平島さんは長男の嫁と子どもたちが心配になり、神経性胃潰瘍になったんです。寿司が大好きだったのですが、それも食べなくなりました」と沖見さんは振り返る。

 亡くなった長男には二人、長女には一人の子どもがいた。平島さんは、朝鮮の家族の元へ戻ることを決断。2005年4月18日、北京の朝鮮大使館で記者会見を行い「金正日(キム・ジョンイル)将軍万歳!」と叫んだ。

 朝鮮へ戻ってからの平島さんは優遇を受け、家族たちと平壌で生活を開始。還暦や古希のお祝いや行楽地などで、家族と撮ったどの写真の平島さんも幸せそうにみえる。

 平島さんは北京での記者会見から2カ月後に、沖見さんへ電話をかけた。それをきっかけに沖見さんは、毎月決まった日に電話をし、自費で医薬品などを送り続けてきた。肉親でもできないことである。その理由を聞くと、「日本にいた時の交流で情が移ったから」と語った。

 ところが突然、その平島さんが倒れた。この時のようすを、平島さんの長男の息子であるオ・チョンヒョクさん(29歳)から平壌市内のホテルで聞いた。

 「祖母は2年前から血圧が高くなって頭痛があり、8カ月前からは心臓も悪かったんです。1月11日に、散歩から戻ると心臓に圧迫感あると訴えました。入ったトイレで悲鳴を上げて倒れたので、薬を飲ませようとしたものの死亡していました」。

 祖母への思いを聞くと、「高齢なのに足が速く、燃えるような性格の愉快な人でした。私は誇りに思っています」と答えた。帰国後にインタビューした沖見さんは「日本政府は『日朝ストックホルム合意』で日本人妻についても同意したにもかかわらず、それよりも拉致問題を優先しました。日本人妻の里帰りといった、解決可能なことから取り組むべきです。平島さんの死を無駄にしないで欲しい」と言う。

 朝鮮人の夫、日本の妹たち、朝鮮の子や孫という家族への思いから二つの国を行き来した平島筆子さん。私は日朝関係に翻弄されたその劇的な生き方を、直接に聞きたかった。

日朝首脳会談の実現には政策転換が必要

 3月21日、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、韓国・北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)・米国による三者首脳会談の可能性について言及した。

咸興を行き交うタクシー
咸興(ハムフン)市内を行き交うタクシー(2018年2月21日撮影)

 また韓国は、歌手やアイドルグループで構成する芸術団160人を、3月31日から4月3日まで平壌(ピョンヤン)へ派遣することを決めた。南北融和を進めようという文在寅政権の強い意志が表れている。

 一気に動き出した北朝鮮情勢に対し、異常なほど米国以上の北朝鮮バッシングに力を注いできた安倍政権は完全に対応が遅れた。このままでは蚊帳の外に置かれるのは確かだ。「朝鮮中央通信」は20日の論評で、安倍政権を批判している。

 「予想できなかった急激な朝鮮半島情勢の変化によって、ひとりぼっちの境遇になった日本の安倍一味は、北朝鮮の対話平和攻勢は国際社会の持続的な圧力の結果だの、気短な対話は北朝鮮の時間稼ぎに巻込まれることだの、制裁を緩めることがあっては絶対にいけないだのと騒がしく振舞っている」

 北朝鮮が対話へ転じたのは、核・ミサイル技術がほぼ完成したため、米国と対等の立場で交渉できるようになったと判断したからだ。「制裁の効果」などではない。

 今月3日まで、13日間にわたって平壌と地方都市で取材した。道路を行き交う自動車の数は減ってはいなかったし、ガソリン代を含む車両チャーター価格は変化がなかった。それどころか地方都市でも、新しいガソリンスタンドやタクシーを何度も目撃した。

 平壌で昨年4月に完成した黎明(リョミュン)通りでは、今も大掛かりなライトアップが続いている。厳しい制裁が長期にわたって続けば目に見える形での影響が出るかも知れないが、今時点では変化はない。

 安倍政権は、日朝首脳会談に意欲があることを複数のルートで北朝鮮へ伝えたという。だがそれに、北朝鮮が容易に応じることはないだろう。北朝鮮の最大の外交目標は、米国との関係改善である。韓国との対話推進は、そのための方策の一つでもある。北朝鮮には、すぐに日朝関係改善に取り組む必要性がないのだ。

 しかも、拉致問題への強硬姿勢で首相になった安倍晋三とでは、交渉が進んだとしても結局は拉致問題で行き詰まることが目に見えている。それは2014年の「日朝ストックホルム合意」の破たんで明らかだ。

 安倍首相が本気で日朝関係改善を考えているのならば、拉致問題だけでなく他の課題にも同時に取り組むという方針へ転換するべきだ。

 その課題とは2002年の「日朝平壌宣言」で合意した日本による朝鮮植民地支配に対する賠償・被害者への補償。そして、そもそもは日本が北朝鮮に強く要求していた残留日本人・日本人妻の里帰りの実施、朝鮮各地の日本人埋葬地への政府事業での墓参と遺骨収容などである。

北朝鮮切手を空港税関が3人がかりで没収

 3月3日に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)から帰国。到着した日本のある空港の税関は、私が取材資料として持ち帰った北朝鮮切手20枚を没収した。

没収切手
税関が没収した切手(2018年3月3日撮影)

 日本政府は北朝鮮への制裁として、輸出入を全面禁止している。「輸出入」と聞けば、誰もが数千万円とか数億円の規模と思うだろう。ところが北朝鮮から戻ってきた者に対して日本の税関は、価格が数円のものでさえ摘発しているのだ。

 以前は検査をする際、薄汚れた白手袋を使っていたが今は素手で作業をする。ただ、世界中からの入国者のどのような荷物を触っているのか分からないので、私は手の消毒を要求。二人の職員はそれに応じた。

 検査は徹底していて、汚れた下着の入った袋まで時間をかけて調べる。北朝鮮から戻ってきたというだけで、完全な犯罪者扱いなのだ。

 こうしたことを、修学旅行などで北朝鮮から戻った朝鮮学校の子どもたちに対しても実施している。向こうで買ってきた安いマスコット人形や切手さえ取り上げてきた。泣き出した子どももいるという。この非人道的行為が、子どもたちの心をどれほど傷つけているのか。

 私への対応は、二人の職員だけでなく現場責任者である空港税関支署統括監査官まで出て来た。そして、税関検査場の後方にある小さな取調室に入れられた後、時間がかかって他の入国者の取り調べに時間がかかるとして検査場横の大きな部屋へ移された。

 税関職員によると、在日朝鮮人が親族訪問で北朝鮮の家族からお土産として渡されたものは没収しないこともあるという。判断に迷う場合、税関を管轄する経済産業省へ問い合わせているという。私の場合は夜間だったので、経産省の担当者に携帯電話で指示を仰いだとのこと。

 私は没収される前に切手をカメラで複写。税関の「別室」に1時間半もいた。押収物は焼却されるというので、外務省に寄贈したいと要望したが拒否された。

 経産省は北朝鮮への日本出国時に、10万円以上の現金の持ち出しの申告を義務づけている。そうであれば入国時の持ち込みについても、明らかに価格の安いものについては認めるべきではないか。

 北朝鮮で個人が購入した安価なものさえ没収するというのは、実にみっともない嫌がらせである。日本の「民主主義」がどのようなものであるのかが、よくわかる実例だ。

北朝鮮 小野寺防衛相が「日朝平壌宣言」を否定か

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党第1副部長は2月10日、韓国大統領府において文在寅(ムン・ジェイン)大統領に金正恩(キム・ジョンウン)委員長からの早期訪朝を求める親書を手渡した。平昌(ピョンチャン)五輪を通して、南北融和が進む可能性が高くなった。

米軍戦車
朝鮮戦争で北朝鮮が鹵獲した米軍戦車(2017年4月12日撮影)

 こうした流れに日本と米国は、焦り始めている。安倍晋三首相は9日、文在寅大統領との首脳会談で、平昌パラリンピック終了後に米韓合同軍事演習を実施するように求めた。それに対して文大統領は「わが国の主権と内政に関する問題」として反発した。

 外国の2カ国が行なう軍事演習について、他国のトップが口出しするのはどう考えても内政干渉である。そのことを安倍首相が理解できないのは、「反北朝鮮」ということにあまりにも前のめりになっているからだ。

 そして10日には小野寺五典防衛相が、日本や韓国など国際社会が北朝鮮の融和的政策に乗ってしまい、北朝鮮は核・ミサイル開発を進めたと述べた。日本が乗ってしまったというのは「日朝平壌宣言」とそれに関連した「日朝ストックホルム合意」を指すようだ。日本政府は「平壌宣言」と「ストックホルム合意」が生きていることをたびたび表明してきた。

 私は昨年4月、宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使へ3時間の単独インタビューをした。大使は「『日朝平壌宣言』は首脳会談によるものなので非常に大切にしており、関係改善の里程標となっている」と語った。

 つまり、最高指導者である金正日(キム・ジョンイル)総書記が署名した「平壌宣言」は絶対的なものであり、あくまでも守ろうとしているのだ。にもかかわらず日本はそれを否定し、日朝関係改善のための基本方針を変更しようというのか。

米朝危機の中で日本の進む道を探る

 1月30日、米国のトランプ大統領が一般教書演説を行い、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)について5分以上にわたって触れた。すぐにでも米本土の脅威になり得る核・弾道ミサイル開発を阻止するため、最大限の圧力をかけ続けるとしている。

祖国解放戦争勝利記念館と新郎新婦
朝鮮戦争の博物館を訪れた新郎新婦(2017年4月12日撮影)

 そして米国の核戦力の近代化と再建の必要性を訴え、戦略核兵器の強化を打ち出した。前のオバマ政権とまったく逆の方向へ進もうというのだ。

 同じ日の「ワシントンポスト」(電子版)は、韓国駐在米大使にビクター・チャ氏を起用する人事案が白紙になったと報じた。チャ氏は、ブッシュ政権(第43代)で、北朝鮮の核についての「6カ国協議」での次席代表を務めた。

 起用されなかったのは、トランプ政権の「国家安全保障会議」が北朝鮮への限定攻撃を検討していることに対し、懸念を示していることが理由だという。

 毎年2月から行われる米韓合同軍事演習は、韓国での平昌(ピョンチャン)五輪の後に延期された。だが終了後に実施されれば一気に緊張が高まり、米軍による先制攻撃の可能性がある。

 こうした米国の動きに対し、安倍政権は完全に支持し追随をしている。米国は北朝鮮との複数の交渉ルートを持っているが、日本は北京の北朝鮮大使館へ抗議文を送ることぐらいしかできないようだ。

 しかも北朝鮮と国交のある国々に、外交・経済関係を断つよう積極的に働きかけている。それは「国連安保理」決議で求めていることでもなく、他国の外交政策に介入するものだ。

 そして何よりも、このような「圧力一辺倒」の極端な政策を続けるならば、その傷痕と恨みは北朝鮮の人々の心にいつまでも残るだろう。日本がかつて行なった植民地支配と同じように、長期にわたって修復ができない。

 また安倍政権は、敵対する国を徹底的に追い詰めることの危険性を、日本の歴史から学んでいない。米国ジョンズ・ホプキンズ大学の北朝鮮分析サイト「38ノース」が出した被害想定は、最悪の場合の死者は「ソウルで203万人」「東京で180万人」というとんでもない数字だ。これには、北朝鮮や日本の他の都市での被害は入っていないので、数百万人で済まない可能性もある。

 東アジアがこうした極めて危険な状況にあることを、自分のこととして正面から受け止めることが必要だ。そのための一助となればと、イベントが予定されている。

第2弾 緊急企画 北朝鮮 もう一つの視点
-日本初公開映像を交え、日本の進む道を探る-
◆日時 2018年2月5日(月) 13:30 - 17:30  13:00開場
◆場所 参議院議員会館講堂(千代田区永田町2−1−1)
◆プログラム
◇講 演 「米朝危機の歴史的経緯と日朝の課題」 伊藤孝司(フォトジャーナリスト)
◇映像上映「廃墟の上に立ち上がった朝鮮(朝鮮戦争での米軍爆撃の記録)
         「米帝侵略軍の武装スパイ船 プエブロ号」(平壌市内の艦内で上映)
◇対 談 「朝鮮映画と日本」 小林正夫(カナリオ企画代表)& 伊藤孝司
◇交流紹介「日本と朝鮮半島の子どもたちの心をつなぐ」
        筒井由紀子(KOREAこどもキャンペーン事務局長)
◇朝鮮半島の平和に向けてのメッセージ
        宇都宮健児(元日弁連会長)
        井筒高雄(VFPジャパン / ベテランズ・フォー・ピース・ジャパン代表)
◆主催 NPO法人世界ヒバクシャ展
◆資料代 1000円(学生は500円)
◆お申し込み フォームhttps://form.os7.biz/f/1dc21f1e/  080-3558-3369

北朝鮮 カメラがとらえた「三池淵楽団」

 1月15日、板門店(パンムンジョム)の軍事境界線北側にある「統一閣」で、平昌(ピョンチャン)五輪への北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の芸術団派遣について南北局長級実務協議が開かれた。北朝鮮が「三池淵(サムジヨン)管弦楽団」の約140人を派遣することが決まった。

三池淵楽団軍服

三池淵最高指導者

三池淵楽団ミサイル
三池淵楽団(3枚とも2017年8月15日撮影)

 この楽団についてテレビのさまざまな番組で報じられているが、誤った内容があまりにも多い。私は昨年8月15日に平壌(ピョンヤン)市内において、公演のすべてを写真とビデオで撮影した。

 テレビで「北朝鮮通」のコメンテーターたちが自信ありげに、この楽団はクラシック演奏が中心なので「モランボン楽団」よりも政治色がないように語っているが決してそのようなことはない。楽器の編成や演出が異なるだけである。

 昨年8月の公演では、金日成(キム・イルソン)主席、その妻の金正淑(キム・ジョンスク)女史、金正日(キム・ジョンイル)総書記、そして金正恩(キム・ジョンウン)委員長の映像がスクリーンに次々と登場。2発の弾道ミサイルの発射時の映像も流れた。また楽団員は、チマ・チョゴリの民族衣装だけでなく軍服姿でも登場している。ディズニー映画の音楽を演奏したことがあるのは「モランボン楽団」であるにもかかわらず、「三池淵楽団」だと流した局もある。

 北朝鮮についての報道は、間違っていても不正確であっても抗議や告訴を受けないため、いい加減な確認作業をしただけの言いたい放題になっている。マスメディアはそのことに長らく甘んじてきたが、それは報道のあり方そのものを歪めてしまっていることに気づいていない。

北朝鮮の五輪参加を素直に喜ぼうとしない日本

 1月9日に板門店(パンムンジョム)において開催された南北高官級協議で、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は平昌(ピョンチャン)冬季五輪に政府高官・選手団・応援団・芸術団・参観団などを派遣すると発表した。

板門店
会談は板門店の韓国側施設「平和の家」(右奥)で行われた(2016年2月23日撮影)

 米国のゴールドスティーン国務次官(広報外交担当)は「朝鮮半島の緊張緩和をもたらすことは、どのようなものでも前向きな動き」と述べた。米国政府はおおむね歓迎している。

 いつ米国による北朝鮮への軍事攻撃があるかも知れない状況の中で、「五輪停戦」によって冷却期間を持つことは重要だ。

 ところが日本のマスメディアは韓国が北朝鮮の申し出を受け入れたことを、北朝鮮の手玉に取られていると批判したり、五輪から南北対話が進むことを警戒したりする意見を盛んに流している。そもそも北朝鮮の五輪参加は、韓国が熱心に北朝鮮へ働きかけてきたことだ。韓国人の76.7パーセントが、北朝鮮の五輪参加に賛成している。

 あるテレビ局の情報番組のコメンテーターは、北朝鮮から多くの人が韓国へ入国しても安全なのかと語った。つまり、テロをする危険性があるのではというのだ。北朝鮮で暮らしている人は、何をするかも知れないと思っているのだろう。これほど無知で非常識な発言をしても、テレビで流れるとそれは確実に影響を与える。

 菅義偉官房長官は10日、北朝鮮の融和姿勢には日米韓の北朝鮮包囲網を崩そうとの思惑があると語った。日本政府は、対話のための対話になってはならないと繰り返す。こうした北朝鮮の五輪参加に懐疑的な姿勢は、日本は韓国どころか米国よりも徹底的にバッシングしてきたからだ。喧嘩をしてきた隣人たちが仲良くしようとしていることを素直に喜べないほど、日本はいびつな国になってしまった。

朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(下)

「週刊金曜日」2017年12月8日号に掲載した記事を、2回に分けて紹介する。

大国に翻弄され続けた最後の朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(84歳) (下)
望むは日本での両親の墓参


咸興市内
現在の咸興市は、植民地支配時の咸興府と興南府が合併したもので、当時は合計数万人の日本人が居住(2017年8月7日撮影)

●「リ・ユグム」として
 「私の足が自然に向いたのは、ソ連兵がヒマワリの種の殻を口から飛ばしていた場所でした。そこにずっと立っていたら、家に泊めてくれた朝鮮人のおじさんと出会うことができたんです」
 男性は琉璃子を心配して捜しにきたのだ。「何も食べていないのだろう」とパンを買ってくれた。そして「私の家へ戻ろう」と言った。琉璃子は、その言葉に素直に従った。秀男の消息は気になるが、生母はすでに亡くなり父の生死は分からない・・・。日本で暮らしたことのない瑠璃子は、「祖国・日本」を何としてでも目指そうという気持ちにならなかったのだろう。何よりも、日本から主権を取り戻して勢いのある朝鮮人社会にいきなり放り出されたのだ。日本人少女には、他に選択肢はなかった。
 琉璃子は朝鮮語をわずか2カ月で習得し、「リ・ユグム」としてたくましく生き始める。「荒井琉璃子」の名を使うことは、この時からまったくなかった。
 ところが数カ月したころ、世話になっている男性の一家が故郷へ戻らなければならなくなる。「一緒に行かないか」と言われたが、琉璃子は弟と別れた咸興を離れたくなかった。「ここにいれば再会できるかも知れない」と思い、頑強に拒む。

荒井さんと養母家族
琉璃子(前列中央)が、結婚後の1960年代に養母のキム・コブンスン(前列左)らと撮った写真。

 この男性が仲良くしている隣家の女性には、子どもが2人いたが息子だけだった。「私はこういう可愛い娘が欲しい」と言うほど琉璃子をすっかり気に入っていた。こうして、このキム・コブンスンさんとの新しい生活が始まる。

●正式帰国の機会を逃す
 46年6月、「連合国軍総司令部」と「対日理事会」ソ連代表が、ソ連軍占領下の日本人送還について会談を始める。その結果、朝鮮半島北側からの正式引き揚げが決まった。しかしこの時すでに、北側に留め置かれた日本人の97%が、北緯38度線を大変な思いをして越えて帰国していた。残る日本人は、8000余人しかいなかった。
 この年の12月18日 に最初の引き揚げ船「栄豊丸」が元山を出港。2年後の7月4日の「宗谷丸」が最後の船となった。朝鮮半島北側を管理していたソ連は、9月9日の朝鮮民主主義人民共和国の建国前に日本人の引き揚げを完了させようとしたのだ。この正式引き揚げは、希望者を対象にしたものではなかった。朝鮮への残留を望んでも、強制的に帰された。例外は朝鮮人と結婚した日本人女性だけである。
 この時は未婚だった琉璃子は、この正式引き揚げの対象だが帰国していない。
その大きな疑問を琉璃子にぶつけてみると、困ったような表情になった。そして少し考えてから「どこからも連絡はまったくなかったんです」というのだ。
 すると、近くで聞いていた咸鏡南道人民委員会の担当者が説明をしてくれた。琉璃子は朝鮮人家庭に身を寄せていたため、解放直後の混乱した状況によって引き揚げ情報が届かなかったというのである。琉璃子は、二度目の帰国の機会を逃してしまった。

●焼けた日本人の証
 50年6月25日に始まった朝鮮戦争は、53年7月27日 に休戦。翌年1月に「日本赤十字社」は「朝鮮赤十字会」に、残留日本人の安否確認を依頼した。それに対して「残留日本人の中に帰国希望者がいれば、喜んで帰国を援助する」との回答がある。こうして、残留日本人の集団帰国が合意された。56年4月22日、残留日本人36人を乗せた「こじま丸」が舞鶴港へ到着した。
 この時点でも未婚だった琉璃子は、この船で帰国できたはずだ。そうしなかった理由についても琉璃子に聞くと「知らなかったんです。連絡がありませんでした」とあっさりと言う。このことについても、人民委員会の担当者が説明した。
 「朝鮮戦争の時、咸鏡南道は米軍の野蛮な爆撃によって建物はすべて破壊されました。住民登録名簿も焼失し、戦争後に新しく作成しています。この時、リ・ユグムさんは朝鮮名で登録しました」
 琉璃子は日本名も一緒に登録しなかったため、日本人であることの証が行政機関に何もなかったのだ。瑠璃子が、3回の帰国の機会を逃した理由がこれでわかった。
 「住民登録を朝鮮名にしているため、探し出せない残留日本人が間違いなくいる」とこの担当者は断言する。死と向き合いながらの逃避行の中で、育てられないと判断してわが子を朝鮮人に託した親もいる。その子どもは、自分が日本人であることを知らずにいるのだろう。中国東北地方と同じことがこの朝鮮半島北側でもあり、多くの日本人の子どもが残留した。
 <今も北朝鮮にとどまっている可能性がある日本人が少なくとも1442人に上ることが(97年10月)2日、厚生省の調査で分かった。(略)内訳は、男性1000人弱、女性が約400人で、このうち約500人が軍人や軍属。残り約900人は旧満州の開拓などに従事した人やその家族。約900人のうち孤児とみなされる年齢に相当する終戦当時13歳未満の人は約200人いると推定される。1442人のうちの67人については『未帰還者』として親族が継続して消息確認を厚生省に求めているが、1375人は親族の同意を得た上、法律的には『死亡した』とみなされる戦時死亡宣告を受けた>(『東京新聞』97年10月3日付)
 今回、「厚生労働省社会・援護局」に問い合わせたところ、朝鮮からの未帰還者数は14年現在で1440人、戸籍上で生存となっているのは35人との回答。未帰還者数は20年前とほぼ同じだが、親族が生存を信じて消息確認を求めている数は半減した。
 14年5月の「日朝ストックホルム合意」にもとづき、朝鮮は「特別調査委員会」を設置。そこが実施した日本人調査で、残留日本人8人が健在であることを確認した。咸鏡北道清津(チョンジン)市で暮らし、日本の家族が5回にわたって訪問した丸山節子は15年1月に86歳で死亡。今年6月には、残留日本人は琉璃子しかいないと公表されており、他の人たちは短期間に次々と亡くなったようだ。

●「愛に国境はない」
 琉璃子は義務教育の「高等中学校」を卒業した後、28歳から定年退職するまで絹の織物工場に勤める。結婚したのは60年7月。相手は、咸興駅に勤務する鉄道員のトン・ビョンフル。鉄道で働いていた養母の妹から紹介された。琉璃子は奇しくも、父と同じ職業の男性と結婚することになった。
 「夫は、日本人との結婚をどう思っていたのだろうか」と尋ねると、少し考え込んだ。そして、それまでみせなかった満面の笑みで語る。
 「とにかく私を愛してくれました。愛には国境はないのよ」
その夫は、80年に亡くなってしまった。現在、琉璃子がアパートで一緒に暮らすのは、息子と孫のトン・ウンスクとその夫、そしてひ孫の合わせて5人。

荒井さんと孫
琉璃子と孫のトン・ウンスク(2017年8月8日撮影)

 29歳の孫に、学校で先生から日本の植民地支配について教えられた時の気持ちを聞いてみた。
 「先生の話を聞いて、日本への怒りが湧きました。でもお祖母さんには、学校で習ったということは黙っていました」
琉璃子は、日本で暮らす肉親の住所を持っていたので手紙を送ってみた。すると、秀男だけでなく長男と長女からも返事がくる。それによって、秀男だけでなく徴兵された父と継母も日本へ戻っていることがわかった。すでに亡くなっていた父は、朝鮮に残した琉璃子を探そうとしていたという。
 長男からは会うための方法を聞いてきたが訪朝は実現せず、琉璃子がとりわけ会いたかった秀男は亡くなってしまう。その後、日本との連絡は途絶えてしまい、もはや顔を知る肉親は一人もいないと思われる。「さびしいです」と琉璃子はつぶやいた。

●日本人妻との交流
 琉璃子は、昨年11月15日に結成した「咸興にじの会」の会長をしている。会員11人は、残留日本人の琉璃子のほかは日本人妻である。日朝友好の懸け橋になりたいとして「にじの会」と名づけた。私は、日本人による団体が朝鮮にあることを知った時には本当に驚いた。しかもそれが、首都ではなく地方都市の咸興にあるのだ。
 59年12月に在日朝鮮人の帰還事業が始まり、9万3340人が祖国へ帰国。その際、在日朝鮮人の男性と結婚していた日本人妻1831人と子どもを合わせた6679人の日本人が朝鮮へと渡った。
 そうして咸興へやって来た一人の日本人妻が、琉璃子の働く織物工場へ就職した。
 「私は日本人であることを公にしていなかったのに、そのおばさんが私のことを知って訪ねて来たんです」
こうして、琉璃子と日本人妻たちとの強い絆ができた。人民委員会の担当者が、咸鏡南道で暮らす日本人について説明してくれた。
 「昔は残留日本人24人、日本人妻とその子どもが309人いました。現在は、残留日本人は荒井さん一人で、日本人妻は38人です」
 私はこの担当者に「日朝関係が悪いので朝鮮で暮らす日本人への差別はないのか」と聞くと「差別どころか、むしろ優遇しています。彼らの朝鮮へ報いたいという美しい心を高く評価し『にじの会』へ事務所と自動車を提供しています」との答えだった。私はそれを聞き、朝鮮の日本人たちは社会から後ろ指を差されないよう懸命な努力してきたのではないかと思う。「にじの会」は今、建設現場に支援物資を送る活動を積極的にしている。
 琉璃子や日本人妻たちの里帰りについてこの担当者に聞くと、「私が国を代表して言うことはできませんが、日本政府の対応次第でこの問題は解決するでしょう」と答えた。

●被害者であり加害者
 日本へ帰国する機会を次々と逃し、朝鮮へ残留することになった琉璃子。その人生を自分ではどのように捉えているのか聞いた。
 「私は今、思い切り幸せに暮らしているので、この社会で暮らすことができて良かったと思っています。後悔はしていません」
 そう言わざるを得なかったのではなく、この言葉は本心から出ていると私は思う。朝鮮人に助けられ、朝鮮社会へ懸命に溶け込んで今の家族を築いた。決して豊かではなくても、今のこの生活を何よりも大切にしようとしているのだ。次に「日本をどのように思っているのか」と、琉璃子にあえて抽象的な質問をしてみた。
 「(植民地の時に)日本がやったことを振り返ると、朝鮮人を大量に殺し、悪いことをたくさんしている。それを思うと、日本人でありながら日本が嫌になります」
 琉璃子はそう言うと「そうでしょ?」と私に聞き返してきた。残留日本人の琉璃子は、日本による朝鮮植民地支配の被害者であると同時に加害者でもあることを痛感しているようだ。
 「日朝ストックホルム合意」による「特別調査委員会」は、瑠璃子のところへも調査に来た。
 「日本へ行きたいのか聞かれたので『父さんと母さんの墓参りに行きたい』と伝えました。日本政府は、朝鮮への敵視政策を早くやめてほしい。日本が朝鮮と近い国になることを願うだけです。そうすれば、故郷を訪問して墓参りもできるからです。私には、先はもうあまりないですから・・・」
 日本では、拉致問題が明らかになってからは、日本人埋葬地への墓参や残留日本人・日本人妻の里帰りという人道的なことを進めるのが間違いであるかのような空気になった。朝鮮に残留日本人が今も暮らすのは、日本による植民地支配の結果だ。日本政府には、そうした人を里帰りさせる義務があるだろう。琉璃子が健在なうちに、その願いを何とか実現させてあげたいと私は思う。
 日本・ソ連・米国という大国によって翻弄されてきた朝鮮。その激動の歴史の中で、波乱に満ちた人生を歩むことになった荒井瑠璃子。私は4日間にわたるインタビューの最後に「両親の墓参りに行くことができるよう、長生きして欲しい」と言った。すると琉璃子は笑みを浮かべながら、しっかりとした日本語で「ありがとう」と答えた。 (文中敬称略)

朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(上)

 「週刊金曜日」2017年12月8日号に掲載した記事を、2回に分けて紹介する。

大国に翻弄され続けた最後の朝鮮残留日本人・荒井琉璃子さん(84歳) (上)
望むは日本での両親の墓参

84年間も朝鮮半島で暮らしてきた日本人女性が、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の地方都市にいる。いまや、確認できる唯一の朝鮮残留日本人である。記録されることもなく消え去ろうとしていたその歴史を、ロングインタビューで掘り起こした。

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咸興市内を貫く城川江(ソンチョンガン)に架かる「万歳(マンセ)橋」。その上流側には、植民地支配時の橋脚が今も残る(2017年8月7日撮影)

 私を乗せた車は、小高い丘の上に建つ真新しい金日成(キム・イルソン)主席と金正日(キム・ジョンイル)総書記の銅像の前を通り過ぎる。表通りから舗装が悪い路地へ入り、少し古い5階建てのアパートの前で止まる。階段で3階まで上がり玄関で呼びかけると、年老いた女性が奥から出てきた。ここは、平壌(ピョンヤン)市から車で約5時間の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市。
 日本による植民地支配や侵略の結果、アジア太平洋の国々に多くの日本人が残った。その中で朝鮮に残留する日本人については、まったく実態がわからなかった。ところが今年4月、宋日昊(ソン・イルホ)・朝日国交正常化交渉担当大使が一人の残留日本人の存在を明らかにし、取材を認めた。
 荒井琉璃子84歳。朝鮮名は「リ・ユグム」という。日本語はほとんど忘れてしまった。日本敗戦から今までに、3回の帰国の機会があったにもかかわらず朝鮮で暮らしてきた。

●父との別れ
 琉璃子は私が持参した羊羹を口にすると「幼いころに食べた記憶がある」という。琉璃子が生まれたのは1933年1月のソウル(当時の「京城」)。「ホンマチ、ミナカイ」と日本語で言うので何の意味かと思ったら、羊羹を買ったことのある店だという。帰国してから調べてみると、当時は本町1丁目にあった「三中井(みなかい)百貨店本店」のことだと分かる。
 当時の琉璃子の兄弟は5人で、上の3人は日本の学校で学ぶために熊本の祖父母の家で暮らしていた。琉璃子がまだ幼い時に母・月映(つきえ)が亡くなってしまい、父「よしのり」は再婚。母の「月映」と、2歳下の弟「秀男」の漢字は思い出せるが、「よしのり」が分からないという。
 琉璃子は1度だけ日本へ行ったことがある。「7歳の時、私と弟を見たいという祖父母に呼ばれて10日間ほど日本へ行ったんです。初めて会ったので、大変かわいがってくれました」と語る。
 1910年8月22日の「韓国併合に関する条約」で「大韓帝国」は日本によって滅ぼされる。朝鮮植民地支配が始まり、その末期には人口は2600万人に達し、そのうちの75万人が日本人だった。
 琉璃子の父は鉄道員で、貨物の取り扱い係。44年5月頃に転勤になり、一家は中国との国境の町である咸鏡北道(ハムギョンブクト)会寧(フェリョン)へ移る。
 日本敗戦が濃厚になると父にも召集令状が届き、中国へ送られることになった。44年の暮れか45年の始めのことだった。
「父さんは私と弟をぎゅっと抱き寄せました。自分は帰ってこられないと思ったのか、涙を流していました。母さんは亡くなり、父さんが行ってしまうともう頼るところがない・・・。とても悲しくなりました」

●ソ連軍からの逃避行
 45年の8月に入ってすぐのある日、会寧で事件が起きた。
 「朝の7時頃、サイレンが鳴り出したので何事かと思っていたら銃声がしたんです。そこへ行ってみると、日本人の高官が家の中で死んでいました」
 父と親しい朝鮮人たちの忠告に従い、部隊にいる父と連絡を取ることもできないまま、南へ向かって逃げることになった。琉璃子と秀男、継母とその子ども2人の一家5人は夜中に出発。荷車に最小限の家財道具を積み、山道や裏道を歩いた。道端で寝て、水があるところで米を炊いて食べた。
 逃避行の途中で、ソ連(ソビエト連邦)が日本へ宣戦布告をした8月9日を迎える。一家は、早い時期に避難を始めたので、途中でソ連軍と出会わずにすんだ。
 『北鮮の日本人苦難記』(鎌田正二)はこう記す。<ソ連軍がこの地方に進駐してからは、情勢は一変した。(略)いまは、宿をかす家を見つけることも、食糧を手に入れることもむずかしくなっただけでなく、夜ごとのソ連兵の暴行、保安隊の掠奪、圧迫もくわわって、そうでなくても困難をきわめる避難行は、まったく眼もあてられない惨憺たるものになった。(略)乳呑児を前に抱え、背には荷物を背負って、手に幼児の手をひく母親もいた。病める夫を背負った妻もいた。途中お産をしても、1日しか休まず歩きつづける母親もいた。子供を捨てた母親もいた。親が途中で死んで孤児になったのもいた>
 8月15日の日本敗戦からは避難民は一気に増えていき、前に進めないほどにまでなった。
 「長い距離を歩いたので、弟は足が痛いと泣いたんです。私はリュックサックを背負っていたんですが、負ぶってあげました」
一家が歩き始めて15日ほどした時、退潮(トェチョ)駅に汽車が停車していた。避難民たちがそれに群がっていたので、どこへ向かうのかもわからないまま一家も乗り込む。しかし動き始めて七つ目の咸興駅で、汽車から全員が降ろされる。駅前の広場で、行政機関の幹部らしき朝鮮人が通訳を通して日本人たちに話をした。
 「『日本の政府が悪いのであって人民に罪はない。日本へ帰らせるが、混乱で汽車が動かないのでここで泊まるように』と言われたんです。近くにあった旅館へ入りました」

●家族の死
 敗戦直後に朝鮮半島の北緯38度線より北側にいた日本人は、中国東北地方からの避難民を合わせると約30万人とされる。
<咸南(咸鏡南道)に終結した咸北(咸鏡北道)の避難民は、(45年)10月末現在で、咸興に約1万7000名、興南(フンナム)に約9800名、元山(ウォンサン)に約7500名を数えた>(『朝鮮終戦の記録』森田芳夫)。
 つまり咸興と隣接の興南を合わせた地域に、約2万7000人もの日本人避難民がいたのだ。
 朝鮮半島南側を管理する米国は日本人に対し、民間人だけでなく軍人までも積極的に帰国させた。ところが北側を管理するソ連は、軍人はシベリアへ送って過酷な労働をさせ、民間人は帰国させなかったばかりか食料や住居を十分に与えなかった。その結果、4万人近くの日本人が死亡したのだ。その責任はソ連にある。
 凍結した地面に墓穴を掘ることは難しい。帰国を待つ日本人が結成した「咸興日本人委員会」は、咸興にいる日本人の10%が死亡すると予測。12月中旬の凍結前に、4×20メートル・深さ2メートルという巨大な埋葬用の穴を掘る。実際の死者は、その計算の2倍以上にもなった。
 <咸興日本人委員会の統計では、翌年1月までに、咸興の死亡者6400名をかぞえ、1月の死亡者は、1日平均50名をこえていた>(『大東亜戦史8朝鮮編』「北朝鮮の憂愁」森田芳夫)
 こうした極限状態にあった9月初旬のある日の朝、継母が生んだ5歳の弟と2歳の妹が冷たくなっていたのである。死因は分からないという。

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弟と妹を埋葬した場所で、当時のようすを語る琉璃子。この近くを通るたびに、その時のことが鮮明によみがえるという(2017年8月7日撮影)

 「継母が弟の遺体を、私が妹を背負って外へ出ました。すると、日本人の遺体を山積みにしたリヤカーを引く人たちが、行列のようになっていたんです。それについて行くことにしました」
 琉璃子に、その場所で説明してもらうことにした。杖を使っているものの、歩くのは早い。大通りに面した「科学院」の門を入り、建物の裏へ向かう。小高い山の手前に塀があって、行き止まりになっている。
 「ここに大きな穴が掘られていました。リヤカーから遺体が次々と投げ込まれていくので、その人たちがいなくなってから私たちもこっそりと入れたんです」

●秀男との別れ
 弟と妹を埋葬した小高い山には、リンゴ畑があった。義母はそこから風呂敷二包みのリンゴをもらってきた。そして、「日本へ帰るために旅費が必要だから、これを売ってきて」と琉璃子と秀男に1袋ずつ渡す。2人が市場へ行くと、大勢の人で混んでいた。
 「秀男は一生懸命に動き回り、すべて売ってしまいました。私は1カ所に座り込んでいたので、少し売れ残ったんです。日が暮れて暗くなると、秀男の姿が見えなくなりました。捜し回っても見つからず、私は心細くなって泣いていました。すると、通りすがりの見知らぬ朝鮮人のおじさんに『なぜここで泣いているのか』と上手な日本語で聞かれたんです」
 その朝鮮人男性は「仕方がないから私の家へ行こう」と言った。「ついていきたいという気持ちになった」と琉璃子はいう。心細かったのと、父の姿と重なって見えたのかも知れない。
 その家へ行くと、妻と2人の子どもがいた。そして白米と豚肉のスープが出された。会寧を出てから初めて、オンドルの効いた部屋で温かい食事をした。琉璃子はこの一家に、気に入られたようだ。
 「『もし私たちと一緒に暮らしたいのなら、そうしてもいいよ』と言われたものの、その時は黙っていました。寝る時に『どうしても秀男を捜さなくては』という思いになったんです。明け方に起きて、リンゴが入った袋を持ってこっそりとその家を出ました」
 琉璃子は、商人たちが路上に並んで物を売っている場所へ行ってみた。するとそこで、ソ連兵がヒマワリの種を食べているのを目にする。たくさんの種を一度に口へ入れ、殻だけを器用に次々と吐き出しているのだ。瑠璃子は、そのようすがあまりにも面白くて見入っていると、誰かが後ろから突いた。振り返ると秀男だった。偶然にも弟と再会することができたのだ。
 「『一緒に早く行こう』と秀男は言いました。『もうすぐ汽車が出発するので、リンゴが売れてなくても早く連れて来なさい』と(継母が)言っていると・・・。でも私は『リンゴを全部売るので先に行きなさい』と言い張ったんです」
 これが、琉璃子が秀男を見た最後となった。リンゴを売り終えて旅館へ戻ると、誰もいなかったのである。「汽車が出発してしまったんだと思いました」
 日本人たちが、北緯38度線を越えるのは次第に困難になっていた。だが過酷な収容生活から逃れるため、危険を冒して帰国しようとする集団が続出していた。南へと向かう汽車があれば、何としてでもそれに乗らなければここで死ぬことになる・・・。琉璃子を捜す余裕もなく、継母や旅館の収容者たちは出発したのだろう。

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琉璃子が弟の秀男と別れた市場は、今も同じ場所にある。表通りから少し中に入った場所にあり、徒歩や自転車でたくさんの人が行き来している(2017年8月7日撮影)

 それまで淡々とした口調だった琉璃子が、涙を流しながら一気に語り始めた。
「私は、追い払うようにして秀男と別れたんです。秀男は涙を流し、何度も振り返りながら消えて行きました。それが、私が覚えている秀男の顔なんです。思い出すとすごく悲しくなるので、この話は誰にもしたことがありません」
 後になって日本からの手紙でわかったことだが、姉を捜しに出たために秀男も汽車に乗り遅れたのだ。10歳の秀男は誰にも頼れず、物乞いで飢えをしのぎながら38度線を越えて帰国。「大変な思いをした秀男は、私をどれほど恨んだことか」と瑠璃子は語る。
リンゴを売ることにこだわったため汽車に乗り遅れてしまい、大混乱が続く朝鮮へ置き去りになった琉璃子。この出来事で、自分の人生が大きく変わるなどと思いもしなかった。荒井琉璃子、まだ12歳だった。  (文中敬称略)

北朝鮮 「挙国一致」で日本は戦争準備

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が2カ月以上も核・ミサイル実験をしていないこともあり、米朝の軍事衝突は今のところ回避されている。だが11月20日に米国のトランプ大統領が、朝鮮への「テロ支援国家」再指定を発表したことで、米朝が交渉する環境は遠のいてしまった。

清津港
たくさんの木造漁船が係留されている清津港(2012年8月31日撮影)

 そして日本政府は米朝による大規模軍事衝突や全面戦争に備え、市民に対して戦争による影響や被害の覚悟を促すなど着実に準備を進めている。

 27日に河野太郎外相は衆院予算委員会において、韓国に在住・滞在する日本人の退避について言明。

 「民間航空機で退避できない状況になった場合は、政府保有の航空機・船舶を派遣する必要になる」と述べた。つまり、政府専用機や自衛隊の航空機・艦船を派遣するというのだ。自衛隊を使うということについては、間違いなく韓国で反発が起きるだろう。

 また厚生労働省は、北朝鮮から数万人の難民がやって来ることを想定して、感染症対策のための研究班を発足させる。この難民が武装していた場合について麻生太郎副総理兼財務相は9月23日、「新潟・山形・青森の方には間違いなく漂着する。じゃあ射殺か、真剣に考えた方がいい」と述べた。

 そして、23日に北朝鮮から秋田県へ漂着した漁船に乗っていた8人についての妄言が続いている。菅義偉官房長官はその翌日、北朝鮮の工作員である可能性を踏まえて調べると述べた。わざわざそのように言明する姿勢からは、命からがらたどり着いた人たちへの人としての心が感じられない。

 そればかりか、「リベラル」を掲げている立憲民主党の長妻昭代表代行は26日のテレビ番組で、「偽装漁民の可能性を精査しなければならず、国境と海域の守りを徹底して欲しい」と語った。

 日本のいかなる政党も、米朝の軍事衝突回避のために独自に動こうとしていない。政治的立場を越えた「挙国一致」で、日本は戦争への準備をしているようにみえる。

「自民党大勝は北朝鮮のおかげ」発言は正確

 麻生太郎副総理は26日、衆院選で自民党が大勝したことについて「明らかに北朝鮮のおかげもありましょう」と発言。これに対して野党から批判が出ているが、それは間違いである。

三池淵の子どもたち
三池淵(サムジオン)の屋外で歌う子どもたち(2017年8月13日撮影)

 安倍首相は、米朝の軍事的衝突が起きる前にとの理由で解散・総選挙を行ない、選挙では「国難」という言葉で「北朝鮮の脅威」を最大限に煽った。麻生副総理の述べたように、自民党大勝の大きな理由はまさしく「北朝鮮」だったのである。

 安倍首相の極端な米国隷属の政策によって、日本の外交力は確実に衰退しつつある。10月27日、軍縮問題を扱う「国連総会第1委員会」で、日本政府が提出した「核兵器全廃をめざす決議案」の採択が行なわれた。

 日本政府は24年連続でこの決議案を提出しているが、賛成は昨年の167カ国から144カ国へと減少。賛成が減った理由は明確である。今年7月に「国連総会」で採択された「核兵器禁止条約」に、米国などの核保有国だけでなく、米国の「核の傘」の下にある日本も反対した。

 日本政府の決議案は、国際社会の核廃絶に向けての画期的な前進である「核兵器禁止条約」に触れることもせず、内容は昨年のものよりも大きく後退。その一方で、「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核・ミサイル開発の脅威」を強調している。

 トランプ政権は原子力空母を3隻も朝鮮半島周辺に配備し、いつでも北朝鮮に軍事攻撃できる態勢にしている。しかもその攻撃では、小型核兵器を使用する可能性もある。そうした中で日本政府は米国に「忖度」し、このような腑抜けの「決議案」を出したのだ。

 28日朝、もう一つ大きな出来事がニュースになっていた。スペイン北東部にあるカタルーニャ自治州の州議会は27日、「独立宣言」決議を賛成多数で可決した。独立を阻止しようとするスペイン政府のさまざまな強権発動を覚悟しての決議である。

 「民族自決」のために犠牲と苦難をいとわないカタルーニャ。それに比べ、米軍の沖縄での数々の横暴に対しても容認し、軍事だけでなく政治・経済でも米国に依存し続ける日本・・・。この国の100年後、200年後を見据えた政治家はいないのか。

北朝鮮 安倍首相は米国追随で日本を危険に陥れるな!

 米国CNNは10月16日、「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)政府関係者」の話を報じた。北朝鮮は、米国東海岸に到達する大陸間弾道ミサイル(ICBM)が完成するまでは米国との交渉に応じないとしている。

捕虜の人形
「祖国解放戦争勝利記念館」に展示されている朝鮮戦争での米兵の人形(2017年4月12日撮影)

 トランプ大統領の11月5日からの日本・韓国・中国訪問を前に、16日より米韓合同軍事演習が行なわれている。今年になって3回目の、最新兵器を大量に動員した大規模演習である。「演習」といってもそのまま奇襲攻撃に移ることが出来るので、北朝鮮は毎回、強く反発している。

 また10月23日から27日まで、韓国で暮らす米国の民間人を国外へ退避させる「非戦闘員退避活動」が実施される。

 先の北朝鮮政府関係者は、米韓合同軍事演習やトランプ大統領のアジア歴訪中に大気圏核実験やICBM発射を実施する可能性についても言及した。

 日本などのマスメディアは、北朝鮮の核・ミサイル実験を「挑発」とし、米韓合同軍事演習を「牽制」と呼んでいる。だが、どう考えても米韓合同軍事演習も北朝鮮への挑発でしかない。正確に言えば、双方が相手に対して軍事的威嚇をしているのだ。

 そうした米朝だが、非公式のいくつかの接触は行なわれているようだ。「6カ国協議」に参加した関係国で、北朝鮮との対話を放棄して圧力一辺倒なのは日本だけである。現在の危機は米朝対立によるものであるにもかかわらず、安倍政権は米国よりも熱心に「北朝鮮の脅威」を国際社会にアピールしている。

 この行為は日本にとって極めて危険である。米朝での戦闘や戦争が始まったならば、それに対する反撃として「敵国」日本へミサイルが発射される可能性を高めているからだ。

現在の日本の「危機」は安倍首相が、第1次政権の時からコツコツと築いてきたものだ。この米朝危機を機会として、日本の対米追随政策を根本的に転換すべきだ。
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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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