国連から「差別」とされても居直る日本政府

日本政府は、新型コロナウイルスの影響で生活が困窮した学生に、最高20万円を給付する制度を設けたが、朝鮮大学校(東京都小平市)を対象から排除した。

それに対して国連人権理事会から任命された特別報告者4人が、「人種や民族に基づく差別にあたる」として、日本政府に是正を強く求める書簡を送っていた。これに対して加藤勝信官房長官は6月22日、「差別には該当しない」と記者会見で反論。

その理由を「専修学校や各種学校に通う学生は、日本人か外国人かに関わらず事業の対象外」というのだ。朝鮮高校や朝鮮幼稚園を無償化の対象から外したのと同じ言い訳である。そもそもこのへ理屈は、これら朝鮮学校を支援の対象から外すために考え出されたものだ。

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新潟港の「万景峰92号」(2004年4月26日撮影)

朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)を徹底的に敵視した安倍前首相などは、貿易を全面的に禁止するなど朝鮮への独自制裁を次々と実施。考えられる措置をすべて実施したため、その矛先を在日朝鮮人へ向けた。その一つとして、朝鮮学校とその学生への嫌がらせ政策を続けてきた。国際的にみて、このような朝鮮敵視のために強引に行なわれている措置を「差別には該当しない」と言い訳しても通用するはずがない。

日本政府は朝鮮への厳しい独自制裁を続け、国会議員や高級官僚たちはブルーリボンを付けたままだ。ブルーリボンは、一度つけたならばその職を辞するまで外すことなど出来ないはずだ。これは朝鮮に向けて思い切り振り上げた拳を、そろそろ下ろしたいと思っても下ろすことが出来ないという状態なのだ。

森友学園問題で自殺に追い込まれた赤木俊夫さんのように、自分の仕事に誇りをもち、正義を貫きたいと思っている官僚は外務省にもいるはずだ。そうした人は、日本政府の無策によって膠着状態が続く現在の日朝関係に危機感を持っていることだろう。

米国バイデン政権は、朝鮮との交渉再開のために次々とシグナルを送っている。6月21日の米韓北核主席代表者会議で、開城(ケソン)工業団地や金剛山(クムガンサン)観光などの南北経済協力事業にとって足かせとなっていた米韓作業グループの解体を決めた。米国側が妥協したのだ。

金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党副部長は6月22日、米国の対話再開への期待をけん制する談話を発表。それに対し米国務省のプライス報道官は「米国の外交政策は敵対ではない」とし、対話へ前向きな対応をするよう改めて呼びかけた。

このように米国と韓国は、朝鮮との交渉再開へ向けて地道な努力を続けている。朝鮮への極端な敵視政策を続けるだけの日本政府は、いつまで米国の動きの様子見を続けるつもりなのだろうか。

米朝対決の本質をごまかすバイデン政権

米国のオースティン国防長官は6月10日に開催された「米議会上院軍事委員会」で、「北朝鮮は米本土を攻撃する野望を持って、核・弾道ミサイルを開発している」と答弁した。そして、こうした野望は同盟国にとって次第に脅威となりつつあるとも述べた。

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朝鮮戦争の博物館「祖国解放戦争勝利記念館」の兵士像(2014年4月撮影)

米国のバイデン政権は、朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に対する新たな政策を発表したにもかかわらず、対話開始には成功していない。そうした状況の中で政権中枢からは、朝鮮の核・ミサイル開発についての発言が続いている。

「米国防総省のメリッサ・ダルトン国防次官補代行(戦略・企画・力量担当)もこの日(10日)、米議会下院軍事委員会戦略軍小委員会での公聴会で『北朝鮮が実験を行った大陸間弾道ミサイル(ICBM)は米本土のどこでも攻撃できるように設計されている』『北朝鮮は核兵器製造目的の核物質も引き続き生産している』と証言した。さらに『北朝鮮による継続した核兵器開発やその展開は、隣国と米国にとって脅威となっている』とも指摘した。

これに先立ち米国務省報道官室も今月7日、米政府系放送『ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」に出演し『北朝鮮による違法な核や弾道ミサイルなどの技術拡散の動きは、国際社会の平和と安全保障にとって深刻な脅威だ』と批判した』(「朝鮮日報」6月12日)

朝鮮は米国の首都・ワシントンがある東海岸まで到達する小型核兵器搭載の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を進め、ほぼ完成しているとみられる。国連安保理による厳しい制裁や中国・ロシアとの関係悪化を承知で、多額の資金など国のすべての力をつぎ込んで開発を続けてきた。

そうした大きな犠牲を払いながらも核・ミサイル開発を続けてきた理由は、圧倒的な軍事力を持つ米国の軍事攻撃から国を守るためだ。米国による核兵器による攻撃計画は何度もあり、かろうじて実施されなかったに過ぎない。

年に数回行われてきた米韓合同軍事演習は、そのまま朝鮮の核関連施設などへの空爆や政府要人の殺害が可能なものだった。朝鮮が韓国との関係改善を進めようとしないのは、文在寅(ムン・ジェイン)政権がこの軍事演習を完全に中止出来ないことが大きい。

朝鮮の核・ミサイル開発は米国に対するものであり、「国際社会の平和と安全保障にとって深刻な脅威」とはなり得ない。日本政府もたびたび行なうこの主張は、朝鮮の核・ミサイル開発は米朝間の問題でしかないという本質をごまかそうとするものだ。

ただ2017年のように米朝の軍事的緊張が戦争直前にまで高まった時、米国を一方的に支持し朝鮮戦争時と同様に米軍を物資供給で支えるといった加担をしたならば、その国にとっては「脅威」となるだろう。

なお、拙著「朝鮮民主主義人民共和国 米国との対決と核・ミサイル開発の理由」(一葉社)では、朝鮮のそうした選択について歴史的かつ詳細に解説している。

コロナワクチン提供で日朝関係改善を

朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の、新型コロナウイルス国内流入を防ぐための「鎖国」状態はほとんど変化がない。鉄壁な防疫体制を維持しているのだ。春の種まき期に合わせて化学肥料などを輸入したものの、貿易量は増えていないようだ。

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地方都市での田植え(2003年5月9日撮影)

「世界保健機関(WHO)」は5月11日に発表した報告書で、朝鮮で5月6日までに2万6720人が新型コロナウイルス検査を受けたものの感染者はいなかったとした。

だが国民の多くがワクチン接種を受けて集団免疫を獲得しない限り、外国との人の行き来は出来ない。ワクチンを接種した人でも、発症していなくてもウイルスを保有していて他人に感染させる可能性があるからだ。つまり朝鮮へ外国から人が入るには、かなりの時間がかかるのだ。

日本政府は、調達した英国「アストラゼネカ」の新型コロナウイルスワクチンの一部を、台湾に提供する検討をしているという。台湾は感染が急に拡大したものの、製薬会社との交渉が進んでいない。

日本政府は「アストラゼネカ」と1億2000万回分(6000万人分)の供給契約を結んでいる。しかしこのワクチンは、副反応として血栓症が指摘されていることと、他の製薬会社から十分な量が供給されるため使用方法が決まっていない。

「ファイザー」から2億回分(1億人分)が今秋までに、 「モデルナ」からは、5000万回分(2500人分)が供給される。 「ノババックス」製は、製造権を持つ「武田薬品」が山口県で製造して1億5000万回分を供給する。

ワクチン接種をしない低年齢層や希望しない人がいるので、すでに日本国内で必要な量は確保されている状態だ。つまり「アストラゼネカ」製は、日本国内で不必要になってしまったのである。

中国は台湾へ、ワクチン提供の申し出で揺さぶりをかけている。日本による「アストラゼネカ」ワクチンの提供は、だぶついたワクチンを外交で利用しようとするものだ。

ワクチンが欲しいものの、ほとんど供給を受けることが出来ていないのが朝鮮だ。「WHO」などによるワクチン共同調達の枠組み「COVAX(コバックス)」は、朝鮮へ「アストラゼネカ」製170万4000回分(85万2000人分)を5月末までに供給することになっていた。朝鮮は、医療関係者や高齢者などに優先接種するという計画を立てていたという。

ところが、その通りの実施が困難になっている。原因の一つはこのワクチンをライセンス製造しているインドが、国内での危機的な感染拡大によって輸出を制限しているからだ。そして朝鮮が、供給されたワクチンの接種状況のモニタリングの受け入れに難色を示しているからだという。「COVAX」は、ワクチン接種が適切に実施されているかを確認するスタッフの受け入れを供給条件にしている。

朝鮮は現在、海外から国民が帰国することさえ拒んでおり、多くの外国人が入国することなど認められないのだ。それ以外にも理由が考えられる。

私はかつて、「世界食糧計画(WFP)」による朝鮮への食糧支援を取材したことがある。平壌(ピョンヤン)市内の大使館地区の一角に立派な事務所を構え、朝鮮の地方都の市数カ所に事務所を設けていた。そして、支援した食糧が人々に届いているかのモニタリングをしていた。

それは抜き打ちで個人宅を訪れ、米びつの中まで調べるという厳しいものだった。そのため朝鮮には、国連機関によるモニタリングに対する強い拒否反応があるのだ。今回のワクチン供給での、モニタリングという条件をすんなりと受け入れることにならないのだろう。

こうした状況の中で、日本に朝鮮との交渉再開の大きな“切り札”が与えられた。「アストラゼネカ」製ワクチンを朝鮮に無償提供することだ。朝鮮の人口は約2500万人。必要な人たちすべてに供給できるだろう。

国交のない台湾へ供給するなら、同じように国交のない朝鮮へ実施することのハードルは大きく下がった。これを朝鮮が受けるかどうかは未知数だが、提案してみるべきだろう。米国頼みの朝鮮政策から脱却する千載一遇のチャンスだ。

菅政権は日朝交渉の頼みの綱「ストックホルム合意」を生かせるか

2021年5月14日配信の『現代ビジネス』に執筆した記事を紹介する。

         ◇

菅政権は日朝交渉の頼みの綱「ストックホルム合意」を生かせるか
バイデン政権は「段階的アプローチ」を選択


■輸入再開の深刻な理由

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に関して、さまざまな動きが出てきた。

北朝鮮そのものの動きとしては、輸入を一部再開したことだ。北朝鮮は、国連安保理による厳しい制裁と日米韓による独自制裁を受けている。それだけでなく大規模な自然災害に繰り返し襲われ、新型コロナウイルスの国内への流入防止のために、海外との人と物の行き来をほぼ停止してきた。

4月8日には朝鮮労働党の末端組織責任者会議で、金正恩(キム・ジョンウン)総書記は、「苦難の行軍」の実行を表明した。1990年代後半に水害と干ばつで多くの餓死者を出した際に、これを乗り切るために使われたスローガンだ。その当時に取材で訪れた私は、平壌(ピョンヤン)の高級ホテルが外国人に対してさえ、あまりにも質素な食事しか提供できないことに驚いた。

今年の2月下旬にロシアの外交官とその家族が手押しトロッコで出国したように、現在の食糧や生活必需品の不足が深刻なのは確かだ。それでも北朝鮮経済が、ここまで持ちこたえてきたことは驚異である。それは長年にわたって、外国に頼らない「自力更生」を進めてきたからだろう。

「自力更生」を掲げ、国内の原料でさまざまな製品を開発してきた北朝鮮でも、生産できないものがある。2019年10月に「金カップ体育人総合食品工場」での取材の際、「チョコレート製造のためのココアのように輸入をゼロにすることは不可能」と案内員は語った。

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田植え機を使っての田植え(2019年5月25日撮影)

私は北朝鮮農業の取材を、各地で何度も時間をかけて行なってきた。北朝鮮は、有機肥料生産や自然流下式水路による灌漑といった大規模な農業改革を実施している。だが農業生産を増やすためには、化学肥料や農薬だけでなく、畑を覆うための「マルチフィルム」といった農業資材の輸入が必須なのである。

そのため北朝鮮は、新型コロナウイルスの国内流入を防ぎながら、春の種まきシーズンに最小限の輸入を再開せざるを得なかったのだ。3月には化学肥料約900万ドル(9億9000万円)分が、中国から海上輸送されたという。

だが、輸入した物品を消毒するための施設は限られているようで、コロナ前の輸入量に戻るのがいつになるのかは分からない。

■北朝鮮政策を決めたバイデン政権

最近の北朝鮮をめぐる最大の動きは、米国バイデン政権がようやく北朝鮮政策を決めたことだ。4月30日、ホワイトハウスのサキ報道官はバイデン政権が進めていた北朝鮮政策の見直しを終えたことを明らかにし、その政策を「調整された実務的アプローチ」と呼んだ。

オバマ元政権は制裁で圧力をかけながら北朝鮮の行動が変わるのを待つ「戦略的忍耐」を行なったが、対話が途絶えたために核・ミサイル開発が進むことにもなった。トランプ前政権は、北朝鮮によるすべての核プログラムの完全かつ即時の放棄と制裁解除とを、トップ会談による「一括取引」で解決しようとして失敗した。

サキ報道官は、バイデン政権はそれらとは異なる手法を採用するとしたものの具体策には言及しなかった。だが米国の目標が、「朝鮮半島の完全な非核化」であることに変わりはないと述べた。

ブリンケン米国務長官は5月3日、この政策は現実的アプローチで、北朝鮮との外交交渉を模索するものと語った。おそらく、トランプ前政権とオバマ元政権との中間的な政策になるだろう。この米国の新北朝鮮政策は、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が表明してきた米朝の段階的な非核化という考えがかなり反映されたともいえる。

発足当初のバイデン政権は、トランプ政権が行なった2018年6月のシンガポールでの米朝首脳会談の「米朝共同声明」に否定的だったという。しかし、朝鮮半島の完全な非核化に向けて両国が努力することを確約したこの声明を受け入れ、これを北朝鮮との対話の出発点とすることにしたのだ。

バイデン政権の「調整された実務的アプローチ」は、段階的に実施されることになるだろう。つまり、米国は北朝鮮に原爆製造に必要なプルトニウムや濃縮ウランの製造禁止、核・弾道ミサイルの実験禁止などを順に求める。そして北朝鮮には朝鮮戦争の終結宣言と平和条約の締結や、韓国が求める開城(ケソン)工業団地再開などの国連制裁緩和などを一歩ずつ実施するというものになると思われる。

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軍事パレードに登場した弾道ミサイル(2017年4月15日撮影)

米国務省は北朝鮮に対する制裁を「大量破壊兵器と弾道ミサイルを開発する能力を制限する措置」としている。つまり北朝鮮が核・弾道ミサイル開発を中止しない限り、何らかの制裁は継続されるということだ。そのため北朝鮮との交渉には、現在行っている厳しい制裁をどのような形で解除していくのかが大きな焦点になる。

現在の厳しい制裁に対し、韓国と中国・ロシアは2019年末から連携し、北朝鮮市民の生活状況の改善などのために緩和を求めてきた。3日には中国の張軍国連大使は、バイデン政権は非核化への環境づくりのために制裁緩和をする必要性があると改めて中国政府の考えを表明した。

北東アジアの安定と平和のためには、朝鮮戦争の終戦宣言と平和協定の締結が必須である。これは北朝鮮に非核化を求めるためのカードなどではない。休戦状態が70年近くも続いているという極めて不安定で異常な事態を終わらせるためのものなのだ。

交渉が進んだとしても、朝鮮半島の非核化と安定・平和には相当の年月を要するだろう。北朝鮮が米国東海岸に到達する核ミサイルを完成させているという状況においては、バイデン政権はこうした「段階的アプローチ」しか選択肢はなかった。米国は2月中旬から、複数ルートで北朝鮮と接触をしようとしたが返答はなかった。

ところが、バイデン政権の北朝鮮政策が決まった後の5月上旬に接触を打診したところ「受け付けた」との回答があったという。その解釈について韓国の「連合ニュース」(5月11日)は「北朝鮮の反応は接触提案を実務レベルで受け付けたとする意味で、応じるかどうかは高官レベルの内部検討で決定するとみられる」としている。

■日朝交渉を振り返る

米国のトランプ前政権の4年間、安倍前政権は米朝交渉の行方を見守るだけで何もしなかった。バイデン政権は北朝鮮政策を打ち出したが、日本の菅義偉政権はどうするつもりなのだろうか。

日朝関係改善が、国交正常化へ向けて大きく前進したのは2002年9月17日。小泉純一郎首相が訪朝して金正日(キム・ジョンイル)総書記と日朝首脳会談を行ない、「日朝平壌宣言」が調印された。

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首脳会談時の平壌空港の旧ターミナル(2002年5月6日撮影)

中断している国交正常化交渉の再開、植民地支配に対する日本側の痛切な反省と心からのおわびの表明と過去の清算、国交正常化後の日本からの経済協力。そして日本人拉致が再発しないための措置、核開発に関する国際的合意の順守といった画期的内容となった。小泉首相は、2004年5月22日に2度目の訪朝を行なった。こうした結果、拉致問題では5人の被害者とその子どもたちが帰国した。

だが北朝鮮は、2003年1月に「核拡散防止条約(NPT)」 からの脱退を宣言。その年8月の「6カ国協議」の開始など、北朝鮮外交は核・ミサイル開発をめぐる米国などとの攻防に追われた。そうしたことで、「日朝平壌宣言」の履行は進まなかった。

2012年8月から、北朝鮮は日本の二つの民間団体による墓参団(最終的に10回、遺族ら約100人)を受け入れた。戦後は日本人が入ることができなかった地方を訪れ、集団埋葬地を掘って調査したり僧侶が法要したりした。また同行メディアは、今までは決してできなかった地方での撮影を制限なしで行なった。こうしたことの積み重ねは、日朝の信頼関係の醸成に大きな役割を果たした。

そうした状況の中で、「日本赤十字社」と「朝鮮赤十字会」との協議が2014年3月の上旬と中旬に開催された。それを受けて同月下旬には、「日朝局長級政府間協議」へと一気に進んだ。

そしてスウェーデンのストックホルムにて、5月26日~28日に最終協議が行なわれた。その会談のようすを伝える映像を見て私は驚いた。北朝鮮側の通訳は外務省からではなく、「朝鮮対外文化連絡協会(対文協)」のスタッフだったからである。対文協は国交のない国との窓口機関で、日本からの友好訪朝団だけでなくメディアやジャーナリストの受け入れをしている。

北朝鮮の外務省は、重要な日朝交渉に外務省ではなく他の機関の通訳を連れて来たのだ。外務省には実に上手な日本語を話すスタッフがいる。ところが、日朝関係の悪化に伴い日本人と接する機会が減ってしまったのだ。

しかし対文協は、以前より訪朝する人数は減ったものの日本人と日常的に接している。そのため単に日本語が上手なだけではなく、日本人の考え方や日本のさまざまな情報を得ている。外務省は、北朝鮮の最高レベルの通訳を送り込んだのだ。私はこのことから、北朝鮮がこの協議を極めて重視していることが分かった。

この通訳は対文協の実に優秀な案内員で、私が次々と要求する難しい取材を実現させてきた。ストックホルムから平壌へ戻った彼に、しばらくしてスウェーデンでの行動や印象などを聞いてみた。そして通訳に選ばれた経緯について尋ねると、外務省から直々の指名だったという。

日朝での交渉の結果、5月29日に「日朝ストックホルム合意」が発表された。

「双方は、日朝平壌宣言に則って、不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、国交正常化を実現するために、真摯に協議を行った。日本側は、北朝鮮側に対し、1945年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨及び墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を要請した。

北朝鮮側は、過去北朝鮮側が拉致問題に関して傾けてきた努力を日本側が認めたことを評価し、従来の立場はあるものの、全ての日本人に関する調査を包括的かつ全面的に実施し、最終的に、日本人に関する全ての問題を解決する意思を表明した。日本側は、これに応じ、最終的に、現在日本が独自に取っている北朝鮮に対する措置を解除する意思を表明した」

「ストックホルム合意」は、「日朝平壌宣言」が履行できずにいる状況の中で、人道的課題を先に解決して国交正常化へ繋げようというものだった。

■「ストックホルム合意」とは

「日朝ストックホルム合意」によって北朝鮮は、“日本人調査”のための「特別調査委員会」を7月初めに設置。平壌市内に用意された事務所は、日本メディアにも公開された。この委員会は、国防委員会参事と国家安全保衛部長を兼ねる徐大河(ソ・デハ)氏が就任したことから、あらゆる機関を調査できる権限があると日本側は判断した。

委員会には4つの分科会が設けられた。拉致被害者、行方不明者、日本人遺骨問題、残留日本人・日本人配偶者である。これ以外に、平壌で暮らす「よど号グループ」も調査対象になった。

日本政府は日本人埋葬地への墓参や、残留日本人・日本人配偶者の里帰りの実現を北朝鮮に対し長年にわたり強く要求してきた。ところが拉致問題が浮上すると、その解決の妨げになるとして他の問題について要求しなくなったという経緯がある。

日本政府があくまでも求めていたのは、「拉致被害者及び行方不明者」についての情報だった。合意した他の項目について重要視していなかったことは、後に明らかになる。

「拉致問題については、拉致被害者及び行方不明者に対する調査の状況を日本側に随時通報し、調査の過程において日本人の生存者が発見される場合には、その状況を日本側に伝え、帰国させる方向で去就の問題に関して協議し、必要な措置を講じることとした」

このように合意文書で、北朝鮮は拉致に関する調査の具体的措置まで提示した。「拉致問題は解決済み」としてきた北朝鮮が大きく譲歩したのである。拉致問題で完全な膠着状態にあった日朝関係は、「特別調査委員会」による調査で大きく進展する可能性が出てきたのだ。

私はこれら調査対象について、北朝鮮各地で次々と取材した。ただ「拉致被害者及び行方不明者」については、平壌にいることが分かっている2人の日本人(後述)についてたびたび取材を申請したものの許可が出なかった。

この合意による調査項目が、「日本人の遺骨及び墓地」、「残留日本人」、「いわゆる日本人配偶者」、「拉致被害者及び行方不明者」になったのには、それまでの日朝でのさまざまな経緯によるものだ。

日本は国策として、中国東北地方(満州)などに日本の民間人を移住させた。その結果、アジア太平洋戦争での敗戦時には総数は約330万人、朝鮮半島では約75万人にも達した。1945年8月9日のソ連(ソビエト連邦)の対日宣戦布告によって、中国東北地方と朝鮮半島にいた日本の民間人は、日本へ帰国するために釜山(プサン)港を目指して逃避行を開始する。

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興南の日本人集団埋葬地での発掘調査(2012年9月2日撮影)

だが朝鮮半島の北緯38度線より北側を管理することになったソ連は、そこで暮らしていたり中国東北地方から避難してきた日本人を帰国させずに留め置いた。そのため、約4万人の日本人が、伝染病や栄養失調などで死亡。それらの死者の多くは、北朝鮮各地の大規模収容所のあった場所で眠っている。

なお北朝鮮に残された日本人遺骨については、現代ビジネス(2020年8月15日)に掲載した拙稿『戦後75年、北朝鮮に眠る「日本人遺骨27000柱」をどう考えるか』に詳しい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74848

死亡しなくても食糧難や横暴なソ連兵から逃れるため、日本人の多くは大変な苦労をしながら38度線を南側へ越えて日本へ戻った。だが、残留することになった日本人もいる。朝鮮人と結婚していた日本人女性や、敗戦の混乱の中で家族と離れ離れになった人などだ。

残留日本人の荒井琉璃子さん(2017年8月10日撮影)

咸鏡南道(ハムギョンナムド)の咸興(ハムン)市で暮らす荒井琉璃子(るりこ)さん。朝鮮半島の北端に近い会寧(フェリョン)で一家6人の生活をしていたが、ソ連軍の侵攻が近いことを知って逃避行を開始。だが咸興まで来たところで、琉璃子さんは家族とはぐれてしまい朝鮮人に助けられた。この時、12歳だった。不運にも帰国の機会を何度も逃し、今まで咸興で暮らしてきた。

荒井琉璃子さんの数奇な人生についても、現代ビジネス(2019年4月21日)に、拙稿『家族と生き別れ北朝鮮で暮らす「残留日本人女性」その哀しき人生』を掲載している。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64195

これらは、日本の朝鮮植民地支配の終焉によって起きたことである。次に日朝間の大きな課題になったのは日本人妻だ。「ストックホルム合意」では「日本人配偶者」とされているが、ほとんどは女性である。

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咸興で暮らす日本人妻たち(2017年8月9日撮影)

1959年12月から在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が始まった。在日朝鮮人と結婚していた日本人配偶者1831人も北朝鮮へ渡った。

■解体された「特別調査委員会」

残留日本人・日本人妻、そして「よど号グループ」への取材で、どの日本人も「特別調査委員会」による聞き取り調査を受けていることが分かった。残留日本人・日本人妻たちは、永住帰国は望まないが一時帰国(里帰り)はしたいと誰もが伝えたという。

北朝鮮は、数ヵ月後に最初の報告を行ない全体調査は約1年で終了すると表明。日朝両国は8月下旬から、マレーシアなどで何度か非公式に話し合いを行なった。しかし、9月初めまでとされていた最初の報告は延期された。非公式協議で北朝鮮が報告しようとしている内容が示されたが、日本は拉致問題については受け入れられる内容ではないとしたのだ。

神戸のラーメン店で働いていた田中実さんは、1978年に失踪。日本政府によって、「拉致の可能性を排除できない」とされている。そして同じ店で働いていた金田龍光さんは、「特定失踪者」に認定されている。この2人が北朝鮮へ入国していることが、「ストックホルム合意」の前に北朝鮮から伝えられていたという。

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夕暮れの平壌の街(2019年7月21日撮影)

日本政府は、合意後の日朝間の交渉でも「拉致問題が最重要課題である」と繰り返し述べていた。極端な言い方をすれば、他の調査項目はどうでも良かったのだ。そのため、「拉致被害者及び行方不明者」に関する調査報告の内容が田中さんと金田さんの2人についてだけになることを恐れ、すべての項目の報告書を受け取らなかったという。

なお2019年2月に、田中さんと金田さんは妻子とともに平壌で生活していて、帰国の意思がないことが日本政府に伝えられたことが分かっている。

もし日本政府が、拉致以外の報告書だけでも受け取っていたならば、日本人埋葬地への墓参団派遣や残留日本人・日本人妻の里帰り事業の再開への道が開けていた可能性は高い。つまりそれらの課題は、拉致問題だけに固執する日本政府の非人道的判断によって切り捨てられたのだ。

2016年2月に、北朝鮮が核と弾道ミサイルの発射実験を実施したことに対し、日本政府は「ストックホルム合意」で緩和していた独自制裁を元に戻すだけでなくさらに強化。それに対して北朝鮮は、調査の中止と「特別調査委員会」の解体を発表した。

■「合意」から7年後の現状


「日朝ストックホルム合意」から今月29日で7年になる。「特別調査委員会」の解体からは、日朝政府間の交渉は行なわれていない。安倍晋三前首相は、最悪な日朝関係を放置したまま退陣した。

「特別調査委員会」が作成した日本人調査報告書は完成しているため、訪朝した私は再三にわたってその閲覧を希望した。だが、委員会解体で資料の管理状況が分からなくなったとの理由で断られた。結局、調査に関わった研究者から断片的な内容を聞くことが出来ただけだった。

「特別調査委員会」は解体されたが、北朝鮮は「ストックホルム合意」が無効になったとはしていない。日朝関係改善は、「ストックホルム合意」での日朝間の具体的課題を順に解決し、将来的に「平壌宣言」の履行から国交正常化へ向かうしかないのだ。

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集団埋葬地で龍山墓地にだけ墓が並ぶ(2019年5月16日撮影)

2012年から二つの民間団体による墓参団が10回の訪朝をしたが、今は中断している。3回の墓参団を組織した「平壌・龍山会」の佐藤知也会長は、私の取材に次のように述べた。

「日本敗戦時、難民と化した日本人が命を落とし、平壌郊外の龍山墓地には2421人が埋葬されました。墓参では遺族全員は言葉にならず、涙、涙の墓参式でした。海外での日本人死亡者の戦後処理がいまだに終わっていないのは、朝鮮半島北部だけと聞いています。遺族の高齢化は限界にきています。私たちは日本政府が『ストックホルム合意』の意向に沿って、調査団や墓参団を組織することを強く望みます。これはひとえに、人道上の問題です」

墓参を実施したもう一つの団体は「全国清津会」。高齢化によって会員は急速に減少し、会長が次々と亡くなったために墓参の継続は困難になった。もはや、民間での墓参の実施は不可能になったといえる。北朝鮮の日本人集団埋葬地は、住宅・道路建設の際に見つかってきた。時間が経つほど、それらが失われていくのは確かだ。

残留日本人は、「特別調査委員会」の調査により9人が健在であることが判明していた。ところが残留日本人の取材が可能になった2017年4月には、荒井琉璃子さん一人になってしまった。

荒井さんは、咸興で暮らす日本人妻たちと「咸興にじの会」を結成。その日本人妻の一人が中本愛子さんだ。1960年に北朝鮮へ渡り、しばらくは日本の肉親と手紙のやり取りをしていたものの途絶えた。私が中本さんから見せられた昔の手紙によって、妹の林恵子さんが見つかった。それによって姉妹は2018年6月に、58年ぶりの再会を果たした。翌年にも、中本さんの孫の結婚式のために訪朝している。

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中本愛子さん(右端)と日朝の家族たち(2018年6月26日撮影)

日本人妻のほとんどは、日本の肉親たちと連絡が途絶えた状態になっている。林恵子さんは「日本人妻の日本の家族の方々に私の2回の訪朝経験を話して、他の家族も再び連絡が取り合えるように行動をしていきたい」と語る。

そして林恵子さんと一緒に訪朝した息子の真義さんは「叔母さん(中本愛子)を始め、朝鮮の日本人妻と残留日本人の方々は高齢で時間の猶予はありません。早期に日本への里帰り事業を再開することを、政府や与党、そして内閣総理大臣は決断して欲しい」と語った。

日本人妻と残留日本人の里帰り事業は、1997年から3回実施されて43人が里帰りをした。しかし、拉致問題による日本国内の世論悪化を理由に中断された。中本愛子さんは2002年10月の第4回里帰りに参加するため、咸興から平壌まで出て来てホテルで待機していた。

「17人が一緒に行くことになり、飛行機に乗る日も決まっていました。ところが、日本が来るなと言ったんです。恨んで恨んで、泣きました」

■求められる日本の独自外交

菅義偉首相は、条件なしに日朝首脳会談をしたいと繰り返し表明している。だが日本政府は、金正恩総書記と直結する交渉ルートをすべて失っていることが判明した。「共同通信」が4月15日に報じた。

金正日総書記時代から日本との秘密協議を担っていた人物が、数年前に「体調不良」を理由に連絡を絶ったというのだ。拉致被害者に認定されている田中実さんら2人が北朝鮮へ入国していることを日本に伝え、「ストックホルム合意」の際には北朝鮮側の秘密交渉の窓口役も務めた。

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北京の北朝鮮大使館領事部(2014年9月22日撮影、人物に加工)

北朝鮮が核や弾道ミサイルの実験をするたびに、日本政府は「北朝鮮に対し北京の外交ルートを通じて厳重な抗議をした」と発表してきた。だがその実態は、北京の北朝鮮大使館へファックスを送り付けているだけのことのようだ。このように日朝政府間には、非公式交渉ルートがほとんどないという状態を放置し続けてきた。

訪朝のたびに政府高官と会っていたアントニオ猪木・元参議院議員に、日本の外務省は会おうとしなかった。これまで43回にわたって北朝鮮の各地でさまざまな取材してきた私は、外務省が希望するなら会うと何度も伝えたものの、いまだに連絡をしてこない。お粗末な日本外交の実態が、こうしたことにも表れている。

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平壌の競技場前のアントニオ猪木氏(2004年9月15日撮影)

自民党の二階俊博幹事長は3月10日、超党派の「日朝国交正常化推進議員連盟」の会合に出席。「拉致問題を言うだけでは北朝鮮には通じない。議員連盟関係者での訪朝も考えてみなければならない」と述べた。4月8日に開かれた議員連盟の総会ではそれを受けて、北朝鮮を訪れる用意があるとの決議をまとめた。

日朝関係の改善は、ハードルは高くても「ストックホルム合意」に立ち戻ることだ。最大の課題である「拉致被害者及び行方不明者」については、北朝鮮の反発はあるだろうが日本の関係機関が北朝鮮において納得できるまで時間をかけて調査するしかないだろう。もちろん田中実さんと金田龍光さんに面会し、訪朝の経緯と帰国の意思の確認をすることも必要だ。

そして、残留日本人と日本人妻たちの里帰り事業を早期に再開するべきだ。これは「中断」された状態なので、他の課題より実施のハードルはかなり低い。すでに多くの当事者が高齢化で死亡しているため、すでに里帰りしたことのある人も含めるのが現実的だろう。

また日本政府がアジア太平洋地域やロシアで行なってきたように、政府による集団埋葬地への遺族の墓参団派遣と、容易ではない遺骨収容のための準備に早急に取り掛かるべきだ。

北朝鮮が核・ミサイル開発を続けている理由は、米国の軍事攻撃によって国を滅ぼされないためである。これからも弾道ミサイル、場合によっては核兵器の実験を行なう可能性はある。だがそのたびに日本政府が北朝鮮との交渉を白紙にしていては、いつまで経っても日朝間の課題は決して解決しない。日本の将来を見据えた、戦略的な視点の外交政策が必要なのだ。

それは、日朝間の懸案事項の解決だけではない。「アジア最後のフロンティア」はミャンマーではなく、北朝鮮だろう。勤勉で安価な労働力と豊富で高品質な鉱物資源があり、制裁解除後には国際的に多額の資金が流入して大規模なインフラ整備が行なわれるのは確実だ。そうした国が日本のすぐ隣にある。

菅政権は拉致問題に固執して何もできない状態に陥ることなく、解決が容易な課題から取り組むしかない。そしてバイデン政権が行なおうとしているように、互いの要求を一つずつ解決しながら最終目標へ向かう「段階的アプローチ」をするべきだろう。

(写真はすべて筆者撮影)

「よど号ハイジャック事件」実行犯による51年目の新証言

2021年3月31日配信の『現代ビジネス』に執筆した記事を紹介する。

「よど号ハイジャック事件」実行犯による51年目の新証言
【前編】米韓情報機関が金浦空港へ誘導した…

日本の現代史に残る大事件「よど号ハイジャック事件」から51年。今なお北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に暮らす実行犯たちは何を思うのか。昨年11月に出版された『実録 昭和の大事件「中継現場」』(久能靖著、河出書房新社)に書かれたエピソードの数々を、メンバー自らが振り返り検証、真実を明かした――。

■ハイジャックの真相を実行犯に問う

「よど号ハイジャック事件」から3月31日で51年になる。赤軍派がハイジャックし、北朝鮮へ向かっていた日航機「よど号」が、平壌近くで急に進路を変えて韓国(大韓民国)の金浦(キムポ)空港へ誘導されて着陸。誰がこれをさせたのか? 多くのジャーナリストやメディアが“謎解き”に挑んできた。

昨年は「よど号事件」50年に合わせ、私は「よど号グループ」全員から、彼らに関する様々な疑惑について54項目の質問を送付。そしてA4用紙37枚におよぶ「回答」を得た。その内容は現代ビジネス(2020年3月27日)に『実行犯が語る「よど号ハイジャック事件」50年目の新事実』として詳細なインタビューを掲載している。

その後も、「よど号ハイジャック事件」に関して書かれた新たな書籍が出版されている。そこで、51年の今年、平壌で暮らす実行犯4人に読んでもらうことにした。

「よど号ハイジャック事件」や「よど号グループ」に触れた書籍は、30冊近くも出版されている。近年では「グループ」の5人も執筆している『追想にあらず 1969年からのメッセージ』(三浦俊一、2019年)、「グループ」内の3人が関与したとされる拉致事件についての『えん罪・欧州拉致』(刊行委員会、2017年)、金浦空港で陣頭指揮をとった「日本航空現地対策本部」事務局長による『「よど号」事件 最後の謎を解く』(島田滋敏、2016年)、そして「グループ」6人が拉致疑惑への反論として出した『「拉致疑惑」と帰国 ハイジャックから祖国へ』(よど号グループ、2013年)といった書籍がある。

「事件」から半世紀もの歳月が経っても、彼らに関する書籍がいまだに出されるのは、日本の戦後史において特筆すべき大事件であり、解き明かされていない“謎”も未だに残されているからだろう。
そうした中、昨年11月に河出書房新社から『実録 昭和の大事件「中継現場」』と言う書籍が刊行された。この本もまた「よど号ハイジャック事件」に多くのページを割いている。

実録 昭和の大事件「中継現場」
『実録 昭和の大事件「中継現場」』(河出書房新社)

著者の久能靖氏は、日本テレビのアナウンサーとして「東大闘争」や「浅間山荘事件」などを実況中継したり、数多くのテレビ番組でキャスターを務めるなどして活躍した。2002年には『「よど号」事件 122時間の真実』(河出書房新社)を出している。

「意外なことから(よど号ハイジャック)事件の全貌を知る機会が訪れた。じつは江崎(悌一)副操縦士と私は親戚関係にあり、ある宴会の席でたまたま隣り合わせになった際、自然に『よど号』事件の話題になり、改めてくわしく話をしてもらえることになったのだ。また石田真二機長をはじめ、クルーの方々にも会えることになったが、石田機長には大阪の居酒屋で、江崎副操縦士には自宅で、そのほかのクルーや乗客の方には喫茶店や職場などで話を聞いた」(『実録 昭和の大事件「中継現場」』、以下『中継現場』)

「よど号」のクルーだけでなく、事件当時の韓国軍の最高責任者だった丁来赫(チョン・ネヒョク)国防部長官へのインタビューも実現させている。久能氏はまた、乗客たちとも会い、録音テープや詳細なメモなどを入手し、事件の核心に迫ることが出来たのだ。

そのため、『実録 昭和の大事件「中継現場」』の第4章「よど号ハイジャック事件」を平壌で暮らす実行犯4人に、本の内容に関連した犯人しか知らない事実などを書いてもらうことにした。この本や、「よど号ハイジャック事件」に関する近年に出版された書籍、テレビで放送された内容も検証しながら、「よど号事件」の最大の“謎”に迫ってみたい。

なお実行犯4人から送られてきた文章は、読みやすくするために最低限の手を入れている。

■今も平壌に住む「よど号グループ」

「よど号ハイジャック事件」とは、どのようなものだったのか。

1970年3月31日、乗客131人を乗せ羽田空港から福岡の板付空港へ向かった日本航空351便(愛称「よど号」)がハイジャックされた。日本初のハイジャック事件である。犯行メンバーは、新左翼の一党派である「共産主義者同盟赤軍派」の9人で、リーダーはその軍事委員長の田宮高麿。

DSC_8157グループの昔のたくさんの写真
「よど号グループ」の昔の写真(「よど号グループ」提供)

圧倒的な警察権力によって新左翼運動が追い込まれていく中で、海外の「国際根拠地」で軍事訓練を受けて日本へ戻り「武装蜂起」するという計画だった。そのため、北朝鮮へ行くために航空機をハイジャックしたのだ。

DSC_7326グループのアパート
「よど号グループ」が暮らすアパート(2014年9月24日撮影)

ハイジャックによって北朝鮮へ着いた9人は、北朝鮮政府から政治亡命を認められて平壌郊外の「招待所」で暮らしてきた。彼らは日本人と結婚し、多い時には妻や子どもなど36人が「日本人村」で暮らした。実行犯9人のうち5人がすでに死亡しており、現在は実行犯とその妻が暮らす。

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黎明通りのレストランへ出かけた際のマスク姿の「よど号グループ」(「よど号グループ」提供)

現在の「よど号グループ」は、実行犯の小西隆裕(1944年7月生まれ)、若林盛亮(1947年2月生まれ)、赤木志郎(1947年11月生まれ)、魚本(旧姓・安部)公博(1948年3月生まれ)。そして田宮高麿(1943年1月- 1995年11月)と結婚した森順子(1953年5月生まれ)と、若林盛亮の妻・若林(旧姓・黒田)佐喜子(1954年12月生まれ)の6人である。

私は「よど号グループ」への本格取材を3回行なっており、テレビ東京『未来世紀ジパング』(2014年10月20日放送)などのために「日本人村」へ7日間滞在したこともある。多くの人命を危険にさらすハイジャックを起こした血気盛んな「赤軍派」学生たちは、いまや穏やかで人への気遣いができる“お年寄り”へと変わっている。

■拳銃や日本刀は模造品だった

1970年3月31日、JAL351便「よど号」が羽田空港を離陸したのは午前7時20分。富士山上空へ差し掛かった時、リーダーの田宮が立ち上がる。それを合図に他の「赤軍派」学生らは“拳銃”や“日本刀”などを取り出した。当時はまだ、搭乗時の手荷物検査がなかった。ただこれらの“武器”は、斧以外は模造品だった。

「ちょうどその頃操縦席では石田機長が操縦桿に機首がやや下がる手応えを感じていた。その時だいぶ機内で人が動いているなと思ったそうだが、じつは客室内で人が前後に移動するだけで機体の重心位置が変わり、それを操縦桿が敏感に感知するのだという。江崎も客席の方が騒がしいなと思っていた」(『中継現場』)

それは「赤軍派」たちが、席を立って移動したためだった。彼らは鍵の掛かっていない操縦室へ駆け込み、機長に平壌へ向かうよう迫った。

石田真二機長は「赤軍派」たちに、平壌へ行くには燃料が足りないと伝え、予定通りに福岡の板付空港へ着陸することになった。本当に燃料補給が必要だったのかどうかを、久能は江崎に質問している。

「『我々の常識からすれば不可能です。燃料だけなら多少の余裕がありましたからピョンヤンまで行けたかもしれません。そうではなくてピョンヤンの飛行場がどこにあるのか場所がわからなかったのです。航空図もないし、行ったことがないのですから。我々パイロットの常識としては行先の飛行場がどういうところにあり、標高はどのくらいか、滑走路の長さがどのくらいなのか、誘導してくれる無線の周波数も知らなければなりません。(略)直接行くというのは自殺行為に等しいのです』」(『中継現場』)

計画を変更せざるを得なくなった「赤軍派」は、乗客たちへ次にように伝えた。

「『乗客の皆さん、この飛行機は油が足りなくて予定通り福岡に着きますが、我々は福岡に飛ぶことを目的にしていない。給油し次第北鮮に向かうが、飛行場内にいる時に諸君が少しでも気勢をあげるようなことがあれば、我々は手製爆弾を持っているので断固として応ずる(略)』。なぜこのように克明な言葉がわかったかというと乗客の1人がカセットテープに録音していたからだ」(『中継現場』)

今なら大事件に遭遇したら、目撃者たちが次々とスマホで映像や音声を記録するだろう。ところが半世紀前に機内のようすを、録音している人がいたことに驚く。また、注目すべきは「赤軍派」が「北朝鮮」を「北鮮」と呼んでいることだ。この差別的な呼び方は当時の日本ではまだ使われていたが、これから世話になろうとしている国をそのように呼ぶほど、この「革命家」たちは北朝鮮についての知識を持っていなかったのだ。

客室では「赤軍派」たちが手分けして、満席の客室にいる乗客122人の抵抗を防ぐための作業をしていた。

[若林] 「コックピットから私が出たら、まだ小西ともみ合っている乗客がいました。小西は最前列の席にいて男の乗客を制圧する任務でしたが、隣席の松本さんは柔道に覚えがあるらしく小西が『制圧』に苦労したわけです。私は手にした短刀の『峰打ち』(傷つけてはいかんと思ったので)で、頭をぼこぼこ叩いたのを記憶しています」

「(「赤軍派」の)男たちは女性と子供を除いて男性客全員を後ろ手に縛り上げ、男性客を窓側に女性客を通路側に移動させた。乗客が逃げたり、抵抗したりするのを防ぐためだろう」(『中継現場』)

[若林] 「『後ろ手に縛り上げ』ということはしなかったと思います。前で縛っておいて、通路側の乗客は通路沿いに渡したロープでつないで飛び出せないようにするという方法をとったように思います。ソウル金浦空港での長期戦を強いられるようになって以降は、食事などで両手の自由が利くよう、両手の間隔を空ける縛り方へ変えました。トイレ時には縄をほどき、トイレ後に縛り直すというふうにしました」

縄を見せる乗客
縛られていた状況を説明する乗客(『昭和タイムズ2』1970年、デアゴスティーニ・ジャパン)

週刊『昭和タイムズ2』の「よど号ハイジャック事件」の記事に掲載された写真について、若林が解説した。

記者会見の際に、手がどのように縛られていたのかを実演しているのは、乗客代表格の「ヒゲの松本」と呼ばれていた人だという。若林が、短刀の峰で叩いた人だ。金浦空港での最初の夜までは前手交差の縛りにしていたが、翌日からは写真のように両手の自由が利くようにしたという。

■板付空港でなぜ5時間も

午前8時69分、「よど号」は福岡の板付空港に着陸した。

この空港は1945年5月に、陸軍航空部隊の「席田(むしろだ)」飛行場として建設。敗戦によって米軍が接収して「板付基地」となり、朝鮮戦争の際には重要な軍事拠点となった。1972年4月に「福岡空港」となったが、今でも空港の約14パーセントに「米軍基地」が残る。日本の民間空港内に、米軍専用区域があるのはここだけである。

着陸した「よど号」の機体の下には、作業服や私服姿の警察官が拳銃を持って待機。給油作業は時間をかけて行なわれ、壊れてもいないブレーキを交換したり、自衛隊機を滑走路上で「故障」させたりした。「赤軍派」は、一部の乗客を降ろすことを認めた。

「子供を連れた母親と老人、あわせて二三人がタラップを降りてきた。女性と子供を降ろすことを犯人側が受け入れたためだが、降りてきた二三人を乗せたバスが機体のそばを離れると、再びドアは固く閉められ、午後一時五五分、『よど号』は突然滑走を始めた」(『中継現場』)

[若林] 「解放された乗客らが降りた後、機動隊員がタラップを駆け上がって来た。それを見た田宮が『ドアを閉めろ』と言うと、スチュワーデスの一人が『ハイッ!』と答えてバタンと閉めたというエピソードは語り草になっています」

「滑走路上にいた車はくもの子を散らしたようにあわてて避けたが、この時機体の後方から一人の男が転がり落ちる姿が、各局のテレビカメラでもはっきりととらえられていた。じつは対策本部では、燃料タンクのバルブを閉めて飛行できないようにしようとしていたのだ。転がり落ちたのはバルブを閉めようとした整備員だったが、失敗に終わった。しかしもし閉めることに成功していたら燃料が流れず、飛び立てたとしても途中で墜落していたかもしれない。事件後、そのことを知ったという石田(機長)も江崎(副操縦士)もなんという馬鹿げたことをしてくれたのかと怒りを口にしている」(『中継現場』)

こうして、「よど号」は“平壌”を目指して離陸した。板付空港で駐機していた「5時間」は、日本政府が「ハイジャック事件」を国内問題として収拾するために、何とか国外へ行かせないように次々と邪魔をしただけなのだろうか。それとも、重要な意味のある時間だったのだろうか。

■「対空砲火」発表の意図は

「『よど号』は三八度線をかなり越えた江陵(こうりよう)の沖合上空で西に進路を変えた。そのまま進めばピョンヤンに到着するはずであった。とその直後、思いがけないことが起きた。迷彩色を施した戦闘機が『よど号』の右側に現れたのだ。江崎は胴体のマークからすぐに韓国空軍の戦闘機であることがわかったそうだが、北朝鮮領内に入ったはずなのになぜ韓国の戦闘機が飛んでいるのか理解できなかったという」(『中継現場』)

朝鮮戦争の結果、韓国と北朝鮮を隔てる軍事境界線は北緯38度線より東側では北に、西側では南に曲がった。東側の海岸線では、38度線から軍事境界線まで約70キロメートルある。そのため「よど号」が38度線を越えても、しばらくは韓国領空だったのだ。なお、ここに書かれている「江陵」は38度線より南にあるので、他の都市だと思われる。

[小西] 「この時のことは、私自身、コックピットにいたのでよく憶えています。あの時、石田機長は私に操縦席の前に付いているレーダーを示しながら、『これが38度線。これを越えたからピョンヤンに向かいますよ』と言いました。

戦闘機が『よど号』の右側から姿を現したのは、それとほぼ同時でした。機体には迷彩色が施されており、私がいくら目を凝らしても何のマークもありませんでした。私が探したのは、米国とソ連のマーク。そのどちらなのかということでした。なぜなら、戦闘機に乗っていたのは白人だったからです」

朝鮮戦争では、北朝鮮側の戦闘機の多くをソ連軍パイロットが操縦した。そのため小西は、北朝鮮の戦闘機にはロシア人がいまだに乗っていると思い込んでいたのだ。

[小西] 「その白人はこちらを見ながら、手を挙げ指で進行方向を示しながら機体を旋回させ、『よど号』の下に潜るようにして、われわれの視界から消えて行きました。そこで私は江崎副機長に、あれはどこの国のものかと聞きました。答えは案の定『分からない』でした」

[若林] 「誘導した戦闘機が米国製ファントムらしきものであったこと、パイロットが白人だったことも疑念を呼ぶものでした」

2機の戦闘機は、軍事境界線の直前で旋回して韓国側へ戻って行ったと思われる。

DSC_6788韓国軍・米軍の戦闘機
韓国「戦争記念館」の米軍・韓国の古い軍用機(2014年9月10日撮影)

午後3時50分に日本の防衛庁と外務省は「米国第5空軍」からの連絡として、「よど号」は北朝鮮へ入ってから対空砲火を浴び、北朝鮮空軍のミグ戦闘機に追われたと発表した。金浦空港の「日航現地対策本部」事務局長の島田滋敏は、「北朝鮮軍機のスクランブルと対空砲火によって『よど号』が機首を南に向け、Uターンしたという架空のストーリーを米軍がわざわざ流したことになる」(『「よど号」事件 最後の謎を解く 対策本部事務局長の回想』島田滋敏、2016年、以下『最後の謎を解く』)とする。

午後3時50分に日本の防衛庁と外務省は「米国第5空軍」からの連絡として、「よど号」は北朝鮮へ入ってから対空砲火を浴び、北朝鮮空軍のミグ戦闘機に追われたと発表した。金浦空港の「日航現地対策本部」事務局長の島田滋敏は、「北朝鮮軍機のスクランブルと対空砲火によって『よど号』が機首を南に向け、Uターンしたという架空のストーリーを米軍がわざわざ流したことになる」(『「よど号」事件 最後の謎を解く 対策本部事務局長の回想』島田滋敏、2016年、以下『最後の謎を解く』)とする。

■管制官へ「閣下」の命令

韓国空軍管制官の蔡熙錫(チェ・ヒソク)は、「米連邦航空局(FAA)」の航空管制官免許を持つ数少ない韓国人だった。「よど号ハイジャック事件」が起きてすぐに、突然、憲兵隊が自宅へやって来た。

ジープで連れて行かれたのは、金浦空港の米国第5空軍のレーダー進入管制室。これは非常事態だと蔡は思ったという。そこには米軍の金浦空港通信隊長のケラー大尉と米兵4~5人、韓国人の管制官と空軍憲兵大尉がそれぞれ2人いた。

ソウル上空の管制権は米軍にあったため、いつも米兵が管制業務をしていた。ところが蔡管制官は、1人で管制するように命じられたのだ。そのようなことは今までに1度もなく、極めて異例なことだった。

時刻は午前11時30分。その後、「よど号」が板付空港を離陸したのは午後1時59分なので、金浦空港では管制官を韓国兵へと早々と交代させていた。「よど号」を金浦空港へ降ろすための大作戦がすでに始まっていたのだ。

「よど号」が平壌へ向かおうとしていることについて、その当時の韓国・国防部長官だった丁来赫は久能に次のように語っている。

「丁長官は事前に、『よど号』が北朝鮮に向けて飛び立っても航行を妨害しないことと、韓国内に着陸したいと連絡があった場合は着陸に協力することという命令は、全軍に出してはいた。だが、誘導するようにという指示はいっさい出していない。(略)こうなると、いったい誰が金浦空港に『よど号』を降ろしたかである。誰の指示もなく飛行機を誘導して降ろせるとしたら管制官しかいない。丁長官も同じ見方をしていたが、この時、丁長官が調査した限りでは特定できなかった」(『中継現場』)

[若林] 「この丁長官の話は、金浦空港への誘導が米軍の命令であることを知らされていなかったのか、知っていて言わないのかは別にして、いずれにしろ事実認識が間違っているものと考えます」

若林が指摘するように、当時は軍事政権だった韓国で圧倒的な力を持つ韓国軍の国防部長官が「特定できなかった」はずなどあり得ない。当時の韓国でこのようなことが出来るのは、自らの韓国軍でなければ米軍か、CIA(米国中央情報局)と連携したKCIA(韓国中央情報部、現在は国家情報院)しかない。

午後0時半頃、蔡管制官の前のホットラインが鳴った。「私はKCIAの部長だ。福岡を出た飛行機を必ず金浦空港へ着陸させろ。これは閣下の指示だ!」という話だったのである。KCIAのトップは金桂元(キム・ゲウォン)部長。「閣下」とは朴正熙(パク・チョンヒ)大統領のことだ。

「KCIA部長が空軍管制官に直接の指示を下すだけでも異例。ましてや軍事政権下で絶対的な存在の大統領からという厳命に、蔡さんは身震いした。(略)。金部長は蔡さんへの電話で『よど号を着陸させるためなら、ソウルを北朝鮮だと言って構わない』と命じたという」(「西日本新聞」2019年11月18日)

「よど号」が板付空港に留まっている時点で、朴大統領が金浦空港へ誘導するための命令を下していたのである。板付空港の「5時間」で、金浦空港を平壌空港へ偽装するための作業が行なわれたのだ。

金桂元・元KCIA部長は近年、NHKの取材に次のように答えている。

「共産主義者たちが乗った飛行機が、我が国上空を我が物顔で通過して行くことはどうしても許せなかったのです。よど号にハイジャック犯だけが乗っていたら、韓国領空で撃ち落としていたかも知れません。何としてでも北朝鮮には行かせずに、韓国に着陸させる必要があったのです」(「NHK「“ピョンヤン”を名乗れ~よど号事件・交信記録の全ぼう~」2016年10月28日)

■その時の韓国は「軍事独裁政権」

「よど号」が金浦空港へ降り立った頃の韓国は、どのような国だったのだろうか。

この事件が起きた時の大統領である朴正煕は、1961年5月16日に軍事クーデターを起こし、「反共」「親米」政策を掲げた軍事政権を続けていた。

「よど号事件」当時の南北関係は、朝鮮戦争の休戦(1953年7月)後で最悪だった。1968年1月には北朝鮮の特殊部隊による韓国大統領官邸「青瓦台(チョンワデ)襲撃未遂事件」と、北朝鮮海軍による米国海軍情報収集艦「プエブロ号」の拿捕という大事件が続いた。

そして1969年12月には「大韓航空機ハイジャック事件」が起き、北朝鮮で拘留された乗員・乗客51人のうちの39人が「よど号事件」直前の2月14日に帰還したばかりだった。

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筆者の在日韓国人政治犯の記事(『世界』1990年5月)

また「よど号事件」翌年の1971年4月の大統領選挙で朴正煕は、金大中(キム・デジュン)と激しく争った。1973年8月には、KCIAを使って東京から拉致して殺害を企てている。そして「北朝鮮の脅威」の名の下に、民主化運動を徹底的に弾圧。勉学やビジネスで祖国へ渡った在日韓国人150人以上を「北朝鮮のスパイ」にでっち上げて逮捕・拷問し、死刑を始めとする重罪判決を下している。

つまり「よど号」が金浦空港へ着陸させられた時の韓国は、大統領が国民を恐怖で支配する軍事独裁政権だったのだ。なお、この独裁者は1979年10月26日に、最側近の金載圭(キム・ジェギュ)KCIA部長によって射殺されている。

「よど号ハイジャック事件」は、極めて緊迫した南北関係と韓国の厳しい国内情勢の中で起きたのである。

■何のために金浦空港へ誘導?

「よど号」は板付空港を出て朝鮮半島の東海岸に沿って北上。軍事境界線より北にある高城(コソン)を通過して元山(ウォンサン)から西に向きを変えて平壌へ向かったと思われる。軍事境界線から元山までは約100キロメートル。「よど号」は北朝鮮領空へかなり入り込んでいた。

「よど号」が平壌へ向きを変えると、江崎副操縦士は国際遭難通信用の周波数である121.5メガサイクルで「どの空港でも良いから応答せよ」と呼びかけた。それを聞いた金浦空港の蔡管制官は、瞬時にそれに応じるボタンを押した。

もし北朝鮮の管制官の方が早く押せば、そのまま平壌へ誘導されていた可能性が高い。蔡管制官は「ソウル進入管制」だと名乗り、交信を134.1メガサイクルへ変更するように指示。それは金浦空港だけの誘導周波数だった。

蔡管制官は、それからは「平壌進入管制」と名乗り続けた。最初は「ソウル管制」と名乗った人物が「平壌管制」に変わってしまい、金浦空港へ誘導し続けた。

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夕日で輝く朝鮮西海の干潟(2018年9月12日撮影)

そして「よど号」は、平壌からわずか約50キロメートル南を通り抜けて朝鮮西海へ出てから、金浦空港へ着陸した。

蔡管制官は、小刻みに進行方向を変えさせたという。だが機長や副操縦士が正確な地図を持っていなかったとはいえ、朝鮮半島を横断して反対側の海まで出て回り込んだのであり、着陸地点が想定よりもかなり南へ移ったことに気づかないはずがない。「よど号」からは軍事境界線の位置は分からなくても、38度線はレーダーに表示された。金浦空港は、38度線から約40キロメートルも南に位置するのだ。

韓国政府は2006年3月に、「よど号ハイジャック事件」に関する外交文書「JAL機拉北事件措置経緯」を公開。「機器で機体の位置を正確に把握できたはずで、『平壌アプローチ』との呼びかけの周波数が韓国軍のものと分かったはず。老練な石田真二機長の、計画的かつ恣意による着陸だった」と結論づけた。これに対し、石田真二と江崎悌一、そして蔡熙錫がその内容を否定している。

石田機長は、金浦空港からの誘導だと分かっていたのかどうか。その時にコックピットにいた小西隆裕に再度の詳しい説明を求めたところ、直ちに回答が送られてきた。

「これは今回初めて言うのですが、私は石田機長がこの『劇』で一役買っていたとほぼ確信しています。なぜなら第一に、『よど号』が三八度線を越えた直後に、隣にいた私に操縦席にあるレーダーを示し、『三八度線を越えましたよ。これからピョンヤンに向かいます』と短く断った後、私の答えを待つまでもなく、機体を左旋回させたからです。もし、彼が本当にピョンヤン行きを目的にしていたなら、もっと余裕を持って機体を北上させた後、私に断って機体を左旋回させたのではないでしょうか。

第二の根拠は、『よど号』を左旋回させた直後に機体の右側から現れた白人が操縦する正体不明の戦闘機に対する石田機長の対応にあります。もし、機体が朝鮮の領域内に入っていると彼が信じていたなら、この戦闘機の出現には驚いたはずです。なぜなら航空の専門家である彼が、その戦闘機が米国製であることが分からないはずがないからです。しかし、あの時の石田機長は眉一つ動かさないものでした。

第三に、『よど号』が高度を下げて下界の田園風景がくっきりと現れた時、それが朝鮮のものでないくらい容易に見分けることができたはずだからです。しかも着陸後に彼は、われわれがどうも様子が違うと降りるのをためらっているのに対し、『到着しましたよ。早く降りたらいいんじゃないですか』と、二、三度促しました。以上から私は、石田機長は福岡空港を飛び立つ時から、われわれをだまして金浦空港で逮捕するという計略の下に行動していたとほぼ確信しています」

石田機長と江崎副操縦士は、蔡管制官が「平壌管制」を名乗って誘導をし始めた時くらいから、「よど号」が韓国の空港へ向かっていることを確信するようになっていたのだろう。

■実行したのは米韓情報機関

「よど号」の金浦空港への誘導・着陸は、朴正煕大統領が金桂元KCIA部長に指示をし、蔡熙錫管制官がそれを実行したことまでは明確になった。それは朴大統領の、北朝鮮への怒りや報復のためだけに行なったのだろうか。

日航本社対策本部には、長野秀麿運行基準部長が詰めていた。現地対策本部事務局長だった島田滋敏によれば、長野は戦後、日航からパイロット要員としてノース・ウエストへ送り込まれたことがあり、米軍との交友が広かったという。

島田は、事件発生後の長野に動きについて次のように記している。

「三月三十一日朝、長野部長が出社してまもなく彼とかかわりのある米国当局からデスクに電話があった。ハイジャックされた『よど号』に二人のアメリカ人が乗っているが、そのうちの一人は重要な任務をもっている人物だから、犯人たちのいうとおりに北朝鮮へ行かせないように手を打ってくれとの要請であったという。

(略)午前九時、「よど号」が福岡に着陸すると、再び米国当局から大要つぎのような内容の電話が長野部長にかかってきたという。 『万一、福岡で乗客を降ろすことに成功しなかったら、つぎには韓国へ着陸させて乗客を救出する』」(『最後の謎を解く』)

島田は、この大作戦を実行したのは韓国と米国の情報機関によるものだとする。

「韓国政府機関のなかでKCIAだけが事件発生以来『よど号』を追跡し、極秘裡に空軍と航空管制を指揮していたということだ。CIAとKCIAは密接な連携プレーのもとに『よど号』を金浦空港に着陸させたのである」(『最後の謎を解く』)

この時の管制官の蔡熙錫は「朝日新聞」の取材に「当時の管制は米軍の指揮。情報部の指示があっても米軍の命令がなかったら動けなかった」と答えている。石田機長は「『よど号を北朝鮮へ行かせまいとした日本政府、日航、米軍、韓国が緊急に協議して決めたのでしょう』と推測してみせた」(「読売新聞」2006年3月31日)としている。

「よど号」の金浦空港への誘導と着陸は、米国の強い意志によって日本と韓国の政府が全面協力したものだったのだ。

■ここは平壌ではない!

板付空港で時間稼ぎをしている間に、金浦空港では駐機していた韓国や欧米の航空機を他の空港へと移し、韓国と米国の国旗はすべて取り外され、韓国と分かる表示を塗りつぶしたという。北朝鮮風に花束を持ったチマチョゴリ姿の女性たちや、朝鮮人民軍の軍服を着た兵士たちも用意された。

午後3時19分、「よど号」は金浦空港へ着陸。

「ピョンヤンに着いたと有頂天になっていた赤軍派はすぐに降りる準備を始めたが、後ろの方にいて窓の外を見ていたメンバーの一人が突然、『ここはピョンヤンではない。シェルのタンクが見えるし、飛行機もアメリカ製だ』と叫んだ。(略)(地上の)男性職員がうっかり『まもなく大使が見えますからお待ち下さい』と口をすべらせたのが決定打になった。国交のない北朝鮮に日本の大使がいるわけがないからだ」(『中継現場』)

[若林] 「空港へ降り立つ前に見た田んぼが、曲がりくねって不規則で小さなもので、社会主義国の集団農場には見えなかったことで疑念はふくらみました。また『不法入国』のわれわれが歓迎されるはずがないのに、過剰演出のチマチョゴリ姿の女性歓迎団、機内に流れ込む音楽(ラジオから?)が日本の流行歌的で社会主義的ではない、といった不審な状況・・・」

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平壌近郊の農場(2019年10月17日撮影)

「赤軍派の男たちは『騙したな』とわめき出したが、彼らの一人が同じレシーバーで管制官とのやりとりをすべて聞いていたのだから、石田(機長)や江崎(副操縦士)に怒りの矛先を向けても仕方がなかった」(『中継現場』)

[小西]「あの時、私たちは極めて冷静で、『騙したな』とわめくこともありませんでした。敵がこちらを騙してくるのは当たり前のことだったし、それは、コックピットの下に広がる田園風景からおおよそ察しが付いていたからです。

到着したのがピョンヤンでないのは複数の根拠から明らかでしたが、確信したのは、私がコックピットの窓から下にいた兵士に『Here Soul?』と聞いた時でした。彼は、『Yes Soul』と答えたのです」

小西が兵士に鎌を掛けて聞いたら、うっかりソウルだと認めてしまったというのだ。このハイジャックを指揮していた田宮は、次のように記している。

「金浦空港におろされるのではないかということは、当初から予想されたことであった。だから、そのこと自体にわれわれはあわてることはなかった。ただ韓国は三八度線をはさんでいまだ『戦争状態』にある国だという認識はもっていた。だから日本政府がそれを口実に韓国政府に無茶をやらされるのではないかという危惧をもち、金浦空港にいる間、警戒心を一度としてゆるめたことはなかった」(田宮高麿『わが思想』1988年)

若林は、「韓国に降ろされる危険性」についてハイジャック決行前に実行犯たちで意思統一をしていたという。「赤軍派」たちは、「日米韓軍事同盟」への挑戦でもある北朝鮮へのハイジャックが、すんなりとは実現しないだろうと覚悟していたのだ。

金浦空港での偽装工作は、「赤軍派」たちに簡単に見破られる程度のお粗末なものだった。そうであっても、海外の空港を知らない「赤軍派」学生たちが油断して機体のハッチを開ける可能性に賭けたのだろう。もしそうなれば、兵士たちは一気に機内へ突入する。

日本政府は「よど号」の受け入れを、ソ連(ソビエト連邦)と「赤十字国際委員会(ICRC)」を通して北朝鮮政府に要請。それに対して北朝鮮の「朝鮮赤十字会」から4月2日、「日本赤十字社」に連絡があった。

一、航空の安全は保証する
一、乗員の処遇は人道的にし、速やかに返還する
一、機体は返還する

日本にとって、最良の返答である。

これによって日本の世論とメディアは一気に、「よど号」を北朝鮮に行かせるべきとの流れになった。


【後編】日朝間に残る課題解決のために

日本の現代史に残る大事件「よど号ハイジャック事件」から51年。今なお北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に暮らす実行犯たちは何を思うのか。昨年11月に出版された『実録 昭和の大事件「中継現場」』(久能靖著、河出書房新社)に書かれたエピソードの数々を、メンバー自らが振り返り検証、真実を明かした――。

■犯人に同情的な乗客たち

「時計が回った四月一日の午前〇時過ぎ、自ら乗客の代表だと名乗る男性が金山政英駐韓大使と直接話がしたいと操縦席の無線を通じて話しかけた」(『中継現場』)

[若林] 「この(乗客代表の)方は商社勤務の『ヒゲの松本さん』というお方で、交渉中の田宮にも『いいかこういう時はあわててはいけない、落ち着くんだ』とかの助言を行ったという伝説の人物。帰国後も『乗客代表』として日野原先生ともども記者会見しています」

この「日野原」とは「よど号」の乗客で、「聖路加国際病院」院長を務めて2017年7月に亡くなった日野原重明医師のこと。晩年になってからは、「よど号グループ」との交流もあった。

「(乗客代表)は『このまま金浦空港で最悪の事態を迎えるより北朝鮮に連れていかれた方が、たとえ長期間抑留されても生命の安全だけは確保できる。これ以上説得を続けると危険な状態になりかねない』と強く北朝鮮行きを望んだ」(『中継現場』)

朴大統領による軍事独裁政権の横暴ぶりは、日本にも良く伝わっていた。乗客たちは、金浦空港に留まっていれば死ぬかも知れないと真剣に思ったのだろう。若林は機内の雰囲気の変化について、自ら書いた書籍があるというのでそこから引用する。

「私たちにとって、乗客たちは“制圧”しておくべき“人質”に過ぎなかった。(略)しかし二日目、『絶対に北へは行かせない』とする韓国政府の嫌がらせによって機内の状況の極度な劣悪化が生じ、(略)乗客は“保護”すべき対象になっていった。一方、乗客の側でも変化が起きていた。(略)『一刻も早く金浦を飛び立ち、平壌に飛ばせろ』の一点で、ハイジャッカーと意思が一致した』(『追想にあらず 1969年からのメッセージ』三浦俊一、2019年)

犯人のサイン
若林の偽名のサインと自画像(『昭和タイムズ2』1970年、デアゴスティーニ・ジャパン)

「ある乗客に『サインをくれ』と手帳を差し出されたので、私は一筆書きの自画像イラストと、偽名の“中原礼二”のサインをした。『君のことを家族に伝えてあげよう』という乗客の親切は、丁重に断りながらも、“武器”の短刀で髪を切って『琵琶湖に行ったらこれを撒いてください』と託した。後で出身地がばれるかな、と少し反省もしたが、何となくそんな心情になったことだけは事実だ」(同上)

若林が髪を琵琶湖に撒いて欲しいと言った理由は、滋賀県の出身だったからだ。

「この(犯人と乗客との)境界のなくなる雰囲気にたまりかね、田宮がついに演説をした。『乗客のみなさん。あなた方は人質なんだということをわからねばならない。よって人質相応の態度をとってほしい!』 後に笑い種になったが、田宮としては『いくらなんでも』という思いだったのだろう」(同上)

■国防部長官の「最後通告」

「親しくしていた在日韓国人の女性が私(久能)の希望を聞き、幅広い人脈をたどって、当時の韓国国防部にいた丁来赫(チョン・ネヒョク)長官へのインタビューの約束をとりつけてくれたのだ。当時の韓国は北との間が極度の緊張状態にあったため、六つある空港はすべて軍が管理していたのである。したがって金浦空港も丁長官の指揮管理下にあり、当然『よど号』事件でもすべての指揮をとっていたのだから、取材対象としてこれ以上の人はいない」(『中継現場』)

丁来赫は日本の陸軍士官学校を第58期に卒業し、日本敗戦後は韓国陸軍で順調に出世していった。国防部長官に就任したのは、「よど号事件」直前の1970年3月10 日だった。ちなみに朴正熙は、同じ士官学校の第57期である。

「陸軍士官学校時代に薫陶を受け、恩義を感じていた丁長官は何とかして日本人を救って恩返ししたいという気持ちが強かったという。そこで丁長官はただちに行動に移り、偽装工作は無用な混乱を招くだけだとして中止させ、『お前たち(「赤軍派」)が乗客をおとなしくただちに降ろせば、行きたいところに飛んで行けるようにする。そうしなければ、お前たちは何日でもこの場所から離れることはできない』という自ら作成したメッセージを管制塔を通じて無線で伝えた」(『中継現場』)

韓国軍事政権の横暴ぶりとそれに対する人々による民主化闘争については、日本でも岩波書店の月刊『世界』などで詳しく知られていた。「赤軍派」が、丁長官の言葉を信じるはずがなかった。4月2日午後2時20分、自ら管制塔へ上がった丁長官が「最後通告」を行なった。

「『飛行機を離陸させるかどうかは韓国が決めることであって、日本から要請があっても最終決定は韓国がする。諸君の非人道的行為を、韓国としては絶対に認めるわけにはいかない。――乗客を早く釈放しなさい』」(『中継現場』)

双方が一歩も引かず、事態は完全に膠着状態に陥った。ところが、この事態を一気に打開する「救世主」が現れたのだ。

「山村(新治郎運輸政務)次官が、自ら乗客の身代わりに人質になるといい出したのだ。しかし韓国側は、そんなことをすれば韓国政府が問題を解決できず、日本の現職の国会議員を人質にまでしてやっと解決したことになると猛反対した。ところが山村次官は、赤軍派との交信の中で自ら人質になることを直接彼らに提案してしまった。この提案は、彼らにとっては渡りに舟であったのだろう。しばらく彼らだけで協議した末、条件つきで受け入れた」(『中継現場』)

丁長官や韓国メディアは、韓国を無視した頭越しの交渉に大きな不満を持ったものの、事態は解決に向けて一気に動き出した。長期の膠着状態が続けば、韓国軍がドアを爆破して強行突入する可能性があった。山村次官の人質交代の申し出によって、乗客を含む多数の死傷者が出ることが回避できそうになった。

なお丁来赫長官は翌年8月に、韓国社会を揺るがした別の大事件でも振り回されることになった。朴正煕大統領は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席を暗殺するために空軍特殊部隊を創設していた。現在の仁川(インチョン)国際空港に近い実尾島(シルミド)で過酷な訓練を受けていた隊員たちは、不満を直訴するため大統領官邸へ向かった。

軍・警察と交戦した結果、隊員20人が死亡し、生き残った4人が死刑になった。この事件が起きたのが1971年8月23日で、丁長官はこの2日後に責任を取って辞任。この事件は2003年に、映画『シルミド』として公開され、1000万人以上の観客を動員している。

■米国人3人が身代わり希望

先に述べたように島田滋敏は、金浦空港の「日航現地対策本部」で陣頭指揮を執った。2016年に文庫化された『「よど号」事件 最後の謎を解く』などで、自らの体験から金浦空港で消えた米国人乗客について述べている。

島田によれば、4月2日の午後2時半頃と午後3時20分、そして午後4時と3回にわたり、異なる3人の米国人が金浦空港へやって来て、乗客のダニエル・マクドナルド神父と代わりたいと申し出たのだ。交代すれば死ぬことになるかもしれず、よほど重要な理由がなければ決してできない。

「よど号」で北朝鮮へ不法入国すれば、米国人は日本人より解放までに時間がかかる可能性があった。1968年1月23日に北朝鮮東岸の元山(ウォンサン)沖で、米国海軍の武装情報収集艦「プエブロ号」が朝鮮人民軍に拿捕された。この事件では、乗員が解放されるまで11ヵ月かかっている。

この「よど号」には、米国人がもう一人乗っていた。ハーバード・プリル日本ペプシコーラ代表である。こちらへは、身代わりの申し出はなかった。つまり、マクドナルド神父だけを北朝鮮へ行かせたくないと思った人がたくさんいたのである。

島田は2016年にもNHKの取材に「(身代わり希望の)3遍目が来たからそこで僕はこれは別の理由だ。これは何か裏があるなと」と語っている。また管制塔からは、マクドナルド神父を指名して話をすることを求めている。この極限状況の中で、一乗客であるマクドナルド神父に対してだけ、次々と“米国”からアプローチがあったのだ。

「不思議というより、これはおかしい。しかも身代わりになりたい相手が神父である。これは単なる友情の問題ではなく、明らかに裏があると私にはピンとくるものがあった。その思いは翌日になって確信に変わった」(『最後の謎を解く』)

3日午後2時27分、山村新治郎運輸政務次官が身代わりになったことで乗客全員が「よど号」から降りた。

「乗客が全員解放された直後、丁長官のもとに朴大統領からねぎらいの電話が入ったが、『乗客の安全を考えればできないことでしたが、非人道的な奴らをどうしても引っ捕えたかったので悔し泣きした』という」(『中継現場』)

丁国防部長官は、解放されたばかりの乗客たちと直接話をした。ところが長官の予想に反して、乗客たちは韓国政府の対応に不満を示した。

「流暢な日本語で、なぜピョンヤンに行かせなかったかを説明した。しかし乗客の反応は冷たかった。『我々には関係のない話だ。犯人たちのいう通りにすぐ北に行かせていれば、こんなに苦労しなくてすんだものを』といわんばかりの乗客の表情に、非人道的だと報じた日本のマスコミと同じだなと、丁長官は思ったという。『誰一人お礼を言ってはくれませんでした。皆さんを釈放するためにしてきた数日間の努力の結果がこれなのかと思ったら、なんとも淋しくなりました』」(『中継現場』)

[若林] 「私たちが言うのも変ですが『人命第一』とするなら韓国にとどめる危険を避け、北朝鮮へ『よど号』を飛ばせることだというのは乗客、乗務員の一致した要求、意思でした。これを頭から拒否し、高圧的な態度で出てくる韓国側の対応を『非人道的』と思うのは当然だと思います。

エピソードを言えば、韓国側が『乗客を落とせ、落とせば行かせてやる』と何度も繰り返すアナウンスに、乗客の一部は『人間を“落とせ”だなんて無礼な』と憤慨したのも事実です。韓国側の担当者(丁長官?)は『降ろせ』といったつもりでしょうが、『落とせ』という日本語表現になったのが乗客の怒りの火に油を注ぐ結果になったのです」

■消えた米国人神父

「よど号」から降りた乗客たちは、出迎えの「飛騨号」で帰国することになった。いつでも出発できる状態になった時のことである。

「なにをもたもたしているのかと、じりじりしながら報告を待っていると、沢田君が飛び込んできていった。『大変です! お客が一人消されました。どうしても数が当たらない(合わない)のです。どうしますか』(略)『その人はなんという名前なの?』『アメリカ人でマクドナルドという人ですよ』」(『最後の謎を解く』)

金浦空港で「よど号」から解放された人質は99人だった。ところが、機体から降りた乗客の一人がいなくなってしまったのだ。

日航としては、国内線の便がハイジャックされて韓国へ来てしまったのであり、乗客はそのまま国内線旅客として日本へ戻さなければならない。乗客を海外に置いたまま帰国するなど、航空会社として絶対にやってはいけないことなのだ。ところが、である。帰国便にマクドナルド神父を乗せなかった日航に対し、韓国政府から何の咎めもなかったというのだ。

「水も漏らさぬ態勢で戒厳令を敷いている韓国当局が、ひとりといえども逃亡を許すはずはない。またマクドナルド氏が理由のいかんを問わず航空会社に無断で降りて韓国に入国できるはずもない。韓国当局もまた日航に無断で入国を認めることも考えられない。すなわちこれは、日航にも知らせたくない理由があって韓国側が一方的にとった措置であろうと私(島田)は推察したのである。韓国政府の意図なくしては生じえない旅客の失踪であった」(『最後の謎を解く』)

「島田さんは人質の米国人神父に注目し、神父が米中央情報局(CIA)のエージェントだった可能性があると主張する。(略)島田さんは『同盟国の重要人物が人質だったことが韓国政府の判断に影響を与えたのではないか』と指摘する」(「西日本新聞」2019年11月18日)

島田は前日に身代わり希望の米国人が3人も来た時に、マクドナルド神父はCIAのエージェントではないかと思ったという。CIAでなかったとしても、米国の国益にとって極めて重要で、北朝鮮で尋問を受けると非常に困る人物だったことは確かだ。

北朝鮮は、キリスト教に対する異常なまでの警戒を続けている。それは米国など外国からのキリスト教宣教師をめぐり、さまざまな苦い経験があるからだ。近年では、2018年6月12日の初の米朝首脳会談を目前にし、北朝鮮は3人の米国人を5月9日に解放した。そのうちの2人がキリスト教との関係があり、キム・ハクソンはキリスト教伝道師で、キム・ドンチョルは元牧師だった。

キム・ドンチョルは、「羅先(ラソン)経済特区」でホテル経営をしているということから、2011年に韓国でCIAの職員として雇われ、韓国の「国家情報院(かつてのKCIA)」に対しても情報提供していた。核兵器開発などの軍事情報を収集していて、2015年10月に逮捕される。このように米国が、キリスト教の聖職者を“スパイ”にしていても不思議ではないのだ。

話を戻す。関係者たちの証言を総合すると、平壌へ向かっていた「よど号」を金浦空港へ誘導・着陸させたのは、次のような理由だろう。

ハイジャック直後に、乗客の中に米国にとって重要なマクドナルド神父がいることを知った米国は、神父を北朝鮮へ行かせないように日本と韓国へ要請。朴正煕大統領はKCIAへ指示をして金浦空港での偽装作業が始まり、日本では板付空港での離陸時間の引き延ばしを行なった。

板付空港を飛び立った「よど号」を、戦闘機の米国人パイロットが方向転換を指示し、韓国軍管制官が「平壌管制」と偽って金浦空港へ誘導・着陸させた。「たった一人の米人乗客をハイジャック機から降ろすために、米CIA、米空軍、韓国大統領府などの組織・機関が緊密に連携していたのである」(『最後の謎を解く』)と島田は断定している。

■山村次官に感謝する「赤軍派」

山村運輸政務次官を乗せた「よど号」は、3日午後6時4分に金浦空港を離陸した。目指すは平壌にある順安(スアン)国際空港である。

「出発前から相原(航空機関士)は、石田(機長)から客席で縛られたままになっている山村次官の面倒を見るようにいわれていたが、乗客がもう一人もいないにもかかわらず、身代わりになった次官を縛っていることに激しい怒りを覚えていた」(『中継現場』)

[魚本] 「相原氏が山村次官の近くに居たという記憶はまったくありません。石田機長から様子を見るように言われ、操縦室から見たのではないか。したがって山村次官を縛ったなどというのも、遠くからの見間違いであり、我々は、身代わりを申し出てくれた山村氏に感謝こそすれ、敵意を抱いて縛るなどやる筈もありませんでした」

[若林] 「これは少し大げさだと思います。地元の報告会では少し大げさな『武勇談』にする必要があったものと思われます。北朝鮮に飛べることになった安心感もあって、実際は双方とも友好的に話していた印象が強いです。『これで次の選挙は大丈夫だ』と、山村次官が私たちに大見得を切る余裕すらあったのですから・・・。『日本の国会議員はこういう発想をするのか』と、私たちは苦笑するしかありませんでした」

実際に、次の選挙では山村はトップ当選を果たし、農林水産大臣や運輸大臣を歴任することになった。

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「日本人村」の4人のハイジャック犯(2014年9月27日撮影)

「このあと彼らはとんでもない行動に出た。山村が機内に持ち込んだ大きな唐草模様の風呂敷包みに目をつけたのだ。中には山村夫人が大急ぎで詰めて秘書に届けさせた、たくさんの下着類が入っていたのだ。ピョンヤンに簡単に行けると思っていた彼らは、着替えはもちろん洗面道具さえ持っていなかった。山村の『好きなだけ持っていけ』という返事を聞くやいなや、奪い合うようにして全部持っていってしまった」(『中継現場』)

[魚本] 「山村氏が持っていた風呂敷包について何が入っているのかを聞いたところ、平壌は寒いからと奥さんが持たせてくれた冬用の下着だということでした。『そんなこと考えてもいなかったなあ』と我々が笑ったところ、山村氏が『必要なら持っていってもいいよ』というので、何人かが股引を頂いたわけです。その後も包みはあったし、『奪い合うようにして全部もっていった』などということはありません」

[若林] 「私たちが、山村次官の持ってきた『下着を奪い合った』という話はおおげさ。私たちは学生とはいえ、いやしくも『革命家』を自称するもの。自民党政府の人間の前でそんな恥ずかしい真似はできません。私の記憶では、話の流れの中で『君らが必要なら分けてやる』という感じでしたから、私も股引一着を頂きました。謝意も表したと思います」

[小西]「われわれが着替えや洗面道具を持っていかなかったのは、ピョンヤンに簡単に行けると思っていたからではなく、そんなことは念頭にもなかったからです。言い換えれば、われわれは、旅行に行こうとしていたのではなく、闘争を決行しようとしていたということです」

「赤軍派」たちが山村次官に、ハイジャックしてからの自分たちの行動について語っているのを相原航空機関士が聞いていた。

「最初、乗客を後手に縛っておきながら途中で合掌手に縛り直したのは、抵抗さえしなければ安全なんだ、北にすぐ向かわせないのは日韓両政府がけしからんからだという意識を植えつけるためだったと述べ、差し入れの弁当を先に乗客に食べさせ、自分たちはその後もしばらく食べなかったのは弁当の中に睡眠薬などが入っていないかどうかを見るためだったことなど、乗客が知ったら激怒するだろうということをむしろ誇らしげに述べたてた」(『中継現場』)

[赤木] 「合掌手に縛り直した理由や弁当をすぐに食べなかった理由など、(山村次官に)まったく話してもいないし、事実と合致していません。最初から合掌手に縛っており、長時間になったので途中で乗客の皆さんがきついだろうと思い、田宮氏の指示でそれを緩めるために縛り直した。

また、弁当を配るのは私(赤木)が担当していたが、それまで水もなければ、空調もない、食事もない中で皆が疲れ切っているところ、やっと弁当が差し入れされたのですぐに配り終え、私はそれで安心してしまった。そのとき(すでに)弁当を食べていた田宮氏から私に『何しとる、早く食べんかいな』と言われて、自分も食べなければならないことに気づいた次第。だから、時間的には乗客と一緒に食べています」

魚本もこの点について「事実に反しており、相原氏の勝手な想像にすぎません」と強く反発している。ハイジャックという大罪は犯していても、人質たちには丁寧に対応したという自負があるのだろう。また実行犯たちには、山村次官への特別な思いがあるという。

[若林] 「これは朝鮮の方から聞いたエピソードですが、以前、山村氏が訪朝されたとき、金日成主席から『貴方がよど号の“捕虜”として来られた方ですか?』と尋ねられたという話を聞きました」

これは山村新治郎が、「よど号ハイジャック事件」の20年後に北朝鮮へ行った時の話だ。1990年9月の通称「金丸訪朝団」と呼ばれる「自民・社会両党訪朝代表団」に、山村は副団長として参加したのだ。この時に自民党・社会党と朝鮮労働党による「3党共同宣言」が出され、日朝国交正常化に向けて動き出した。1992年4月には、山村を団長とする「自民党代表団」が訪朝することになった。その際に、田宮高麿と会うことになっていたという。

[若林] 「私たちは数十年ぶりの『旧友』との再会を期待しました。ですが、出発前夜に(山村氏が)長女に刺されて殺されるという事件が起きました。落胆と共にご冥福をお祈りしたことは記憶に新しいです。『旧友』との再会が叶わなかったことと同時に、日朝友好及び『よど号』帰国問題に力を発揮できる貴重な自民党政治家を失ったという喪失感がありました」

「よど号」犯たちは、金浦空港での危険な事態を解決した山村新治郎を高く評価し、感謝の気持ちを持ち続けているようだ。

■小さな滑走路へ強行着陸

「よど号」が、金浦空港からまっすぐに平壌へ飛べば約20分しかかからない。ところが丁来赫国防部長官は、そのルートを認めなかった。そのため石田機長は、東海岸まで出てから北上して軍事境界線を越え、再び西へ向かって平壌を目指すことになった。しかし機長の手元には、板付空港で渡された中学校地図帳のコピーしかなかった。

「石田(機長)が福岡に戻らざるをえないと考え始めていた矢先、ちらちらと町の灯りが見えてきた。小さな滑走路らしいものも見えてきたが、ピョンヤンの飛行場にしては小さすぎる。(略)ついに石田は、その小さな飛行場らしい滑走路に強行着陸する決断をした。その時の心境を石田は、『乗客が乗っていたら絶対に降りませんでした。もしかすると、機体がバラバラになってしまうかもしれないとは思いました。山村さんには大変申し訳ないが、九人の赤軍派が死のうがどうなろうが知ったことではないと思っていたのです』と語っている」(『中継現場』)

[小西]「あの時、ピョンヤンの上空は晴れ渡っており、まだ夕闇前で街の灯りはほとんど見えませんでした。私の頭には、『ピョンヤンは悪天候だ。着陸できなかったら日本に帰るしかないがどうするか』と私に迫ってきた石田機長の言葉がやはりウソだったな、『飛んでくれ』と答えたのは正解だったという思いでした」

DSC_8390(「村」からの大同江と田園)
「日本人村」からの平壌郊外(2014年9月28日撮影)

「車輪が滑走路に触れた途端、シートベルトをしていても身体がちぎれてしまうほどの衝撃で、相原は車輪が吹っ飛んでしまうのではないかと思ったという。戦時中、特攻隊の夜間飛行訓練の教官まで務めた石田の、見事な操縦であった。(略)この空港は旧日本軍が簡易舗装で作った美林(ミリム)という訓練用の飛行場で、正式なピョンヤン国際空港は四〇キロも離れた順安(スナン)にあった」(『中継現場』)

なお現在の「美林飛行場」は、国の重要な記念日に金日成広場で実施される「軍事パレード」の準備などに使用されている。この飛行場の隣には、「美林乗馬クラブ」が2013年10月完成。市民のための施設になっており、取材に訪れた私は無理やり乗馬体験をさせられたことがある。

「ついに念願の北朝鮮に着いたというのに、赤軍派の連中は降りようとしない。江崎が『どうしたんだ』というと、『怖い』と尻ごみする。それを見て江崎は、彼らが事前に北朝鮮側へ何一つ連絡しておらず、許可も得ていないことを知った」(『中継現場』)

[魚本]「着陸しても何の反応もなく、暗闇の中で闇雲に動くわけにいかず様子をみていたわけです。この時、江崎副操縦士が、私が見てきましょうと言ったのでそのようにしたのであって、そのような会話はしていません」

[小西]「もともと朝鮮に着いたら、逮捕され拘留されるだろうと覚悟していましたから、『怖い』と言って尻込みした者は一人もいなかったはずです。ただ、いよいよだと思い皆が緊張したのは事実だと思います」

[若林]「『怖いと尻込み』。これは江崎副操縦士の主観ですが、私たちが(機外へ)出なかったのは、(着陸したのが)郊外の小さな飛行場という想定外のことだったのと、不法入国者という自覚はあったので、人が来たら指示に従うべきと思ったからです」

■厳しい尋問と豪勢な料理

「赤軍派」9人と乗務員3人、そして人質1人はバスに乗せられ、平壌市中心部にある「平壌ホテル」へ連れて行かれた。そして尋問がすぐに始まった。

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現在の「平壌ホテル」(2019年10月14日撮影)

「山村は『職業は』と開かれ、『国会議員です。運輸政務次官です』と答えたが、理解してもらえなかった。北朝鮮にはそのような職業は存在しなかったからだ」(『中継現場』)

[魚本] 「朝鮮側が理解できなかったのは、朝鮮では日本の国会議員に相当する最高人民会議代議員は職業ではなく、職業をもちながら代議委員に選出されるからです。山村氏が『代議士です、衆院議員です』と何回も答えたので、係官が『もういい』と質問を終えたことを鮮明に覚えています」

「続いて赤軍派の尋問が始まったが、リーダーの田宮高麿が自分たちの同時革命論をとうとうとまくしたてると、『もういい』と話をさえぎり、『結局何がいいたいんだ。残りたいのか、日本に帰りたいのか』と質した。田宮が『しばらくお世話になりたいと思います』と答えると、すべての尋問が終わり、『全員が不法入国者だ』と厳しい口調でいい渡された」(『中継現場』)

[赤木]「朝鮮の安全部幹部から言い渡されたのは『学生たちの滞在を認める』という話だった。『全員が不法入国者だ』と言い渡したというのはでっち上げです」

北朝鮮が全員を「不法入国者」としたならば、「赤軍派」の9人も追放されたはずだ。「不法入国者」として追放処分になったのは、山村次官と日航乗務員だけだ。翌4日に北朝鮮は、「赤軍派」9人を「亡命者」として受け入れると表明している。

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全員で食事する「よど号グループ」(2014年9月24日撮影)

「その(尋問の)あと一三人が案内されるままにホテルの宴会場に入ると、豪勢な料理が用意されていた。厳しい尋問のあとだけに全員がそのギャップに信じられない気持ちだったが、席についた赤軍派のテーブルから『機長ご苦労』という言葉が飛ぶと、腹に据えかねていた江崎は『馬鹿野郎、いい加減にしろ』と怒鳴り返した」(『中継現場』)

[小西] 「あの時、私たちは石田機長の操縦術に感嘆し感謝していたので、このような横柄な言葉は誰の口からも出なかったのではないかと思います」

[魚本] 「食事が始まって、田宮さんを先頭に私達が彼らのテーブルに行き、『ご迷惑をおかけしました。ありがとうございました』と挨拶したのであり、『機長ご苦労』などと声を上げることなどありえません。江崎さんは終始ぶっきらぼうな表情をしており、心の中では『バカ野郎いい加減にしろ』と思っていたということなのでしょう」

[若林] 「江崎副操縦士が覚えているのだから、そんな言葉を言ったのかもしれません。でも私の知る限りでは、『犯人と人質』というより無事到着を祝いあうというような雰囲気があって、山村次官か石田機長とビールで乾杯した記憶があります。ジェット機では不可能と思われた美林飛行場に、着陸を見事成功させた石田機長の凄腕には感嘆、感謝してました。『お疲れさまでした』くらいの言葉をかける雰囲気があったのは事実です」

北朝鮮は、「よど号」を離陸させるためのさまざまな技術的問題を徹夜で解決した。そして4月5日の午前7時10分。

「北朝鮮の技術者の献身的な協力によって、ついに『よど号』はピョンヤンを飛び立ち、羽田に向かった。着陸体制に入った時、隣に座っていた相原が見ると、富士山をじっと見つめる山村の目には涙があふれていたという」(『中継現場』)

3月31日に羽田空港を飛び立った「よど号」は、122時間ぶりに同じ空港へ戻った。実に長く劇的な旅になった。「よど号ハイジャック事件」はこれで決着したが、平壌で暮らす「よど号グープ」6人が日本へ戻るまで「よど号問題」は終わらない。

■「よど号事件」と戦後

久能靖の『実録 昭和の大事件「中継現場」』では、「60年安保闘争」「成田闘争」「東大安田講堂事件」などと並んで「よど号ハイジャック事件」について記されている。そのため事件当事者として、歴史的にみた「よど号ハイジャック事件」について聞いた。

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ハイジャック実行犯たちの近影(2021年2月21日撮影、「よど号グループ」提供)

[赤木] 「よど号ハイジャックの当事者として、乗客、乗務員の方々を危険な目に合わせたことに大きな責任を感じており、謝罪もしています。当時、武装闘争しか日本の活路がないと信じていて、国民大衆に依拠し学び、共に闘っていくという視点がまったくありませんでした。

アジア諸国を蔑視し、敵視し、再び戦争を起こすことは絶対あってはならないと思います。そのために考えや体制の違いがあれ他国を尊重し、アジア諸国と友好関係をつくり、米国とは対等な関係を確立していくことだと思います。日本はあまりにも米国に隷属的です。

よど号ハイジャック事件は、米日韓の軍事同盟の一端を示した事件でもあります。『(欧州)拉致』でっち上げも米国の脚本だと考えています。田中(義三)がでっち上げられた『偽ドル事件』もそうでした」

[魚本] 「今、米国の力が見る影もなく低下し、戦後日本を規定した対米従属ではやっていけなくなっています。『昭和の大事件』を振り返る中で、いかに、それらの大事件の背後に米国が暗躍していたかを考えてほしいと思います。それにしても、60年安保闘争以降の『成田闘争』『東大安田講堂事件』などには私も参加しており、我々の世代はそういう時代(を生きたの)だと改めて思った次第です」

[小西] 「『よど号』ハイジャックは一言で言って、戦後日本の時代的反映であり、令和の今を生きるための教訓ではないかということです。その心は、この『事件』のもう一人の主役が米国だったところにあります。米国が『よど号』の朝鮮行きを阻止しようとしたのは、乗客の中にCIAの人間がいたことがあるかもしれませんが、朝鮮敵視がその根底にあったのは明確だと思います。

米国の指揮の下に、日本と韓国が動かされる。それは戦後の縮図であり、令和の今も続く現実なのではないでしょうか。米国による覇権崩壊が見えてきている今日、古い時代の遺物である『ハイジャック問題』と『拉致問題』をともに解決することが問われていると思います」

DSC_7665事務所の若林盛亮(左)と小西隆裕
事務所の若林盛亮(左)と小西隆裕(2014年9月26日撮影)

[若林] 「日本国民にとって『昭和の大事件』と言えば、『あの戦争』以上のものはないと思う。 戦後日本は『あの戦争』の敗因を米英国際覇権秩序に挑戦したこと自体に求め『軍部の暴走』にその責を負わせながら、アジア植民地化とその拡大をめざす侵略戦争という本当の要因から目を背け、それを教訓化することもしなかった。ゆえに戦後日本は日米安保体制基軸の道、米覇権秩序にひたすら従い、対米従属下で再びアジアに覇を唱える道を選択した。

出発から誤ったこの戦後日本に異議を唱えたのが60年安保闘争、成田闘争、東大安田講堂、よど号ハイジャック、浅間山荘などであり、そういう意味で久能氏が書かれたこれら『昭和の大事件』を『あの戦争』に対する総括を誤った結果として考える歴史の見直しが求められている。それは優れて今日的問題なのではないかと思う」

北朝鮮へ渡ってから長きにわたり、日本をそれなりに客観的にみてきた「よど号ハイジャック」犯たち。ハイジャック事件があったその時期は、戦後日本にとって大激動の時代だった。若林がいうように、アジア太平洋戦争に対する真摯な反省をしなかった「戦後」は、国内でさまざまな大事件を引き起こし、今も続く近隣諸国との深刻な関係悪化をもたらした。

半世紀前の「よど号ハイジャック事件」を検証していて、米国によって今もコントロールされている日本と韓国の軍事状況を知ってため息が出た。現在、在日米軍は約5万5000人で、米軍基地は131ヵ所もある。沖縄では辺野古への米軍基地移転で、日本政府と沖縄県との深刻な対立をもたらしている。そしていまだに米軍は、東京を含む1都9県にまたがる広大な「横田空域」の航空管制を手放なそうとしていない。

そして韓国では、北朝鮮との戦争が起これば、2万8500人の在韓米軍だけでなく韓国軍も米軍が指揮をするという異常事態が今も続いている。韓国は、1950年に朝鮮戦争が始まると「戦時作戦統制権」を国連軍最高司令官のマッカーサーに移譲。1978年に創設された「米韓連合司令部(CFC)」が、韓国軍と在韓米軍を指揮することになったが司令官は米軍のままであり、韓国軍への移管は目途が立っていない。

日本は敗戦によって米国に占領・統治され、韓国は日本の植民地支配を受けたがゆえに北緯38度線以南を米国に占領・統治された。その「占領政策」を、戦後76年たっても引きずっているのだ。こうした日本と韓国の状況は、とても「独立国」とは思えない。

■終わっていない「よど号」事件

この「よど号ハイジャック事件」で、軍事独裁政権下の韓国において一人の死傷者も出さなかったのは山村新治郎政務次官の勇気ある決断が極めて大きい。“次の選挙”のためだけで、できるようなことではない。こうした自己犠牲が出来る政治家は、与野党を問わずもはや日本にはいなくなってしまったのだろうか。

日本は北朝鮮に対し、日本人拉致が発覚するまでは残留日本人・日本人妻の里帰り、日本人埋葬地への墓参といった人道問題の解決を強く要求してきた。ところが今や、当事者たちが高齢化し一刻も早く解決する必要があるこうした人道問題でさえ取り組もうとする政治家はほとんどいない。「北朝鮮」に関わることは、アントニオ猪木のように強いバッシングを受けるからだ。

DSC_7392森順子(左)と若林佐喜子
森順子(左)と若林佐喜子(2014年9月25日撮影)

1971年7月に、リーダーの田宮高麿が「赤軍派」理論の過ちを全面的に自己批判した。そして現在、ハイジャック実行犯の4人は事件の過ちを認めて謝罪し、帰国して日本で裁判を受けるとしている。ところが「よど号グループ」6人のうちの3人が、「欧州拉致事件」に関わったとして国際指名手配されたのだ。

警視庁によれば、1980年5月に森順子と若林佐喜子が石岡亨・松木薫を、1983年7月に魚本公博が有本恵子を誘って北朝鮮へ連れ込んだとしている。そのため「拉致」での指名手配を受けていない3人も、帰国を断念せざるを得ない状況になっている。

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「日本人村」で農作業をする魚本公博(2014年9月28日撮影)

「日本人村」で生まれて日本へ帰国した子どもたちへは、外務省から旅券が発給されており、平壌で暮らす親へ会いに行くことができる。ところが2002年に平壌から帰国したK・Tは、夫と会うために訪朝を希望しているものの旅券発給を拒否されている。19年間も会えていないのだ。

かなりの高齢となった彼らが、日本の「国益」に反するようなことをするのは不可能であり、発給拒否は完全に外務省の嫌がらせでしかない。現在、旅券発給拒否処分の取り消しを求め東京地裁で争われているが、1月19日に第1回口頭弁論が開かれたばかりなので、結論が出るまでには相当の時間が必要だろう。

日本は隣国である北朝鮮と、解決すべきさまざまな重要課題がある。にもかかわらず、いまだに国交すらないという異常な状態だ。安倍晋三前首相は、拉致問題を徹底的に政治利用しただけで、日朝のどの課題も解決せずに退任。菅義偉首相は、安倍と共に日朝関係を“ドロ沼”のようにしてしまった。

こうした厳しい状況であっても、人道的課題は政府が決断すればすぐにでも動かすことが出来るし、それが実現すれば日朝国交正常化交渉再開の大きな契機となり得る。

米国・バイデン政権が北朝鮮に、2月中旬からいくつかのルートで接触を図った。それに対する“回答”として、3月15日に金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党中央委員会副部長が、米韓合同軍事演習の実施を強く非難。17日には崔善姫(チェ・ソンヒ)第1外務次官は、米国による敵視政策が撤回されない限り、どのような対話にも応じないとした。

それだけでなく北朝鮮は、21日に短距離巡行ミサイル、25日には短距離弾道ミサイルを各2発ずつ発射。現在、北朝鮮政策の見直し作業をしているバイデン政権に対し、トランプ前大統領と合意した「北朝鮮に安全の保証を与える約束」の履行を求めていると思われる。

こうした状況で米朝・南北関係は、長期にわたって改善されない可能性もある。日本政府は今まで通りに米国の顔色をうかがい、北朝鮮との独自交渉をこれからもしないつもりなのだろうか。バイデン政権がどのような北朝鮮政策を打ち出そうとも、日本は「拉致」「よど号」を含む日朝間のさまざまな課題解決のために、真剣になって取り組むべきである。

(文中敬称略。撮影年月日の記載がある写真は筆者撮影。『実録 昭和の大事件「中継現場」』からの引用については、著者の久能靖氏と河出書房新社のご協力をいただきました)
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プロフィール

伊藤孝司

Author:伊藤孝司
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は約200回で、そのうち朝鮮民主主義人民共和国へは40回以上です。現在、年2~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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