「朝鮮民主主義人民共和国 米国との対決と核・ミサイル開発の理由」刊行案内

「朝鮮民主主義人民共和国 米国との対決と核・ミサイル開発の理由」
一葉社  2018年7月27日発行 定価1200円+税

米朝対決刊行案内

目 次
第1章 朝鮮は米国をどうみているか
第2章 米国による干渉と敵対の歴史
第3章 核・ミサイル開発の理由と経緯
第4章 朝鮮が米国に求めているもの
第5章 米朝対立と日本

 私の朝鮮取材は2018年7月で39回。さまざまな取材をする中で朝鮮の歴史を知り、朝鮮が米国と厳しく対決し、核・ミサイル開発を推進してきたことには明確な理由があることを知りました。

 2017年の朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)と米国との危機的状況の中で、多くの市民団体から講演に呼ばれました。「なぜ、米朝は長年にわたって対決してきたのか」「朝鮮が核・ミサイル開発を続けるのはなぜか」といった疑問に少しでも答えようとしました。それを、より詳しくまとめたのがこの本です。未公表のものを含め、約60枚の写真も入っています。

 日本や朝鮮・韓国では、米朝対立や朝鮮戦争に関する書籍がたくさん出版されています。ですがこの本では、それらをより長い歴史の中で総合的にとらえ、よりわかりやすく簡潔にまとめました。私の22冊目の本になりますが、ダイナミックに動く政治状況に合わせたタイムリーな出版になったと思っています。

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北朝鮮現地報告第2弾  人民軍兵士にインタビュー

  このブログは平壌(ピョンヤン)のホテルの自室から更新している。

 29日は、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)側から板門店(パンムンジョム)へ行った。今までに約10回行っているが、南北首脳会談が行われた現場の変化を知るためだ。詳細はメディアでの発表前なので控えるが、いくつもの変化があった。

人民軍兵士
インタビューにも応じた人民軍兵士(2018年6月29日撮影)

 昼食は、開城(ケソン)市内の「民族旅館」で開城の伝統料理。李王朝時代の雰囲気のある部屋でかなりレベルの高い料理を食べ、地元が産地の高麗人参の酒を飲む。しかも、伝統楽器・カヤグムを目の前で演奏してくれるのだ。至福の時間を過ごす。

 午後からは軍事境界線に沿って東へ移動し、朝鮮人民軍の監視施設へ行く。以前は、対応してくれるのは将校だったが、今回は何と一般の兵士が対応してくれた。説明を聞いた後、ビデオカメラを向けて質問すると、考えながらも答えてくれたのだ。39回目の北朝鮮取材で初のことだし、驚きである。

 米朝首脳会談後、日本からジャーナリストや研究者がさまざまなルートで入国している。マスメディアからの取材申請もたくさん出されているというが、北朝鮮は極めて慎重だ。

 28日に関西空港の税関は、朝鮮学校の生徒たちが北朝鮮から持ち帰った土産品を没収した。私が3月に北朝鮮で購入した切手を没収する際、税関の責任者は、経済産業省の担当者へ電話して判断を仰いでいた。

 今回も約30人も生徒から没収するには、出先の勝手な判断でやることはあり得ない。経済産業省、つまり日本政府の決定によるものである。「制裁」の名の下に、こんな愚かなことをいつまでもやっているようでは、日朝首脳会談どころか交渉さえも進まないだろう。

北朝鮮現地報告第1弾 3カ月ぶりの北朝鮮取材

 3カ月ぶりの北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)取材に来ている。前回の取材のテレビで2本の特集番組と雑誌への掲載が終わったと思ったらもう次の取材なのだ。4泊した咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市から平壌(ピョンヤン)市へ戻った。


咸興会館での朝鮮戦争行事
朝鮮戦争開戦の日の記念行事に、咸興市の公会堂へ集まった人々(2018年6月25日撮影)

 途中の車窓からは、田植えの終わった水田で除草している人たちの姿が見える。場所によって田植えをまだしている。それはオオムギやコムギの収穫を待ったからだ。まだ黄金色の麦畑がいたる所に残っている。

 韓国・中国との関係改善へ歩み出し、米国との首脳会談を終えた北朝鮮だが、街には何の変化もない。話を聞いた若者は、首脳会談を肯定的に評価している。トランプ大統領の顔をテレビや新聞で初めて見たという。

北朝鮮 里帰りを熱望する在朝日本人妻たち

 『週刊金曜日』2018年6月8日号に掲載した記事を紹介する。

 朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と米国との激しい駆け引きが続いている。一方で、朝鮮敵視政策を続けてきた日本政府は、交渉の糸口さえ見いだせずにいる。そうしたなか、日本への里帰りを強く望む人たちが朝鮮にいる。在朝日本人妻7人と1人の遺族を、首都・平壌(ピョンヤン)と地方都市で時間をかけた取材をした。

在朝日本人
咸興(ハムフン)で暮らす在朝日本人たち(2018年2月22日撮影)

 半年後に、こうした形で「再会」するとは思っていなかった。昨年8月にこの部屋でインタビューした時には、寡黙ながらも日本へ再び里帰りする希望を語っていた。その人は今、小さな額縁の中におさまっている。岩瀬藤子(朝鮮名:リ・ミヒョン)さんが亡くなったのは今年1月3日。偶然にも、その日は78歳の誕生日だった。
 岩瀬さんの息子のキム・テソンさん(40歳)は「『日本は地理的に近いが遠くて行けない国』とお母さんが言ったことがあります。高齢になって、故郷を思い出したのだと思います」と語る。1人の日本人が、望郷の念を抱きながら亡くなってしまった。
 朝鮮の咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)市は、首都・平壌から車で5時間以上かかる。私はそこを、昨年4月からの1年間に4回も訪ねた。この地に、たくさんの日本人女性が暮らしているからだ。彼女たちは「咸興にじの会」という日本人の親睦団体を結成し、岩瀬さんは副会長をしてきた。この会は建設現場へ支援物資を送る活動もしている。「お礼の返事はあるのか」と私が質問すると、「くる時もあれば、こない時もある」と岩瀬さんがぶっきらぼうに答えたので、その場にいた日本人妻たちと大笑いをした。
 この「咸興にじの会」の会長は、日本敗戦前から朝鮮で暮らしてきた85歳の荒井琉璃子(朝鮮名:リ・ユグム)さん(『週刊金曜日』「大国に翻弄され続けた“最後の朝鮮残留日本人”」2017年12月8日号参照)。
 「亡くなってすぐに家へ行き、顔を撫でてあげました。本当に寂しいですね。残念です。1人また1人と亡くなってしまうので・・・」
荒井さん宅に集まった3人の日本人妻が、その言葉にうなずく。咸興ではこの半年で、岩瀬さんの他にもう1人亡くなったという。
私が今年2月に取材を予定していた日本人妻4人のうち、2人も死亡していることが平壌へ着いてからわかった。それが岩瀬さんと、日本へ帰国したものの朝鮮へ戻った平島筆子(朝鮮名:アン・ピルファ)さん(79歳で死亡)である(『週刊金曜日』「日朝関係に翻弄された劇的な人生」18年3月16日号参照)。

●帰国事業と日本人妻
 1959年12月から在日朝鮮人の帰国事業が始まり、9万3340人が朝鮮へ渡る。その中の日本国籍者は6679人。朝鮮人と結婚していた日本人配偶者はそのうちの1831人で、ほとんどが女性だった。なぜそれほど多くの日本人女性が、見ず知らずの国へ渡る決断をしたのだろうか。
 日本の植民地支配によって、朝鮮半島から膨大な数の朝鮮人が日本へ渡ってきた。過酷な植民地政策によって生活できなくなった家族や、本人の意思に反して「徴用」などによる労働者として玄界灘を越えてきた。日本で暮らす朝鮮人は、もっとも多かった44年には約194万人にもなる。45年8月に祖国が解放されても、約30%の人たちが日本へ残った。だが在日朝鮮人の多くは、民族差別と失業による貧困で苦しむ。59年ごろには生活保護受給者は約8万1000人にも達し、年間経費は約16億9000万円にもなっていた。
 外務省から「日本赤十字社(日赤)」へ派遣された外事部長は「日本政府は、はっきり云えば、厄介な朝鮮人を日本から一掃することに利益を持つ」(『在日朝鮮人帰国問題の真相』井上益太郎)とした。日本政府は財政負担を減らすために、在日朝鮮人を追放したいと考えていたのだ。「日赤」は54年1月に「朝鮮赤十字会(朝赤)」へ文書を送る。
 「もし帰国が許されるならば、その便船を利用し、日本にある貴国人にして帰国を希望するものを帰国に帰すことを本社は援助したい」(『日本赤十字社社史稿』第6巻)
 つまり、朝鮮残留日本人の帰国と在日朝鮮人の帰国をセットで進めようという提案なのだ。このように、帰国事業が始まるきっかけは、日本側がつくっていた。
 一方の朝鮮は、中国とソ連の対立が深刻化する中でそれらの国と距離を置き、日本との関係改善を模索していた。55年2月には南日(ナム・イル)外務大臣が国交正常化を呼びかける。そして58年9月に金日成(キム・イルソン)首相(当時)は「共和国政府は在日同胞が帰国して新しい生活ができるようにすべての条件を保障する」と表明。こうして両国政府の思惑が一致し、熱気を帯びた大規模な帰国運動へと発展していった。しかも『産経新聞』や『読売新聞』を含むマスメディアは、朝鮮戦争による廃墟から急速に復興する朝鮮を褒め称え、帰国運動の後押しをした。
 帰国する在日朝鮮人のほとんどは、出身地が朝鮮半島南側だった。しかし韓国では李承晩(イ・スンマン)大統領による軍事独裁政権が続いていたため、社会主義体制の朝鮮半島北側へ渡ることを決断した人も多い。

●未知の国への渡航
 「日本では、朝鮮人への差別があったんです。今でもそうですか?  選挙で朝鮮人は投票できないので、夫に申し訳ないと思いながら私一人で投票所へ行きました。そしてお腹の子どもは、学校で日本人の子どもたちからいじめられ、思うように勉強できないだろうと思ったんです」
 このように中本愛子(朝鮮名:キム・エスン)さん(86歳)は、民族差別から逃れるために朝鮮行きを決断したという。他の日本人妻や帰国者も、子どもの教育のために一家揃ってとか、学費がなくて断念した大学で学ぶために朝鮮へ渡ったと語る。私は中本さんに、両親が渡航に反対しなかったのか聞いた。
 「お父さんは『嫁ぎ先のいうことを聞かないといけないので行きなさい』と言いました。ですがお母さんは、病身だったこともあり長女の私を頼っていたので泣きながら反対しました。私は『3年したら里帰りできる』となだめたんです」
 岩瀬さんも「3年経ったら日本と朝鮮を行き来することができるという話があり、別れることを深刻に思う人はいませんでした」という。取材したどの日本人妻たちも「3年で里帰り」という話を聞いたというが、その出所はわからない。
 59年8月に「日赤」と「朝赤」は、インドのカルカッタ(現コルコタ)で帰国事業についての協定に調印。その年の12月14日、最初の帰国船が新潟港から清津(チョンジン)港へ向かった。
 「わたしたち帰国者は歓迎の人たちと接した埠頭で、またショックを受けた。彼らのほとんどはやせていた。(略)男性が身に着けていた服装ときたら、眺めているだけで悲しくなるほど粗末である」(『帰国船』鄭箕海)
 そしてここで、中本さんが目撃した光景がある。
 「日本人妻の中には、船から降りた埠頭で朝鮮人の夫と喧嘩した人がいます。『私を騙した。すぐに日本に帰してくれ』と言って・・・」。
 しかしこうしたようすを見ても、中本さんは何の不安もなかったという。朝鮮は、朝鮮戦争での米軍による攻撃で焦土と化した。最初の帰国船が出たのはその休戦からわずか6年後。復興は始まったばかりであり、食料・日用品や住宅の不足は深刻な状況だった。過剰な宣伝によりつくり上げられた「地上の楽園」と現実との落差に失望した人もいれば、どのようなことでも受け入れようと覚悟して渡った人もいるのだ。
 帰国事業は84年7月の第187次船まで続いたが、帰国者の80%にあたる7万4779人は61年末までの約2年間に渡航。そのため帰国船は、月に3~4回も清津へ入港した。朝鮮では、押し寄せるようにやって来る人々への対応が追いつかない状態に陥る。帰国者たちは、清津や咸興での数日間の滞在中に行き先が決まった。だがこうした状況から、自分の希望と異なる地域や職場・学校へ配置される人たちが出たのである。しかも帰国希望者を、審査や選別することなく無条件ですべて受け入れたため、渡航してきた帰国者の半数以上は財産をほとんど持っていなかった。また、世話をする多数の人員を用意する必要があった。十分な対応ができるような状況ではなかったのだ。

新井好江さん
日本人妻の新井好江さん(2018年2月28日撮影)

●生活はさまざまな
 「来た当時は朝鮮の言葉も文字もわからないし、日本人はいじめられるのではと不安でたまりませんでした。ところがみんな優しくて親切で、お店へ行くと『日本から来たのだから最初に買いなさい」と言ってくれたんです」
 中本さんはこう語る。同じような話は他の日本人妻からも聞いた。彼女たちが朝鮮へ渡った時期は、まだ朝鮮戦争の傷跡が残っていた。
 「田んぼに爆弾の大きな穴が空いていて、不発弾が見えたのでウワーと思ったんです。戦争復興のために私も動員され、初めてスコップを持って作業をしました」
 しばらくそのようなことをしていた中本さんは、働きに出ることにした。
「編み機でセーターを編む職場です。ノルマを200%達成したのでみんなから栄誉だと言われ、温泉旅行にも行かせてもらいました」。
 在日朝鮮人帰国者やその日本人妻が、「脱北」してから書いた手記がいくつか出版されている。差別されて社会的に低い地位に置かれている、収容所へ入れられたり行方不明になったりした人がいる、地方都市で貧しい生活をしているなどと書かれている。それらによって、日本では朝鮮に対する極めて悪いイメージがつくられた。率直に話をしてくれる中本さんに、そうしたことがあるのかと聞いた。
 「私の夫は朝鮮へ来てからも日本と同じ運転手でしたが、商売してお金を持ってきた人はここでも裕福な生活をしていました。日本の都会から来て、やったこともない農業をした人は苦労したでしょう。だけど、日本人だからといってそうしたんではないですよ。それは運なので、仕方ないんです」
 帰国者の生活水準は、日本の親族による送金や訪問があるかないかでも大きく異なっている。私は取材で平壌や地方都市の個人宅を数十回訪ねており、差があることははっきりとわかった。また帰国者は10万人近くいたのであり、その中には日本とまったく異なる社会体制を受け入れることが出来なかった人もかなりいただろう。
 日本人妻は帰国事業の犠牲者のようにいわれてきたが、それは正確ではない。社会的に大きな評価を受けている帰国者や日本人妻もいる。取材先で、そういった人と偶然出会うことがたびたびあった。農業や歴史の研究機関で働く学者、病院の医師、大規模なインフラ整備を担当する行政機関の幹部、そして海外との交流をする機関の責任者とさまざまだ。
 日本人妻の新井好江(朝鮮名:シン・チョンホ)さん(85歳)は、日本では病気になっても病院へ行くことができないほど貧しかった。夫とともに子ども4人を連れて、何の財産も持たずに朝鮮へ渡る。そしてすぐに、「平壌日用品総合工場」で夫婦揃って働き始めた。新井さんの作業はカバン製造だった。
 「工場で働いていた87年11月に、住んでいる船橋(ソンギョ)区域の人民委員会から呼び出されました。そして、この区域の『出版物普及所』の所長に任命されたんです。図書を、企業や学校へ配布する機関です。それまでの仕事とまったく違いましたが、69歳まで張り合いのある仕事ができました」
 朝鮮で日本人妻が置かれた社会的状況は実にさまざまである。家庭生活や仕事がうまくいき幸せだと思っている人もいれば、ここでの生活に馴染めなくて失敗したと思った人もいるのだ。
 「脱北」して日本へ帰国したものの再び朝鮮へ戻った人は平島筆子さんだけではない。石川一二三さんは在日朝鮮人のト・サンダルさんの三女で、60年に両親とともに朝鮮へ。2003年10月に「脱北」して日本で暮らしていたが、07年6月に朝鮮へ戻った。平島さんと同じように、再び朝鮮の家族と暮らすために支援者の説得を振り切って戻ったという。別れて暮らす日本の肉親、新しく築いた朝鮮の家族との間を行き来できないために起きたことだ。
 日本人妻や在日朝鮮人帰国者は、国交正常化が実現すれば日朝間を自由に往来できると信じていた。ところが国交は、朝鮮植民地支配の終焉から73年たっても結ばれていない。日本人妻たちの苦難は、日朝に国交がなく日本が朝鮮を敵視していることが根本的な原因だ。

●里帰り事業は3回
 1991年1月に日朝国交正常化交渉が始まる。それにより、日本政府が要求してきた日本人妻の里帰り事業が97年11月から開始された。その第1回は15人で、98年1月に12人、2000年9月に16人の、合わせて43人が里帰りをした。
 「成田空港の記者の多さにはびっくりしちゃった。でも、嬉しかったんです。『おかえりなさーい』ってみんなが言ってくれてね」
第1回に参加した新井さんはこう語る。同じ回で岩瀬さんも里帰りし、兄弟と会ったり墓参をした。
 「37年ぶりに帰ったので『浦島太郎のような日本人妻の里帰りが実現した』って新聞に出たのを覚えていますよ。日本では慌しかったのですが、行って良かったです。気持ちの踏ん切りがつきました」
 わずか2泊3日の滞在であっても、願い続けてきた里帰りをしたことで大いに満足できたのだろう。
 だが、中本さんが参加予定の2002年10月の4回目の里帰りは「延期」と発表された。
 「やっと私も行けると、喜んでいました。17人が一緒に日本へ行くことになり、飛行機に乗る日も決まっていました。この少し前に小泉首相が朝鮮へ来ていたので、うまく行くだろうと安心していたんですよ。ところが、平壌で見物したりして待っていたら急に中止になったんです。日本の方で来るなと言ったんです。なぜ里帰りさせてくれないのかと、恨んで恨んで泣きました」
 当時を知る外務省関係者が、その理由を明かしてくれた。02年9月の小泉純一郎首相の訪朝によって朝鮮が拉致を認めたことで日本の世論が悪化し、実施できなくなったという。この第4回目の延期は、そのまま里帰り事業の中止になってしまった。「一緒に行くことになっていた人のうち、5~6人がすでに亡くなってしまった」と中本さんは悔しそうに語った。
 この後、99年に村山富市元首相を団長とした超党派訪朝団が里帰り事業の再開を要請。朝鮮労働党と合意したものの、日朝関係がさらに悪化したために実施されなかった。

●唯一の日本人組織
 日本人妻たちの話からすると、朝鮮へ渡った日本人6679人のかなりがすでに亡くなっているのは確かだ。またその消息は、帰国者とその配偶者である日本人妻の世話をしている「海外同胞事業局」でも、もはや全体を把握できていないようである。
 そうした状況の中で、しかも地方都市の咸興において日本人妻11人が集まり、16年11月に残留日本人を会長に「咸興にじの会」を結成。これは朝鮮にある唯一の日本人組織であり、極めて異例なことだ。
ともに積極的な生き方をしてきた荒井さんと岩瀬さん・中本さんは、姉妹のように仲良くしてきた。子や孫の世話になるようになって時間ができ、この3人が行政機関に働きかけた。
 「日本人に何の差別もなく良くしてくれたこの国のために、何かしようということで『にじの会』をつくりました。月1回は集まって、話しをしたりごはん食べたりして過ごしています。これが楽しくて、時間を忘れるほどなんですよ」
 このように中本さんは語る。だがこの会は高齢者ばかりなので、岩瀬さんの息子の妻のキム・ウンスクさんが事務をしている。「新興山(シンフンサン)ホテル」内の立派な事務所で「設立目的」を説明してくれた。
① 咸鏡南道で暮らす在朝日本人(残留日本人と日本人妻)の融和と親睦を推進する
② 在朝日本人を差別なく待遇し、すべての生活を保障している朝鮮政府に報いるために社会活動を行なう
③ 朝鮮の政治・社会主義制度などを、日本人民に広く紹介するための活動を行なう
④ 日本政府に、朝鮮敵視政策の撤回と過去の清算をさせるための活動を行なう
⑤ 在朝日本人の自由な里帰りの実現のために努力し、朝鮮内の日本人遺骨と墓参問題の解決のための活動で朝日関係改善に寄与する
 会員たちが高齢であるのに大きな目標を掲げていることを聞くと、その子どもたちの入会を進めているという。
何人かの日本人妻は、日本は植民地支配の清算をすべきと語った。岩瀬さんからは、日本人遺骨の話が出た。
「いっぱい埋まっている日本人の遺骨を早く探し、日本へ持っていってあげるのが本当じゃないのですか? 日本政府に言いたいのは、昔のことをきれいに清算してほしいということです」
 45年8月9日に、中国東北地方や朝鮮半島北部などをソ連軍が攻撃。それを逃れてきた日本人が、ソ連管理下の朝鮮半島北部で4万人近く死亡。咸興とその周辺には、何カ所もの大規模な埋葬地がある(『週刊金曜日』「戦後初の墓参で遺骨に手を合わす遺族の願い」2012年9月14日号参照)。農作業で見つかった遺骨10体の埋葬に、「にじの会」の人たちが立ち会った。身近なところに、日本人遺骨が放置されていることに心を痛めているのだ。

●2時間でも故郷へ
 日本人妻たちに、日本の親族との現在の関係を聞くと誰もが口を濁す。現在でも、手紙や電話で連絡が取れている人はほとんどいないようだ。新井さんは「私は今も日本の兄弟へ年賀状を出しています。『私は生きています』って知らせるためです。ただ3年前に、返事は止まっちゃったけどね」と少し寂しそうに語る。
 中本さんも、兄弟からの手紙が届かなくなって久しい。「生きているのかどうか、それだけでもわかればいいのに。手紙の一つでもくれればと思うんですよ。このまま死ぬのかなあ・・・」と寂しそうだ。そして、51年前に妹から送られてきた古ぼけた手紙を見せてくれた。「宝物です。私が死んだとき、これを一緒に棺へ入れてもらうんです」と語る。
 私が岩瀬さんの写真アルバムを複写していると、日本へ里帰りした時に撮影した兄弟の写真があった。「この写真が日本で公表されたら本人たちの仕事に支障があるので、絶対に出さないでほしい」と岩瀬さんは慌てて手で隠した。
 両親がともに亡くなると、兄弟は連絡を絶つことが多い。日本の肉親たちは最悪の日朝関係が長く続く中で、朝鮮に身内がいることを隠している人がほとんどなのだ。日本へ里帰りした日本人妻で、肉親から会うことを拒否された人もいるという。それにもかかわらず日本人妻たちは、日本の親族に迷惑がかからないように気遣っている。
 高齢化した日本人女性には、動けなくなって寝込んでいる人も多いという。荒井さんは私が訪ねる10日前に転倒し、腰を強打して自分で歩くことが出来なくなっていた。「いっそ死んでしまいたいよ」と荒井さんが言うと、1歳年上の中本さんが「何でそんなこと言うの、弱音を言わないで」とたしなめた。その中本さんは、次のように願いを語る。
 「お父さんとお母さんが亡くなったとき、長女なのに行けなかったんです。せめて1回でも、『やっと今、長女が会いに来ました』と墓前で言うことができたら、いつ死んでも思い残すことはありません。故郷に1泊できなくても、2時間でも帰りたいです」

●人道問題で関係改善を
 14年5月、ノルウェーで日朝政府間協議が行われ「ストックホルム合意」が発表された。「日本側は、北朝鮮側に対し、1945年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を要請した」(日本外務省ウェブサイト)
 この合意にもとづいて朝鮮は「特別調査委員会」を立ち上げて調査を開始。残留日本人の荒井さんや日本人妻たちも調査を受けた。「特別調査委員会に『(永住)帰国はしたいか』と聞かれたので『そういう気持ちはないが、死ぬ前に墓参りして兄弟に会えれば思い残すことはない』と答えたんです」と新井さんは言う。
 こうした動きに日本人妻の誰もが、里帰り事業が再開されるのではと期待したという。だが日本政府は拉致被害者を優先し、他の項目については調査報告の受け取りさえ拒んだという。非人道的対応である。
 そして朝鮮が16年1月に核実験を行なうと、日本政府はすぐに追加制裁を実施。そのため朝鮮は「特別調査委員会」の解体を宣言し、それ以降は日朝間の政府間協議は止まったままだ。
 朝鮮と韓国・中国との首脳会談により、米朝交渉がどのようになろうとも、昨年と同じ危機的状況に戻ることはない。一方、日朝交渉は、拉致問題がネックとなってまったく進展しない状況が続く。日本政府は、拉致問題「解決」の着地点を明示する必要があるだろう。
 高齢になった在朝日本人は誰もが「死ぬ前に里帰りしたい」と強く望んでいる。日朝交渉の進展と関係なく、すぐに取り組むことができる残留日本人と日本人妻の里帰りを実施すべきだ。もはやその対象者は極めて少なくなっており、過去に里帰りした人も含めるのが現実的である。
 新井さんは次のように語る。
 「地図で見ると、日本と朝鮮は本当に近いところにあるのにね。理解して仲良くなれば、お互いに利益があるんじゃないかと思うんです。戦争にならないわけでしょ。できるなら、私たち日本人妻が日本と朝鮮のかけ橋になりたいです」

米朝首脳会談の日に北朝鮮監視衛星を打ち上げた日本

 6月12日の歴史的な米朝首脳会談の共同声明では、「トランプ大統領は北朝鮮への安全保障の提供を決意。金正恩委員長は朝鮮半島の完全な非核化への揺るぎない固い決意を再確認」としている。トランプ大統領はその後の記者会見で、米韓合同軍事演習の中止や拉致問題を提起したとも言及した。

万寿台の銅像
平壌の万寿台(マンスデ)に建つ最高指導者の銅像(2018年3月2日撮影)

 首脳会談の報道をテレビで見ていたら「北朝鮮側の状況について現地からの中継です」と某テレビ局のキャスターが言う。てっきり平壌(ピョンヤン)からだと思ったら、その「現地」とはシンガポールだった。

 実は私は、今日の歴史的な米朝首脳会談を平壌で取材する予定だった。あるテレビのキー局から、その会談を北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の首都で取材して欲しいとの急な依頼があった。

 シンガポールからだけでなく、北朝鮮からも首脳会談についての市民の声などを発信するべきとの話に私は共感。平壌から中継などをするために、北朝鮮へ直ちに申請をした。結局、手続きのための時間がなさすぎるとの理由で実現しなかった。

 雑誌・テレビからの私への協力や取材依頼が続いている。その中には、驚くようなとんでもない企画もある。記者などの、会って話を聞きたいという連絡も多くとても対応できない。米朝関係が大きく変わりつつあるため、日本のマスメディアは北朝鮮報道のスタンスを変えようとしているのだ。

 ところが日本の政府の方は、拉致問題解決のために日朝首脳会談を模索しているというが、とてもそれが本気だとは思えない。今日の午後1時20分に、北朝鮮の核・ミサイル施設を監視するための偵察衛星を種子島宇宙センターから打ち上げた。また6月1日には、北朝鮮からのミサイルへの防衛システムのイージス・アショアを配備する自治体への説明を開始している。

 このように、日本政府の北朝鮮への敵視姿勢はまったく変更されていないのだ。これでは、とても話し合いの環境ではないのは確かだ。安倍首相は異常なまでの強硬姿勢で走り続けてきたため、軌道修正をすることができないようだ。
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プロフィール

こだわりジャーナリスト

Author:こだわりジャーナリスト
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は200回近くで、そのうち北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へは数十回です。現在、年1~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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