北朝鮮で見た「統一教会日本人信者」の実態

講談社のWEBメディア『現代ビジネス』(2022年9月9日)で公開した記事を掲載する。

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北朝鮮で見た「統一教会日本人信者」の実態と、“疑惑の船”取材から繋がった「ある衆議院議員と教団の意外な関係」

■平壌に暮らす日本人たち

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の平壌(ピョンヤン)にある「順安(スアン)国際空港」で、周囲の人と陽気に話す若い男性を見かけた。国際線に搭乗するというのに作業服姿で、癖の強い朝鮮語を話す。私は、「どうみても日本人だ!」と思った。

声をかけると、やはり日本人だった。私が次々と繰り出す質問に気さくに答えてくれ、話の内容からすぐに「統一教会(「世界基督教統一神霊協会」、現在の「世界平和統一家庭連合」)」の信者だと分かった。驚くことに、平壌で長年にわたって暮らしているというのだった。

現在、平壌で暮らしている日本人にはさまざまな人がいる。

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「たかはし」の前の藤本健二氏(2017年4月16日撮影)

料理人の藤本健二氏は、1982年に初訪朝してからは日本と行き来をした。ドラマチックな経緯の末に、日本でテレビに露出し続ける生活を捨てて2016年からは平壌で暮らしている。

市内中心部にある「楽園(ナクウォン)百貨店」の別棟で、日本料理店「たかはし」とラーメン店を開店した。現在、北朝鮮は新型コロナウイルス対策で、海外からの入国者を受け入れていないため、在日朝鮮人が多く訪れていたこの店が営業できているかどうかは不明だ。

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「よど号」をハイジャックした4人(2014年9月24日撮影)

また、平壌郊外では「よど号グループ」の6人が暮らす。その内、「よど号ハイジャック事件」で日本から渡った元「赤軍派」学生は今では4人。事件を起こした1970年から現在にいたるまで、彼らが「日本人村」と呼んでいる「元信(ウォンシン)外国人宿泊所」で暮らし続けている。

拙稿参照)
『「よど号ハイジャック事件」実行犯による51年目の新証言【前編】 米韓情報機関が金浦空港へ誘導した…』
https://gendai.media/articles/-/81729
『「よど号ハイジャック事件」実行犯による51年目の新証言【後編】 日朝間に残る課題解決のために』
https://gendai.media/articles/-/81730

■声かけで出会った日本人

私の北朝鮮取材は1992年から計43回。気になるものには片っ端からカメラを向け、見かけた日本人らしき人にはいつも声をかけてきた。

そうした日本人の多くは観光客で、「未知の国・北朝鮮」を見たくて、おっかなびっくりで来ていた。中には北朝鮮女性の“おしとやかさ”に魅せられてしまい、一生懸命に働いて金を貯めて毎年訪朝しているという元自衛隊員もいた。

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「平壌マラソン」の外国人参加者たち(2017年4月9日撮影)

また、2014年から外国人も参加できるようになった「平壌国際マラソン(万景台賞国際マラソン)」へ、日本人ランナーたちも参加。スタートを待つ約1000人もの外国人ランナーの中で、大声で日本人を探し出してインタビューしたこともある。

こうした北朝鮮にいる日本人への強い関心から、そこで暮らす統一教会の日本人信者との出会いが生まれた。空港で知り合ったA氏とは、平壌市内でたびたび会って興味深い話を聞いてきた。

■文鮮明氏の北朝鮮訪問

北朝鮮の「朝鮮アジア太平洋平和委員会」は8月13日、統一教会の創設者である文鮮明(ムン・ソンミョン)氏の死去10年に際し、文氏の遺族に弔電を送った。文氏を今でも高く評価しているのだ。

金主席と文夫妻
金日成主席(中央)と文鮮明氏・韓鶴子氏(「世界文化体育大典」webサイトより)」

文氏は1946年6月、ソ連管理下の北朝鮮で布教活動を始めが、スパイとして逮捕され収容所へ。朝鮮戦争で「国連軍」によって収容所から解放され、韓国へ戻っている。

そうした体験をしている文氏が、1991年11月に訪朝。金日成(キム・イルソン)主席と会談し、朝鮮戦争による南北離散家族の再会や北朝鮮への投資などで合意した。

「反共」を掲げて活動してきた文氏が北朝鮮へ接近した理由の一つには、軍事境界線北側にある平安北道(ピョンアンブクド)で生まれたということもある。だがそれよりも、積極的な経済支援によって、北朝鮮で布教することを考えたのだろう。

DSC_2553原理講論
統一教会の教理『原理講論』

そのことは、平壌市内に立派な礼拝堂を建設したことからも明らかだ。また99年間の借地権を得て整備された文氏の生家を、「国際合同結婚式」を終えた多くの信者が「聖地訪問団」として訪れたこともあるという。

■北朝鮮のキリスト教

北朝鮮には、いくつもの宗教の礼拝施設がある。仏教寺院は、平壌には「広法寺(クァンポッサ)」があり、開城(ケソン)の「霊通寺(リョントンサ)」、妙香山(ミョヒャンサン)の「普賢寺(ポヒャンサ)」などの大きな寺院がある

020428鳳岫教会の礼拝
「鳳岫教会」での日曜礼拝(2002年4月28日撮影)

キリスト教の教会堂は平壌だけにあり、1988年以降にプロテスタントの「鳳岫(ポンス)教会」と「七谷(チルゴル)教会」、そしてカトリックの「長忠(ジャンチュン)大聖堂」が建設された。また2006年には、ロシア正教会の「貞栢(チョンベク)寺院」が完成している。

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ロシア正教会の「貞栢寺院」(2015年6月27日撮影)

北朝鮮は、キリスト教に対して異常なほどの警戒心を持ち続けている。「社会主義憲法」では、宗教について「公民は信仰の自由を有する」としながらも次のように定めている。

〈 宗教を、外勢を引き入れたり、国家社会秩序を乱したりするのに利用することはできない 〉(第68条)

この条項があるのは、かつて米国・英国などの大国が世界中で宣教師によるキリスト教布教活動から始まって軍事侵攻・支配へと突き進んでいった歴史を認識していることもあるだろう。朝鮮半島でも、そうしたことがあったが、それよりもやはり、朝鮮戦争での苦い経験が大きいのではないか。

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信川の住民虐殺現場にある壁画(2014年4月30日撮影)

1950年10月、米軍は北緯38度線を突破して北上。その占領地域において、社会主義政権に敵愾心を抱き続けてきたプロテスタント信者たちが、住民を集団虐殺するという事件が各地で起きた。黄海南道(ファンヘナムド)信川(シンチョン)では、3万5383人が死亡したとされる。

ちなみに「パリ国立ピカソ美術館」所蔵の「朝鮮の虐殺」というパブロ・ピカソの作品は、この事件を描いたものだ。

こうした経験と、近年ではキリスト教関係者らが脱北者支援を行なってきたため、キリスト教に対する徹底した取り締まりを行なっているのだ。

■統一教会が設立した「平和自動車」

そんな北朝鮮において、「国際勝共連合」という看板も掲げる統一教会が大規模な事業を始めた。

040503平和自動車の看板と通行人
平壌市内の「平和自動車」の広告(2004年5月3日撮影)

1998年には、金日成主席の誕生日である4月15日に、「平和(ピョンファ)自動車総会社」(以下、平和自動車)が設立された。統一教会による企業活動の組織「統一グループ」傘下の「平和自動車」が70パーセント、北朝鮮の「朝鮮連峰(リョンボン)総会社」が30パーセントを出資する合弁企業だ。

平和自動車の生産工場は2002年4月に、平安南道(ピョンアンナムド)南浦市(ナムポシ)に完成。私は工場を取材する機会はなかったが、平壌と南浦を結ぶ「青年英雄道路」の北側に面する工場は何度か目にしている。

平和自動車はイタリアのFIAT社と提携。その洗練されたデザインの小型セダン「フィパラム(口笛)」が、平壌の街を走っているのを最初に見た時には驚いた。

DSC_8289グループが使っている平和自動車の車と若林盛亮
「よど号グループ」が使っていた平和自動車のSUV車(2014年9月28日撮影)

他にはミニバン「ポックギ(カッコウ)」や「チュンマ(駿馬)」「サムチョンリ(三千里)」など9種類が生産されたという。だが性能はあまり良くなく、これを運転していた「よど号グループ」の若林盛亮氏は「頻繁に故障する」と嘆いていた。

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「平和自動車」日本人スタッフの名刺(2008年6月21日入手、一部画像処理)

この工場には、多い時には10人の韓国人エンジニアが働いていたという話がある。私は2008年6月に、中国・瀋陽から平壌へ向かう高麗(コリョ)航空便に乗った。隣の席に座ったのは、スーツ姿のアジア人男性。声をかけて、日本人だということが分かる。

その人の名刺には「平和自動車」のロゴマークがあり、肩書は「チーフエンジニア」となっていた。平和自動車のエンジニアたちを率いていたのは日本人だったのだ。

■快適な「普通江ホテル」

平壌市内に、緑豊かで静かな地域がある。その中を穏やかに流れる普通江(ポトンガン)には、岸辺にヤナギの大木が立ち並び、カヌーの練習をする若者たちや釣りをするお年寄りたちの姿をいつも見かける。そうした普通江の畔に「普通江ホテル」がある。このホテルを統一教会が経営するようになったのは1993年11月からだという。

DSC_0424普通江ホテル外観
改装された普通江ホテルの外観(2019年5月19日撮影)

このホテルには、日本の大手総合商社「日商岩井」が事務所を置いていたことがある。だが日本政府による北朝鮮への独自制裁によってすべての輸出入が禁止されたため、撤退を余儀なくされた。

また、2000年10月に訪朝した米国・オルブライト国務長官の一行はこのホテルに宿泊。板門店(パンムンジョム)を越えてトラックで運ばれた大量のコピー機などの機材が、このホテル4階の廊下に並んだ。

平壌には、おもに外国人が利用する「高麗(コリョ)ホテル」や「羊角島(ヤンガクド)ホテル」などがあるが、私がその中でもっとも快適だと思っているのが普通江ホテルだ。ここの“常連客”である私は、3等室の料金で2等室に泊めてもらっている。北朝鮮から私への唯一の“便宜供与”である。いつもリクエストする最上階の9階客室からは、平壌市内を遠くまで見渡すことができる。

DSC_1449普通江ホテルからの平壌市街地
普通江ホテルからの眺望(2019年5月18日撮影)

客室内は広くて天井が高い。1973年に建設された古いホテルなのだが、統一教会が運営するようになってからは少しずつ改装されてきた。

ホテル1階には、輸入雑貨や高級品などを扱うコンパクトながらもオシャレな3つの店舗がある。その向かいにあるのが、日用品やカップ麺・缶詰・菓子・酒などが並ぶコンビニエンスストア。この店は、北朝鮮での商店の販売方法を変える先駆けだった。

北朝鮮の商店での買い物は面倒である。まず、気になる商品を棚から店員に取ってもらう。それを購入するには商品名と金額を書いた紙きれをレジへ持って行って支払いをしてスタンプを押してもらい、それを渡してはじめて商品を受け取る。

その方式も徐々に変わりつつあり、平壌には自分で棚から取り出した商品をレジへ持って行って支払いをするスーパーマーケットが増えてきた。

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普通江ホテルの携帯電話ショップ(2019年10月15日撮影)

このホテルにはこれ以外に、いくつものレストランや喫茶店・スナック・カラオケ・ビジネスセンター・書店などがあり、従業員は500人もいるという。現在は、携帯電話ショップも入居する。

私がこのホテルを選ぶ最大の理由は、客室でのインターネット接続が容易にできることだ。料金は30分4.62ドル。難しい取材だと日本の放送・出版関係者と頻繁に連絡する必要があるため、このことは非常に重要である。メールだけでなく、WEBサイトへのアクセスもできる。なお、このホテルのインターネット接続サービスを行なっているのはドイツ企業。東ドイツ時代に北朝鮮へ赴任していた元外交官が始めたという。

そしてここを選ぶ理由として、ホテル内の高級レストラン「木蘭(モクナン)」で出される和食の水準が極めて高いこと。平壌駅前にある「総聯食堂」など他店の和食とは格段に違う。連日のハードな取材で疲れてくると、うどんやかつ丼・うな重・揚げ出し豆腐などメニューにある和食を片っ端から食べてきた。

■ホテルで働く日本人信者たち

このレストランが、高水準の和食を提供できたのには大きな理由がある。

それは、料理人が「日本人」だからだ。しかも料理長は、日本の一流ホテルで働いたことがある人だという。和食にどうしても必要な食材は、苦労して日本から運んでいた。

統一教会が運営するホテルの外国人スタッフは皆、統一教会の信者である。厨房だけでなく、NHKBS放送(国際放送ではない)など外国放送が受信できる設備や、新しく導入したオーチス製エレベーターなどの設備の保守点検も日本人信者たちが行なっていた。その数は10人ほどとのこと。

私が平壌空港で出会った平壌在住の統一教会の日本人信者A氏は、このホテルで設備のメンテナンスを担当していたのだ。空港で着ていた作業着は、普段の仕事着だった。

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普通江ホテルのカラオケルーム(2018年2月28日撮影)

A氏が北朝鮮へやって来たのは、何と1993年。年に1度だけ日本へ戻り、妻や子どもたちと過ごすということを繰り返していた。

私はA氏と知り合ってからは、このホテルへ泊まるたびにレストランで長時間にわたって話を聞いた。たいして重要な内容はなかったが、普通江ホテル運営の苦労話やその時々の北朝鮮社会の雰囲気などを知ることができた。

A氏は北朝鮮で長年にわたって暮らしていても、地方都市の状況はほとんど知らなかった。仕事の関係で、いくつかの地方都市にある超高級ホテルへは行ったことがある。ところが、平壌市内で自由に歩き回ることができるのはホテルの周辺くらいだけで、車で出かける際には、案内人と通訳が付くという。

ある時、このホテルのエレベーターに、かなり貧相な身なりで古ぼけた大きなバッグを持ったアジア人女性が乗り込んで来て驚いたことがある。統一教会の信者だと確信したが、すぐに降りてしまったので声をかけそびれた。

他にも、「平和自動車」で働く薄い青色の作業服姿の日本人従業員たちを見かけたこともある。どうやらこのホテルは、統一教会の北朝鮮での活動拠点だったようだ。

■安宿の「安山館」も統一教会が運営

普通江ホテルの宿泊料金は、1泊104USドル。長期滞在すると大変なので、外国人が宿泊できるいくつかの安宿にも泊まったことがある。その中で、もっとも安かったのが「安山(アンサン)館」。普通江ホテルの約半額だ。ここも普通江ホテルと同じように、統一教会が運営してきた。

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安山館の正面入り口(2015年6月27日撮影)

「安山館」の英語表記は「AN SAN GUEST HOUSE」。建物は古く、しかも平屋なのでホテルというより旅館という雰囲気だ。宿泊料金が安いため中国企業の事務所が設けられており、中国人ビジネスマンが長期宿泊している。そのためここへ泊まりたい時には、かなり前に日本からリクエストしてきた。

池の釣り人たち
安山館の池で釣りをする人たち(2011年6月8日撮影)

客室内は古いままで改装されていないので、決して快適とはいえない。だがここの良いところは、広大な敷地内に建っていることだ。正面玄関前には大きな池があり、たくさんの市民がいつも釣り糸を垂らしている。

普通江ホテルとは近距離なので、私は普通江ホテルのレストランで食事をするため、安山館から1人でかなり暗い夜道を通っていた。安山館にも宿泊棟と廊下でつながった和食や中華のレストランがあるものの、普通江ホテルの方がおいしいからだ。安山館のレストランは、かつては“高級”だったが、今ではここ以上の料理を出す店が次々と誕生している。

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安山館の日本料理店(2015年6月26日撮影)

この安山館の日本料理店では、かつて藤本健二氏が働いていた。2018年2月にこの店で「よど号グループ」の小西隆裕氏と若林盛亮氏を取材した際にも、日本人料理人がいた。

■現代的なデザインの「世界平和センター」

かつては、普通江ホテルと安山館の間には緑が広がっていた。その場所に、当時の北朝鮮ではまだ珍しかった現代的なデザインの大きな建物が造られた。統一教会の「世界平和センター」である。

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普通江ホテルからの「世界平和センター」(2017年4月12日撮影)

韓国の建設会社による工事が始まったのは1997年5月。私は普通江ホテルの客室からその進捗状況を見ていたが、いつも数人の作業員の姿が見えるだけで工事は遅々として進まなかった。ようやく完成したのは、10年後の2007年8月。この建物は、地上5階・地下1階で、延べ床面積4620平方メートルだという。

この中には礼拝堂や宿泊施設・ホール・会議室などがあるということは、断片的な情報から知っていた。この巨大な施設は、教会堂そのものなのだ。A氏の話によれば、日曜日には礼拝が行なわれているという。

完成してからも、敷地を囲む工事用の壁は撤去されていない。私が最後にこの施設を見た2019年10月現在では、本格運用はされていないようだった。施設管理のために、数人が寝泊まりしていると聞いている。

日本のジャーナリストや友好訪朝団を受け入れているのは「朝鮮対外文化連絡協会」。そこに務めるベテランのスタッフは、「我が国と統一教会との関係は自分には理解できない」と語ったことがある。

■「万景峰号」で出会った民団幹部

2004年4月、「万景峰(マンギョンボン)92号」の乗船取材をした。この船で不正行為が行なわれているとして“疑惑の船”と呼ばれていたため、乗員・乗客と船内を徹底的に取材しようと計画したのだ。

新潟を出港した直後、低気圧を避けるために停泊したため船内に3泊することになった。予定通りの取材をして、TBS『報道特集』で放送した。

新潟港の万景峰92号
新潟港の「万景峰92号」(2004年4月26日撮影)

船内の食堂で、乗客たちは2回に分かれて決められた席で食事をした。私のすぐそばの円卓には、男性ばかり7人がいつも静かに食事をしており、他の乗客たちとは明らかに雰囲気が異なっていた。乗船から2日後、その内の1人が私の元へやって来て「誰もいないところで話がしたい」という。

客室で話を聞いて驚いた。その人物(B氏とする)は、「民団(在日本大韓民国民団)」東京本部の幹部だった。B氏以外の円卓の人たちも民団に所属していて、親族訪問のために乗船しているというのだ。

船内で取材を始めてから、乗客にはかなりの割合で韓国籍の人がいることは知っていた。民団は時には「朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)」と激しく対立してきた。その民団幹部まで、この船を利用していたのだ。

■河野太郎氏が傘下団体へ祝辞

帰国後しばらくしてそのB氏から連絡があり、「南北統一のための団体を結成するので取材して欲しい」という。

2004年7月4日、本格的な撮影機材を持って東京全日空ホテルへ向かった。受け付けにいたは、色とりどりのチマ・チョゴリの女性たち。そこで受け取った資料を見て、何かおかしいと思った。

大会パンフ
「平和統一聯合」創設大会のパンフレット(2004年7月4日入手)

その団体は、在日コリアンを対象とした「平和統一聯合」という名称だった。大会が始まり、話を聞いているうちに、この団体の“正体”が分かった。何と、統一教会の傘下組織だったのだ。私はテレビ局へそのことを伝え、放送は断念したものの、一部始終を撮影することにした。

B氏の説明では大会参加者は約900人とのことで、会場は超満員。参加者の5分の2は民団、5分の1は朝鮮総聯に所属し、残りが日本人とのことだった。

大会では、壇上に並んだ自民党と民主党(当時)の衆議院議員3人が次々と紹介され、その内の民主党議員が挨拶した。この創設大会の1週間後の7月11日には「第20回参議院議員選挙」があった。

選挙応援で忙しいはずのこれら国会議員が、活動はこれからでまだ何の実績もない在日コリアン団体の大会に出席していたのである。しかも、参加者の半分以上を占める「韓国籍」「朝鮮籍」の人たちには選挙権はない。つまり彼らの出席理由は、「統一教会の重要イベント」であると認識していたから、としか考えられない。

続いて司会者が、衆議院議員5人の祝辞を披露した。その内の1人は、今では消費者担当大臣を務めている河野太郎氏だった。

歴史的な平和統一聯合の創設を心よりお祝い申し上げます。ご参集の皆様の高い志に深い敬意を表します。在日コリアンの和合が半島の和合、さらにアジア、世界の和合へとつながると確信しております。またはるばる大韓民国よりお越しいただいたご来賓の方々に心より感謝申し上げます。この歴史的大会のご成功、そしてその運動のご発展を心から祈念申し上げます。
衆議院議員 河野太郎


短い祝辞の中でわざわざ触れた“韓国からの来賓”とは、統一教会の幹部やその協力者のことだ。つまり、河野議員は、これが統一教会傘下団体の集会であることを良く理解していたのではないか。

河野大臣は消費者庁に、「霊感商法の被害対策をめぐる有識者検討会」を立ち上げたばかりだ。大臣は「(宗教団体の)解散命令まで消費者庁が関わることになるかもしれない」と述べ、統一教会に対して厳しい姿勢で臨もうとしていることをアピールした。 

『朝日新聞』は全国の国会議員・知事・都道府県議に対し、統一教会との関わりについてのアンケートを実施。結果を9月4日に公表した。それによると河野大臣は、「旧統一教会や関連団体主催のイベントに関し、出席・祝辞・祝電等の関わりを持ったことはありますか」との質問に「いいえ」と答えている。

自民党は8日、所属国会議員379人に対して実施した統一教会との関係についての「点検結果」を発表。何らかの関係があったのは179人(重複を除くと121人)。「祝電・メッセージ」を出したのは97人・328件とのことだが、氏名の公表はなかった。そのため、河野大臣が祝電を送ったことを申告したのかどうかは不明だ。

■桜田淳子氏は教祖の「御言葉」を連発

続いて開かれた晩餐会では落選中の国会議員が登壇し、選挙支援を要請した。

ひときわ大きな拍手の中を舞台に上がったのは桜田淳子氏だった。冒頭に韓国・朝鮮語で挨拶。話の中で何度も「敬愛してやまない文鮮明先生の“御(み)言葉”」を、時には涙声で披露した。

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舞台で話をする桜田淳子氏(ビデオ映像より、2004年7月4日撮影)

後日、私の元へ平和統一聯合から思い出したように送られてきた資料の中には、「在日1万名 祖国訪問団募集」というものもある。本人負担わずか3万円で韓国へ招待され、統一教会が行なういくつかの大規模イベントに参加できるという内容だった。

その報告書には、「総聯系」「民団系」と記された参加者たちの感想文が並ぶ。この団体は今年7月5日には、創設18周年記念大会を参加者400人で開催している。

このように統一教会は日本において、日本人だけでなく在日コリアンの信者獲得も目指しており、それなりの数の信者がいると推察できる。

■「建国の父」の遺訓で続く親密関係

文鮮明氏は、2012年9月3日に死亡。すると統一教会は、北朝鮮での事業の見直しを始めた。普通江ホテルは黒字に転換していたが、平和自動車の車はほとんど売れず、10年間に生産した車はわずか約2000台だったという。

そうしたこともあり11月には、平和自動車と普通江ホテルなどを北朝鮮へ「無償譲渡」した。普通江ホテルの日本人料理人はいなくなり、和食の質は一気に落ちた。

普通江ホテルの日本人スタッフA氏の仕事場はこの年の内に安山館へ移り、住まいは世界平和センターになった。だがその後、安山館からも撤収して日本へ戻ったとの連絡があった。おそらく、他の日本人信者たちも同じだろう。

現在の北朝鮮で、統一教会がどのような活動をしているのかは分からない。ただ、統一教会の北朝鮮での活動を認めたのは金日成主席である。その「建国の父」が決定したことは、最高指導者が代わっても絶対的なのだ。金正日(キム・ジョンイル)総書記、金正恩(キム・ジョンウン)総書記もその遺訓を守ってきた。

文鮮明氏が死亡した際、金正恩朝鮮労働党第1書記(当時)は「民族の和解と団結、国の統一と世界平和のために傾けた先生の努力と功績は末永く伝えられるだろう」とした弔文を遺族に送っている。

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最高指導者3人の肖像画(2012年4月15日撮影)

金日成主席の遺訓が絶対的であることは、「よど号グループ」への対応からも分かる。

1970年にハイジャックでいきなりやって来た「赤軍派」学生9人を、金日成主席は政治亡命者として受け入れた。かつて米国は北朝鮮への「テロ支援国」指定の理由の一つとして、ハイジャック犯を匿っていることを挙げていた。北朝鮮にとって“厄介者”である「よど号」犯を、外交官待遇で広大な招待所で保護してきた。

■目指すは北朝鮮の“開放”か

事業譲渡直後の2013年1月、平和自動車と普通江ホテルの社長を兼任してきた韓国人社長・朴相権(パク・サングォン)氏は「平壌市名誉市民証」を授与された。金正恩体制になってから、外国人として初めてのことだという。

統一教会は、事業を譲渡して北朝鮮から撤退しようとしたのではない。朴相権氏は、名誉市民賞授与によって「北朝鮮で今後、より自由かつ積極的に事業することを承認された」(「聯合ニュース」2013.1.22)と語っている。

そして北朝鮮に対して、今後は合弁ではなく単独での事業を行なえるように要請したという。具体的な事業としては、「北朝鮮住民、特に平壌市民に必要な生活必需品を供給する流通業を考えている」(同上)とした。

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「大聖(テソン)百貨店」の売り場(2019年5月19日撮影)

10年間の事業で得られた北朝鮮からの“信頼”の上に、発展が見込まれる事業への韓国以外の外国企業の投資を呼び込むのだという。戦略的には統一教会の教義に基づきながら、経済を武器に北朝鮮の“開放”を目指しているようだ。

嵐のような統一教会批判によって、今後、日本の信者による献金額は大幅に減少することだろう。だが韓国や米国での多様な事業で収益を得ている統一教会である。北朝鮮において、計画通りに新たな事業を進めている可能性は十分にある。

文鮮明氏の妻・韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁が率いる訪朝団の計画があることを、韓国メディアが2019年に報じた。統一教会傘下団体の「世界平和国会議員連合」が、韓国や日本などの多数の国会議員を連れて行くというものだ。

統一教会は、金正恩総書記からの招待状がすでに届いていると発表している。統一教会と北朝鮮とのつながりが、これからも続くことは確かだろう。

                                     (引用以外の写真は筆者撮影)

「浮島丸爆沈事件」から77年

講談社のWEBメディア『現代ビジネス』 (2022.8.13)に「浮島丸事件」についての記事を執筆しました。

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「浮島丸爆沈事件」から77年…なぜ北朝鮮はいまだに日本政府を非難し続けるのか
舞鶴湾で起きた謎多き大事件【前編】

■毎年出される北朝鮮声明

毎年、8月24日になると、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)から日本政府を非難する声明が必ず出される。

「『浮島丸』爆沈事件が(日本)敗北に対する復しゅう心を持った日帝の計画的な大集団殺人犯罪事件であった」(『朝鮮中央通信』2021年8月24日)

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特設巡洋艦時代の浮島丸(Wikipediaより)

「浮島丸爆沈事件」は、朝鮮人を殺すために日本が意図的に起こしたものだとしているのだ。2020年には『朝鮮中央通信』は、2つの記事を配信している。

「朝鮮人民は、『浮島丸』という名だけを聞いても、日帝殺人鬼に対するこみ上げる敵愾心(てきがいしん)を禁じ得ない。朝鮮人民は、百年、千年が流れても日帝の罪悪を絶対に忘れず、必ず血の決算をするであろう」

もう一つの記事は「朝鮮人強制連行被害者・遺族協会」スポークスマンによる談話である。

平壌(ピョンヤン)で、この団体を何度か取材したことがある。日本が行なった朝鮮植民地支配による被害者の組織なのだ。なお北朝鮮の被害者組織には、他に広島・長崎の被爆者たちによる「朝鮮被爆者協会」がある。

2,金勇傑(被害者遺族協会会長)
「被害者・遺族協会」の金勇傑会長

「日本当局は、血で塗られた過去を正当化することも、埋めることもできないということをはっきり銘記し、『浮島丸』事件の真相を究明し、その犠牲者と遺族に徹底的に謝罪し、賠償すべきである」

このように日本政府に対し、事件での死者と遺族への謝罪・賠償を要求した。2000年には、この事件を取り上げた劇映画を制作しているほどだ。

韓国でも2019年に、ドキュメンタリー映画『浮島号』が公開された。浮島丸の韓国人生存者と遺族たちが、日本政府を相手に訴訟を起こしたこともある。

北朝鮮や韓国が、「浮島丸爆沈事件」にいまだにこだわり続ける理由とは何か。それは、事件から77年経っても解き明かされていない大きな謎がいくつもあることが大きい。

■どのような事件だったのか

「浮島丸事件」とはいったい、どのような事件だったのか。

「浮島丸」は1937年、大阪商船が大阪と沖縄を結ぶ航路のための貨客船として建造された。総トン数は4730トンで、長さは107メートル。アジア太平洋戦争が始まると、民間の船舶は漁船までもが海軍に徴用。浮島丸は1941年9月に徴用されて「特設巡洋艦」となり、敗戦時は「特設運送艦」として運用された。

3,沖縄航路時代の浮島丸
沖縄航路を運航していた時の浮島丸

海軍の「鎮守府」は、所管海域の警備などのために横須賀・呉・佐世保・舞鶴に置かれた。この「鎮守府」と同じような役割をしたのが「警備府」で、重要な港がある日本の青森県大湊(おおみなと)・大阪、朝鮮半島の鎮海(チネ)、中国の旅順、台湾の高雄などに置かれた。

「大湊警備府」が防衛していたのは、下北半島から北海道・樺太(現在のサハリン北緯50度以南)・千島列島までの広大な地域だった。そしてこの「大湊」が、浮島丸事件の重要な舞台となる。

特設巡洋艦としての浮島丸は、輸送船を護衛してシンガポールやマーシャル諸島へも航海している。青函連絡船が米軍機の攻撃で次々と沈没する中で、浮島丸はその代替船として敗戦まで使用された。

1945年8月15日、日本敗戦。その時、浮島丸は青森港から函館港へ向かっていた。18日に、母港である大湊港へ入港。22日には、帰国のための多くの朝鮮人を乗せてあわただしく出航した。日本政府の発表では、この船に乗っていたのは、乗客の朝鮮人3735人と、乗組員である日本人の将兵255人である。

船は朝鮮の釜山(プサン)港を目指していたはずだったが、舞鶴湾へと入って行った。そして24日午後5時20分頃、舞鶴市の下佐波賀(しもさばか)沖約300メートルで爆発して沈没。日本政府は死亡者数を549人と発表した。1954年9月に1155人が死亡した洞爺丸(とうやまる)事故に次ぎ、日本の海難史上で戦後2番目の大惨事である。

4,下佐波賀の集落と沈没現場
下佐波賀の集落と沈没現場

この浮島丸事件での最大の謎は、爆発原因だ。日本政府は米軍が設置した機雷への触雷だとしているが、釜山港へ行きたくない乗組員である軍人が故意に爆発させたという見方も根強くある。

また、朝鮮人たちを敗戦直後に急いで帰国させようとしたことや、船が釜山に直行せず舞鶴に入港した理由についての日本政府による説明がなく、乗船者数と死亡者数が不確かなため、それらをめぐる憶測や議論が続いてきた。

「浮島丸事件」はその後、多くの書籍やテレビ番組・映画で取り上げられ、さまざまな検証が行なわれてきた。書籍では『浮島丸事件の記録』(浮島丸殉難者追悼実行委貝会、1989年)、『浮島丸釜山港へ向かわず」(金賛汀、1994年)。テレビ番組は『爆沈』(NHK、1977年8月放送)、劇映画の『エイジアン・ブルー 浮島丸サコン』(1995年)がある。

ところがこれらが発表された後、浮島丸から救助された多数の乗客の存在が韓国で明らかになった。1996年8月15日、解放記念日の特集として韓国放送公社(KBS)が浮島丸事件の特集番組をテレビで放送。それを見た生存者たちが、韓国各地から次々と名乗り出たのだ。

■鉄道建設現場の「タコ部屋」

多くの朝鮮人が日本敗戦の直後、大湊港から浮島丸で帰国することになったのはなぜなのか。それを知るために、青森県を訪れた。

当時、「大湊警備府」は下北半島の軍事要塞化を急いで進めていた。警備府の5~6万人の将兵が、無補給でも3ヵ月間戦えるようにするための計画を立てていた。鉄道・トンネル、飛行場の滑走路や地下保管庫などの建設のために、青森県では数千人の朝鮮人が働いたという。

1936年、軍の要請を受けた国鉄は、下北半島の最北端にある大間までの鉄道建設に着手。そこで北海道と鉄路を結ぼうとしたのだ。1939年に大畑まで開通したものの、そこから先の工事は建設資材の不足により1943年に中止された。


5,二枚橋の鉄道高架橋
二枚橋に残る鉄道高架橋

この鉄道建設工事には、多くの朝鮮人労働者がたずさわった。未開通となった区間には、今もそうした労働で造られたコンクリート製のアーチ橋やトンネルがいくつも残っている。その一部は観光用に整備されているが、昨年8月の水害で撤去されたアーチ橋もある。

6,焼山隧道
「焼山隧道」の内部

次に、この鉄道建設での最大の難所といわれた「木野部(きのっぷ)隧道(ずいどう)」を見に行く。眼下には海が広がっている。トンネルの長さは、約1キロメートルあるという。

ここでの難工事を行なった瀬崎組の「木野部飯場」は、労働者を監禁して過酷な労働をさせた「タコ部屋」だった。この場所で、多くの朝鮮人労働者が事故によって死んでいる。近くには長さ443メートルの「焼山隧道」があり、中へ入ることができた。

7,大湊桟橋跡
浮島丸が出航した「大湊桟橋」跡

浮島丸が出港した大湊港は、陸奥湾に面した良港である。大湊桟橋は、ここにあった旅館の名前をとって「菊地桟橋」とも呼ばれた。沖合約1キロメートルに停泊していた浮島丸に乗船するため、桟橋から艀(はしけ)が乗客たちを運んだ。

しかし、今では、当時の面影は何も残っていない。

■穏やかな舞鶴の海

浮島丸が沈んだ舞鶴市へは何度も訪れている。舞鶴湾を一望することができる五老岳から見ると、入り組んだ地形が良く分かる。湾口が狭いために波は静かで、外海からは湾内が見えないために防御しやすく、軍港に適していた。

8,五老岳からの舞鶴湾
五老岳からの舞鶴湾

舞鶴に「海軍鎮守府」が設置されたのは1901年。日本海側の唯一の海軍基地だった。湾内には今、海上自衛隊舞鶴基地の巨大なイージス艦やミサイル艇が何隻も停泊している。今もなお重要な軍港なのだ。

浮島丸が沈没したのは、下佐波賀の沖合300メートル。岸辺に立って穏やかで美しい海を眺めていると、ここで大海難事故があり、多くの人が亡くなったことなど想像できない。

9,浮島丸殉難の碑
下佐波賀の「浮島丸殉難の碑」

舞鶴東公会堂で「第1回浮島丸殉難者追悼慰霊祭」が行なわれたのが1954年。それ以来、追悼行事が地元市民の手で続けられてきた。事件を風化させないため、1978年には下佐波賀に小さな公園を造成して「浮島丸殉難の碑」を建立した。

この高さ2.6メートルのブロンズ像は、舞鶴市内の中学校美術教師たちが制作し、多くの市民による寄附金と行政からの補助金で完成した。子どもを抱えたチマ・チョゴリ姿の女性が沈没現場を見据え、その回りを苦悶する人々が取り囲むという像だ。

■過酷な労働に怒りが爆発

アジア太平洋戦争による労働力不足を補うため、たくさんの朝鮮人が日本へ来た。中には本人の意思に反した連行もあったし、また、植民地支配によって朝鮮では生活できなくて仕事を求めて渡って来た人もいる。

私は韓国各地で、浮島丸の乗客だった生存者たちから1997年に話を聞いている。消息が判明していた70人の中から、なるべく異なる体験をしている人に会いに行った。

10,孫東培
孫東培さん

全羅北道鎮安郡(チョンラプクドチナングン)の孫東培(ソン・ドンぺ)さん(1916年生まれ)の家は、朝鮮の伝統的様式の農家だった。

「徴用されたのは1944年5月15日でした。夜中の2時に面(日本の村にあたる最下級の地方行政団体)の書記と区長ら4人がやって来ました。寝ているところを叩き起こされて、そのまま連行されたんですよ。私には3人の子どもがいて、両親の面倒も私がみていました」

鄭基永(チョン・ギヨン)さん(1927年生まれ)は、17歳の時に連行された。「私はまだ徴用される年齢ではない」と日本人の労務主任に言ったところ、「バカヤロー!」と怒鳴られて頬を叩かれた。そして、「行かなければお前を刑務所に入れて、父親を徴用するぞ」と言われた。

鄭さんは1944年12月22日に天安(チョナン)を出発し、「日本通運大湊支店」へと送られた。船から大湊線の汽車へ荷物を積み替えるのが仕事だった。

11,金泰錫が青森で撮った写真
金泰錫さんの徴用時の写真

金泰錫(キム・テソク)さん(1919年生まれ)は、徴用された時は結婚していて3歳の子どもがいた。逃げようとしたものの、警察官が見張っていたので断念。下関で乗せられた列車の中で「大湊海軍施設部」へ行くことを知らされ、海軍の三沢飛行場で働いた。

徴用されていた時に、三沢飛行場に近い古間木駅(現在の三沢駅)前の写真館で撮った写真が残っている。浮島丸の乗客たちは沈没時に荷物を失ったが、これらの写真は家族に送っていた。

同じく、三沢飛行場へ送られたのは朴載夏(パク・チェハ)さん(1923年生まれ)。飛行機を隠すための掩体壕(えんたいごう)や防空壕を掘るのが仕事だった。

12,朴載夏
朴載夏さん

「重労働なのに、1分以内で食べ終えてしまうほど食事の量が少ないんですよ。月1回の外出日には古間木駅前へ行ってうどんを何杯も食べました。後で腹痛を起こすのを承知で、20杯も食べる人さえいたほどです」

過酷な労働と約束違反に対し、怒りを爆発させる朝鮮人労働者たちもいた。忠清北道忠州(チュンチョンプクドチュンジュ)市で金昌植(キム・チャンシク)さん(1921年生まれ)と会った。

「面の兵事係が持ってきた徴用令状には、青森県の海軍施設部で働くようにとありました。三沢飛行場で整地作業をしていた時、体格の良い者だけが選ばれて岩手県の砕石場へ送られたんです。飛行場建設で使うための岩を砕くという重労働でした」

米軍による爆撃も受けた。雪の中での作業なのに、ノルマを達成できないと体罰を受けた。しかも、「ここでの作業は6ヵ月間」という約束が守られなかったのである。

「まだ雪がたくさん残っている1945年3月のことでした。みんなの不満がついに爆発したんです。事務所や食堂を叩き壊し、そこにいた日本人を半殺しにしました。盛岡から憲兵隊が30人ほどやって来て、15人くらいの仲間を連行して行きました」

日本国内で逃げ切ることは不可能なのを百も承知で、反乱を起こしたのである。朝鮮人労働者たちが置かれていたのは奴隷のような状況だったのだ。

13,青森の海
下北半島の海

1945年6月30日、秋田県の花岡鉱山で中国人労働者たちが蜂起した。「花岡事件」である。

中国から強制連行された986人は、過酷な労働や少ない食事、虐待による死者の続出に耐えかねたのだった。警察や憲兵隊などによって鎮圧され、事件後の拷問によるものも含め418人の中国人が死亡した。

下北半島で朝鮮人たちに過酷な労働をさせてきた者たちは、仕返しされないかと戦々恐々としたことだろう。その「花岡事件」から2ヵ月も経たないうちに戦争は終わった。

■朝鮮人の送還を急いだ軍参謀

日本の敗戦時に、日本国内にいた朝鮮人は約210万人。その中で青森県にいた人たちが、急いで帰国しなければならない状況に置かれていたわけではない。にもかかわらず「大湊海軍警備府」は「海軍省運輸本部」の許可を得て、8月18日には浮島丸による朝鮮人の送還を決めた。大湊だけが、朝鮮人を送り返すのを急いだのだ。

NHKは1977年8月13日、浮島丸事件を追ったドキュメンタリー番組『爆沈』を放送した。その中で浮島丸の野沢忠雄機関長は、鳥海金吾艦長が主要な乗組員に話した内容を語っている。

「暴動を起こすという、朝鮮人が。いろんな待遇改善とか、いままでどうしてワシたちをこき使ったかと。そういうことを起こすから、早いとこ、もう戦争もすんだんだから朝鮮へ送り返せ、と」

「第2復員局残務処理部」の用箋にタイプ打ちされた「輸送艦浮島丸に関する資料」(1953年12月)という日本政府の文書には、次のように記されている。

「終戦直後大湊地区に在った旧海軍軍属朝鮮人工員多数は連合軍の進駐を極度に恐れたためか帰鮮の熱望を訴えて不穏の兆しを示した」

だが「連合軍の進駐を極度に恐れた」のは、朝鮮人ではなく海軍の方だったのではないか。「大湊警備府」が防衛していた樺太では、15日以降もソ連軍と交戦状態だった。それは22日の「日ソ停戦協定」成立まで続いた。

14,サハリンの日本軍トーチカ
サハリンに残る日本軍のトーチカ

金東連(キム・ドンリョン)さん(1921年生まれ)は17日に、労働者の貸金を受け取りに菅原組へ行った。その帰りに飛行機から撒かれたビラをひろった。「陸軍は降伏したが海軍は降伏しない。ここは戦場になるから住民はみんな疎開しろ!」と書かれていた。軍内部も混乱していたのである。

こうした状況の中で、朝鮮人が集団で決起することを「大湊海軍警備府」が恐れたとしても不思議ではない。そこで、朝鮮人たちを一刻も早く追い返すために、浮島丸の出航を急いだのだろう。

「大湊海軍施設部」に徴用されていた労働者たちと、軍から土木工事を請け負った組に雇われていた労働者たちとその家族が大湊港に集まって来た。

朴載夏さんは、「三沢飛行場で働いていた朝鮮人たちは、20日朝に行き先を知らされないまま出発命令を受けたんです。その日のうちに、大湊港へ着きました」という。自らの意思で帰国を決めたのではなく、浮島丸に乗船するという選択肢しかなかった人たちもいるのだ。

家族で暮らしていた張永道(チャン・ヨンド)さん(1933年生まれ)は、「港に来る大きな船に乗れば帰国できる。それは帰国するための最後の船で、日本に残っても配給の米はもらえないそうだ」と父親から聞かされた。張さんが大湊桟橋に行くと朝鮮人たちがひしめき合い、日本刀を待った兵隊がそれを整理していた。

浮島丸は21日の出航予定だったが1日延びた。金東連さんは、「たくさんの人が乗ったので便所が足りず、船の後方に仮設便所を造るのに時問がかかったため」という。だが、遅れた理由は他にあった。朝鮮人乗客たちの知らない所で、深刻な事態が起きていたのである。

■釜山行きに反発する日本人乗組員

「海軍特設輸送艦・浮島丸」の乗組員たちは津軽海峡で、敗戦を告げる天皇の「玉音放送」を聞いた。この時の乗組員は士官14人・下士官38人・水兵203人の、合わせて255人。軍人である乗組員たちは、上陸すれば召集解除になると信じて荷物の整理を始めていた。大湊港へ戻ったのは18日。

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天皇の「大東亜戦争終結ノ詔書」(Wikipediaより)

ところがその翌日、浮島丸に釜山への出航命令が下ったのだ。当然のことながら鳥海金吾艦長をはじめとした将兵は反発。釜山港へ入港したら捕虜として捕らえられるかもしれない、と考えたのは自然だ。

『京都新開』が1985年7月に連載した「40年目の海 浮島丸爆沈」という記事の中に、乗組員だった長谷川是(なをし)さんの話がある。

「大湊(海軍)警備府の参謀が、乗組員の説得のために船に乗り込んできた。総員集合がかかり、好きなことを言えというんです。私は『陛下の御心はこれ以上国民を殺すことを望んでおられない。機雷を掃海していない日本海を航行すればやられる。御心に反する』と言いましたよ。参謀は日本刀を抜きはなった。『文句があるやつは前へ出ろ』。だれ一人として前に出るものはなかった」

乗組員たちは、釜山行きに単に反発するだけではなく行動に移した。野月美則さんは、海軍司法警察官として「大湊警備府軍法会議」に所属する上等兵曹だった。その体験が、『朝日新聞』(1993年8月25日)に掲載されている。

「野月さんによると、22日夕方、法務官(現在の検事に当たる)が『乗組員が「朝鮮に行くと、捕虜になって殺される」と船内で暴動を起こした。すぐに向かう』と、野月さんらに指示。午後7時ごろ、法務官と同僚警察官とともに浮島丸に入った。(略)船長室では、暴動の首謀者の上等兵曹が長いすに裸で寝ていた。野月さんと同僚が飛びついて手錠をかけた」

釜山港へ行きたくないため、何と反乱まで起こしていた乗組員たちがいたのだ。海軍刑法の反乱罪では「首魁(首謀者)、死刑」とされている。野月さんのリアルな話は続く。

「当時は戦時刑事特別法により軍法会議で即決裁判することができた。法務官はその場で『上官の命令に反した罪により、死刑に処す』と言い渡した。この脅しに、上等兵曹は『朝鮮行きを私にやらせてください』と嘆願、法務官は刑の猶予を申し渡した」

野月さんは、「出港のためには、どんな手段でも使えという命令が出ていたようだ」と語る。大湊警備府は仲間の将兵を脅してでも、朝鮮人を一刻も早く青森から退去させようとしたのだ。

こうして、浮島丸は出港することになった。ところが乗組員の中で、何としてでも船を釜山港へ行かせないための計画が立てられていたという。

「士官たちも朝鮮への航海は反対しておりましたからね。航海長と話し合って、エンジンや舵などの船の重要な部分を壊し、航海できない状態にしようと相談しました」(『浮島丸釜山港へ向かわず』金賛汀)

このように、機関長で少佐だった野沢忠雄さんは語っている。また上等兵曹だった神定雄さんも、浮島丸破壊計画が乗組員たちの中にあったことを具体的に語っている。

「神定雄上等兵曹:津軽海峡で機械をこわしてしまおうではないかー。船が動かなくなるんだから・・・。このことは士官はだれもわからない。

NHK記者:機関部をこわすことは簡単なんですか。

神定雄上等兵曹:・・・何時間か交代でいつも機械室に入っているからみんなわかっている」(NHK『爆沈』)

■GHQの航行禁止命令


実は22日に出航した浮島丸は、乗組員が船を航行不能にしなくても釜山港までたどり着くことはできなかったのである。

8月20日、「連合国軍総司令部(GHQ)」は日本政府へ、8月24日以降の大型船舶の航行禁止を要求。それを受けて大本営海軍軍令部は21日、「大海令(大本営海軍命令)第52号」を出したのである。

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GHQが入った第一生命館(Wikipediaより)

「八月二十四日一八〇〇以降、特ニ定ムルモノノ外、航行中以外ノ艦船ノ航行ヲ禁スル」

翌22日午後7時20分と35分の2回にわたり、海軍省運輸本部長による電報が浮島丸艦長にも打電された。

「八月二十四日一八〇〇以降一〇〇総屯以上ノ船舶ハ航行ヲ禁止セラル。其ノ時刻迄ニ目的港ニ到着スル如ク努力セヨ。到着見込ミ無キモノハ右日時迄ニ最寄り軍港又港湾ニ入港セヨ」

浮島丸は大湊港を、その命令後の22日午後10時に出港。釜山港までは850カイリ(約1574キロメートル)あり、時速12ノット(約22キロメートル)の浮島丸は約3日間かかる。釜山港へ向かっても、24日午後6時までに着くのは不可能だった。

浮島丸は釜山への最短距離の航路ではなく、日本の沿岸に沿って航行を始めた。航海の途中で「24日午後6時」を迎え、どこかの港に入らざるを得なかったからだろう。日本海側にある唯一の軍港は、「舞鶴港」である。

乗客の中には船員もいた。金福道(キム・ポクド)さん(1923年生まれ)は日本敗戦までの約3年間、日本で「永英丸」の船員として働いた。瀬戸内海で石炭を運んでいたが、1944年末になって船は海軍に徴用。乗組員は、軍属扱いでそのまま乗船した。船は北海道へ移動し、人や物資を千島列島へ2度にわたって運んだ。

17,金福道
金福道さん

「浮島丸には出港直前に乗船しました。23日に、航路がおかしいと思ったんです。釜山港へ向かうなら、陸づたいではなく最短距離を行くのが当然でした」

そして浮島丸が舞鶴港へ入ると聞いた時、「さらに人を乗せようとしている」と金さんは思った。「永英丸」が大湊港で給油した際、この港の燃料が不足していると聞いたことがなかった。だから浮島丸が途中の港に入るのは、給油以外が目的だと思ったのだ。

「出航命令が出て、いよいよ出航だということになった時、たしか士官室で艦長、航海長、私ら古参の士官2~3人、それから下士官の代表格数人が協議し、出港はするが朝鮮には行かない、どこかの日本の港に入港するということを申し合わせたんですよ」(『浮島丸釜山港へ向かわず』)

このように野沢忠雄さんは述べている。そしてNHK『爆沈』の中では、「ともかく舞鶴に入ったら朝鮮人は、舞鶴の方でなんとかしてもらおうと、兵隊たちはここでもって戦争すんだんだから解散しようと」と語っているのだ。

下北半島の朝鮮人を一刻も早く追放したい「大湊海軍警備府」は、浮島丸に出航を命じた。艦長や士官らはそれに従わざるを得なかったものの、釜山港へは行かないことを前提に船を出港させた。だが乗組員の多くを占める一般兵士たちは、「大海令」による航行禁止命令を知らず、浮島丸は釜山港へ向かっていると思っていた。

■自暴自棄になった兵士たち

8月22日午後10時。真っ暗な海へと出航した浮島丸。捕まったら軍法会議で裁かれて重罪に処せられるのを覚悟で、出港前に脱走した者が数人いたという。兵士たちの規律は、いちじるしく乱れていたのだ。

船は釜山港へ向かっていると思い込んでいる一般の兵士たちは、自暴自棄になっていた。昼間から酒を飲んで、大騒ぎをしている者もいた。金東連さんは23日に、兵士が毛布や軍服・靴を海に捨てているのを見て声をかけた。

「『釜山に着いたら、自分たちは捕虜になってしまうからだ』と言うんです。『捨てるなら売ってくれ』と言ったところ、『金をもらっても何もならない』との返事でした」

そうしたことばかりか、上官からいじめられてきた兵士たちが、下士官に報復することまで起きた。リンチを受けて、動けないほどの大けがをした者がいた。海へ投げ込まれて、行方不明になった者もいたという。こうした下士官たちは、浮島丸沈没での乗員戦死者25人に含まれているはずだ。

韓国人生存者たちから、「南憲兵」という名前を何度も聞いた。「大湊憲兵隊」に勤務したこの憲兵軍曹は、本名が白(ペク)という朝鮮人だった。憲兵として、日本で暮らす朝鮮人を監視するのが仕事だった。

張永道さんは救助後に父親から、南憲兵についての話を何十回も聞かされた。父親は南憲兵と親しかったという。

「『この船は、途中の港に入ったなら爆破される』と、船内で南憲兵から聞いたというんですよ。父が『それなら、なぜこの船に乗ったのか』と南憲兵に聞くと、『乗船してからそのことを知った』と答えたそうです」

18,金東連(左)
金東連さん(左)

金東連さんの伯父も、南憲兵と親しかった。南は伯父に「この船は釜山まで行かない。途中の寄港した所で事故が起きる」と話した。だが伯父は、その話を深刻に受け止めなかった。金さんへ教えたのは、浮島丸が大湊港を出た後だった。

金さんによれば、南はこのことを清水参謀から聞いたという。清水参謀は南憲兵が日本人だと思っていた。だが、南憲兵が自分の家族を連れて浮島丸に乗船しているのを見て朝鮮人だと知り、「事故」が起きることを教えたという。

この2人の話は伝聞である。だが、南憲兵が浮島丸乗組員の中に船の爆破計画があることを知り、それを親しい人たちへ伝えたのは間違いないだろう。

【後編】『海軍特設巡洋艦「浮島丸」爆沈事件…乗客は渦に巻かれ、海は血の色に染まった』では、最大の謎「爆発原因」について、生存者の証言と引き揚げ船体の写真をもとに検証するーー。

海軍特設巡洋艦「浮島丸」爆沈事件…乗客は渦に巻かれ、海は血の色に染まった
舞鶴湾で起きた謎多き大事件【後編】


■地獄と化した海


24日午後、浮島丸は舞鶴湾へ入って行った。停泊しようとしているのは軍港がある東港。「永英丸」の船員だった金福道さんは、その時のようすを次のように語る。

「船が(舞鶴湾の)入り江に向かった直後に、『この船は午後5時(筆者注:大本営海軍命令では6時)までに入港しなければならなくなった」との艦内放送がありました。船で知り合った金沢さんと、『入港するから甲板へ上がってみよう』と船首の甲板に出たんです」

19,沖合で浮島丸が沈没した下佐波賀
沖合で浮島丸が沈没した下佐波賀

「船は錨を下ろしました。大きな音がするので分かるんです。『どうして、桟橋から遠く離れた所に停まるのか』と思いました。錨を引き揚げて再び動き始めてから、約30分後に爆発が起きたんです。吹き飛ばされて腰を強く打ちました」

甲板にいたたくさんの乗客たちは、バラバラと海へ落ちた。船は惰性で、爆発してから約400メートル進んで沈んだ。2等兵曹だった長谷川是さんは、次のように語っている。

「艦が爆発した時、私は甲板で入港準備のための作業をしていました。そしたら突然ボカーンでしょう。吹き飛ばされて甲板にたたきつけられました。あとは無我夢中です。艦内も大混乱で、カッターを降ろす者、走り回る者、叫んでいる者、朝鮮人たちが必死で甲板まで上がろうとしている。アイゴー、アイゴーと叫んでいる女性や泣き叫ぶ子供。もう混乱の極みにありました」(『浮島丸 釜山港へ向かわず』)

「爆発で甲板にあった船倉の蓋が吹っ飛んだんでしょう。その近くにいた私は、ふと船倉の底をのぞき込んだのです。なんと水がごうごうと渦巻いているんです。その渦に朝鮮人の女・子供が巻き込まれ、必死になって手を上げて『アイゴー!』と叫んでいるんです。そして水の中に飲まれていきました。地獄でしたね・・・」(前出)

船の中は、修羅場と化した。呉相弼(オ・サンピル)さん(1922年生まれ)は、爆発時に赤ん坊を抱いていた。飛ばされて倒れている呉さんの背中の上を、たくさんの人が踏みつけて行った。「水に溺れている人たちは、互いに引っ張り合って地獄のような光景でした」と語る。

金昌植さんは、「救助の小舟に皆がしがみつくので、何隻もがひっくり返りました。海に落ちた人は、渦に巻き込まれて死んでいったんです。海は血の色で赤くなっていました」という。

■駆けつけた住民たち

沈没する浮島丸へ最初に救助に駆けつけたのは、佐波賀の住民たちだった。その一人、蓼島恵子(みしま・けいこ)さん(1924年生まれ)から話を聞いている。8月24日は、蓼島さんが塩を炊く当番だったので、浜で海水を煮詰めて塩を作っていた。兵隊に行った夫は戻っておらず、集落には女性と年寄しかいなかった。

20,蓼島恵子
体験を語る蓼島恵子さん

自宅で食事の準備をするため、作業を母親に代わってもらった。家の中へ入ろうとした時に「バーン!」という音がした。急いで浜へ戻ると、船が沈没しようとしていた。「姉さん、助けてあげて!」と隣家のおばさんが叫んだ。その女性の息子は、海軍で戦死していたのだ。

蓼島さんは、小舟を出して助けに向かった。海には重油が広がっていて、海面に浮かぶ人たちは男女が分からないほどだった。沈没する船の片側だけに人が群がっていたので、小舟は反対側へ行くように兵隊が指示していた。

2~3回往復したところで他の人と交代し、救助された人たちの世話をした。自宅の土間で火を焚いて、助かった人たちの服を乾かした。

21,浮島丸複写(沈没した状態)
マストと電探を突き出している浮島丸

船体を少しずつ沈めていった浮島丸は、爆発から約1時間後に動きを止めた。この場所の水深は17メートルと浅いため、マストと電探(電波探知機)装置を水上に突き出していた。

海岸には乗客の荷物が次々と流れ着き、その中にはたくさんの紙幣もあった。それは、帰国する朝鮮人たちの全財産だった。

李再石(イ・ジェソク)さん(1916年生まれ)は、約8年間、発破作業の技術者として働いた。その間、故郷へ一度も戻らず、ひたすら働いて約3万円を貯めた。それを入れた大型トランクは、船から持ち出すことができなかった。

助かった朝鮮人たちは、船に二度と乗りたくないため日本へ残った人もいるが、多くは祖国へと戻って行った。

「故郷に戻ると、私と一緒に徴用された人の妻が、2人の子どもを連れて訪ねて来ました。そして、『どうしてあんたは一人だけで戻って来たのか』と泣くんです。私も泣くだけで、返す言葉もありませんでした」

そのように、朴載夏さんは語った。孫東培さんや金東連さんのように、爆発時に負ったけがのため、働くことで出来ずに大変な苦労をした人たちもいる。

■「機雷」か「自爆」か

いくつもの重大な謎がある「浮島丸事件」。最大の謎は爆発原因である。

米軍機雷への「触雷」であるならば「不可抗力に起因する災難」(厚生省引揚援護庁、1950年2月28日)とすることができるかもしれない。だが乗務員である海軍兵士による「自爆」であれば、日本政府には明確な責任がある。

舞鶴湾にも多くの機雷が敷設されていた。『爆沈・浮島丸』(品田茂)に須永安朗さん(1925年生まれ)の話がある。

「この舞鶴なんかにも夜間にアメリカの爆撃機B29が飛んできて、パラシュートで機雷を落としていくのです。当時の飛行機はプロペラ機ですから、音のするほうを探照燈でずーっと追っていく。そして翌日、機雷の落ちたところを探し当てて、機雷を爆発させるということをやっていました」

『舞鶴よみうり』の1978年9月1日号に「機雷掃海に命をかけて」と題し、舞鶴湾へ米軍が投下した機雷についての記事がある。書いたのは海軍の「舞鶴防備隊」で、掃海責任者だった佐藤吾七さん。

「感応機雷には鉄船から発する磁気に応じて爆発する磁気機雷が2種、エンジンの音に感じて爆発する音響機雷が2種、それに磁気・水圧複合機雷との5種類があり、これが混用されていました。そのうえ厄介なのは、感応機雷には日限装置や回数起爆装置がついていたことです」

22,B-29爆撃機から投下されたパラシュート付きのMk26機雷(Wikipediaより)
B-29爆撃機から投下されたMk26機雷(Wikipediaより)

米軍機雷の処分は、きわめて難しかったのだ。米軍によって舞鶴周辺へ敷設された感応機雷は465個で、敗戦時までに処分できずに残ったのは約200個だったという。舞鶴湾では浮島丸のほかに8隻が触雷し、その内の4隻が沈没している。

佐藤吾七さんは浮島丸の爆発原因を、「被害の状況から見ても明らかに感応機雷に触雷したことは間違いありません」とする。だが、米軍の投下記録と機雷の機能からすればそれは疑問だ。

米軍は舞鶴湾内に、1945年6月30日~8月8日まで5回にわたって機雷を投下。回数遅動起爆装置付きの機雷は、何回目の船の通過で爆発するかを8回まで任意にセットできる。日限起爆装置によって機雷が動き始めるのは最大で10日後なので、遅くても18日頃には起動していた可能性がある。

だが機雷が起動していたとしても、24日に浮島丸が通った水路を直前まで多くの船舶が通過しているのだ。

「浮島丸沈没時、真っ先に救援船で駆けつけた梅垣障さんは、『24日特に多くの船が入港してきましたが、浮島丸は、舞鶴に入港してくる艦船が絶える直前に入港してきた最後の船です』と証言している」(『浮島丸釜山港へ向かわず』)

■爆発時に水柱は立ったのか

触雷かどうかの判断で重要になるのは、爆発時に水柱が立ったのかどうかだ。触雷ならば船外で爆発が起きるので、大量の海水が噴出して艦橋よりも高い巨大な水柱が立つという。それについての、乗客や乗組員たちの証言がある。

李鐡雨(イ・ジェソク)さん(1927年生まれ)は、「陸が見えるというので船首の甲板にいました。その時に爆発が起きたのですが、水柱は見ていません」と断言した。同じように甲板にいた朴載夏さんと張永道さんも見なかったという。乗組員の重要な話もある。

「艦橋で指揮をとっていた航海長・倭島定雄元大尉も、私(金賛汀)の『爆発時、水柱が上りましたか』という質問に、しばらく考えていたが『いや、水柱は上がらなかった』と答えた。(略)再度念を押したが、答えは同じであった」(『浮島丸釜山港へ向かわず』)

また触雷であれば、爆発は1回だけだ。張永道さんは、「爆発音は、大きな音の後に弱い音が1~2回した」と言う。この点について金東連さんは、「音は2回聞いたが、2番目は小さかった」と微妙に異なるが、爆発は1回だけではなかったようだ。

私が話を聞いた韓国人生存者12人の全員が、沈没原因を「自爆」だと断言した。自らの意思に反して連行されて過酷な労働を強いられ、乗っていた船が沈没したものの日本政府はその原因を明らかにしていないーー。そうした日本への不信から、「自爆」としか思えないのだろう。

この浮島丸事件を詳細に取材し、『浮島丸釜山港へ向かわず』(かもがわ出版)としてまとめた金賛汀さんは、舞鶴湾の米軍機雷について次のような結論を下している。

「米軍の機雷投下日、機雷性能、日本海軍の掃海活動、日本敗戦後に舞鶴に入港してきた船舶数、そして浮島丸の航路等々からみて、浮島丸が機雷で沈没する確率はきわめて少ない。いやほとんど考えられないと言える」

■引き揚げ船体の写真


浮島丸の爆発原因を特定できる「決定的な証拠」はないのだろうか。私は爆発箇所の鮮明な写真を入手し、爆破の専門家による鑑定を受けようと考えた。

軍艦として使用された「浮島丸」船体の引き揚げと遺骨収容は、日本政府の責任で実施すべきあるにもかかわらず放置され続けた。この船を所有する大阪商船は、船体を修復して再使用しようとした。

23,浮島丸複写(引揚げ船体内側のガレキ)
引き揚げられた浮島丸の内側

船体は、真ん中より少し前の位置で2つに折れていた。1950年3月、再使用の可否を調べるために、とりあえず機関室を中心とした後半部が「飯野サルベージ(飯野重工舞鶴造船所)」によって引き揚げられた。だが、使用不可能と判断されたため、前半分はそのまま放置される。

朝鮮戦争によって、鉄の価格が上昇。船体を「鉄くず」として売却するのを目的に、前半分も引き揚げることになった。死没者の遺骨収容は、あくまでも“ついで”なのだ。死没者を軽視するこの引き揚げに在日朝鮮人団体は強く反発。舞鶴地方復員残務処理部などへ、抗議行動を続けた。

24,浮島丸複写(引揚げ船体外側)
ドック内の浮島丸の外側

結局、1954年1月に船体は引き揚げられ、7月にドックへ入れられた。約70人の在日朝鮮人が舞鶴市内の寺院に泊まり込み、約2週間かけて船体内の遺骨を拾った。

この時、在日朝鮮人の団体と『国際新聞』のカメラマンが、船体を写真撮影している。私はその写真を、何枚か入手した。ただ、複写を重ねたためか不鮮明なのと、撮影者が誰なのかが分からない。

外側を撮った写真からは、船体はしっかりとしていることが分かる。2つに割れたものの、船底に大きな穴が空いているようではない。だが船底に近い位置の鉄板が、破れて大きく曲がっているという写真がある。

25,浮島丸引揚げ新聞記事
『国際新聞』の浮島丸引揚げの記事

『国際新聞』は1954年10月9日付の1面に、「海底に遺体を9年間も放置」と題した記事を掲載。そこに2枚の写真がある。ボロボロになった布らしき物と懐中時計が写った写真の説明文は「9年後やっと引揚げられた浮島丸乗員の麻の背負い袋、表面に朝鮮文字が綴られてある、右上は腐蝕した時計」とある。

26,浮島丸複写(引揚げ船体内側の遺留品))
『国際新聞』掲載の遺留品の写真

もう1枚の写真説明は「浮島丸の船底、触雷だと内側にむかって穴があくが、この写真では外側にふくれており、船内での爆発によるものとの推論もうまれてくる」としている。この掲載写真は分かりにくいが、私が入手した写真では奥の穴に向かって鉄板が曲がっているように見える。

27,浮島丸複写(引揚げ船体内側からの爆発箇所)
外へ向かって曲がっている鉄板

『国際新聞』は大阪で発行された駅売りの日刊夕刊紙だったが、会社はすでに解散。朝鮮人団体が撮影したネガは朝鮮総聯に引き継がれたが散逸してしまったとのことで、鮮明な写真は入手できなかった。

■食い違う「乗客数」

浮島丸に乗船した朝鮮人の数は、日本政府が発表しているように3735人だったのだろうか。

「船内は足が延ばせないくらい人でぎっしり」(金東連さん)、「船内に入れないので操舵室の屋根の上に乗ったが、その狭い場所だけでも何百人もいた」(金昌植さん)というように乗客であふれていた。

乗船後の乗客同士の話で、鄭基永さんは7500人、孫東培さんは1万人以上と乗客数を聞いている。「船には徴用と報国隊だけで数千人が乗った。ぜんぶで1万3000人と聞いた」(李再石さん)と言う人もいる。上等兵曹だった斉藤恒次さんは、次のように語っている。

「浮島丸に乗った朝鮮人は6000近くいたんじゃあないですか。浮島丸が青函連絡船の代替として運行した時、船底には乗客を入れないで4000名乗せたんですから。大湊から乗せた朝鮮人は船底までギッシリ詰め込みましたからね」(『浮島丸釜山港へ向かわず』)

2等兵曹だった長谷川是さんは、「8000人くらい積んだんだそうですね」(NHK『爆沈』)と述べている。

このように浮島丸の乗客数はさまざまだが、日本政府が発表している3735人よりはるかに多かったのは間違いない。では、乗客の死亡者数とされている524人は正しいのだろうか。

■帳尻合わせの「死亡者数」

日本政府は、乗船していた乗客数3735人、死者数524人という数字を、どのような根拠で出したのか公表していない。そもそも、事故調査を行なったのかどうかも不明なのだ。

浮島丸の乗組員だった3人から話を聞く機会が、1999年4月にあった。上等兵曹だった木本与一さんは、「死者524人という数字はどうかと思う」と、この数字への疑問を呈した。

救助直後の乗客たちが、仲間から教えられた死亡者数はきわめて多い。張永道さんは3000人以上、金東連さんは3500~4500人、金泰錫さんは5500人と聞いているのだ。このように乗組員と乗客たちは、日本政府発表の「524人」を否定する。

28浮島丸複写(引揚げ船体内の遺骨)
船体内から見つかった遺骨

「大腿骨が2本あればこれは1体だと。大腿骨に頭蓋骨がその辺にころがっていればこれは一体だとわかるけど、大腿骨は1本しかない。それから橈骨(とうこつ)はこれも1本しかない。ところが頭蓋骨が2つあったら、これはやっぱり2人分と見ないかんと」(NHK『爆沈』)

このように厚生省の担当者が語っている。つまり、遺骨から数えた死亡者数はまったく正確ではないのだ。

乗客の遺骨には、沈没から月日が経って船体から2度にわたって収容された遺骨と、沈没直後に収容された遺体が仮埋葬されていたものとがある。日本政府は、それらを合わせて「524人」だとしている。

だが事故直後の9月1日に「大湊海軍施設部」が作成した「浮島丸死没者名簿」には、死亡者数は乗客524人・乗組員25人となっているのだ。9月1日は、沈没からわずか8日後である。まだこの時は、死亡者の遺体が浜辺に打ち寄せられていたという。

29,浮島丸複写(引揚げ船体外側アップ)
破断面らしき船体外側

にもかかわらず、日本政府は明らかに不正確な数字を使い続けてきた。政府の発表の乗客死者数「524人」は、「死没者名簿」に合わせたまったく信憑性のない数字でしかない。

話を聞いた元乗組員の木本さんは「政府による浮島丸の扱いが不思議なんです」と言う。同席していた乗組員だった長谷川是さんは、次のように語った。

「浮島丸事件という大海難事件を放置したのは政府の怠慢です。浮島丸が爆発した原因の解明は困難ですが、政府は被害者にお詫びをすべきでした。船底で渦巻く水の中で、『アイゴー、アイゴー』と女性と子どもたちが泣き叫ぶ地獄絵のような光景を今でも夢に見るんです」

無理やり出港させられた兵士たちの中に浮島丸破壊計画があったことと、爆発時に水柱が立たずに船体の穴が外に向かって開いていることは極めて重要である。

30,浮島丸複写(火薬・弾薬庫の場所)
火薬・弾薬庫付近とされる船体内部

24日午後6時以降の航行禁止を知らない下士官か兵士の一部が、船の航行能力を破壊して釜山港へ行けないようにするため船内で爆発を起こした。ところが予想以上に破壊力が大きかったため、仲間の乗組員を含む多くの死者が出てしまった、ということではないだろうか。

■祐天寺に眠る遺骨

浮島丸の沈没から64年後に、海底で船体跡が発見された。

「第8管区海上保安本部」は2009年11月、浮島丸の船体跡を確認したと発表した。「海上保安学校」の学生が海図作成の測量実習を行なったところ、浮島丸の沈没現場付近に深さ2~3メートルの窪地を見つけた。それは、東西に長さ78メートル、幅25メートルあるという。

31,浮島丸沈没窪地
「第8管区海上保安本部」発表の船体跡図

浮島丸の船体は長さ107メートル、幅15.7メートルだった。測量では窪地中央付近の横に2メートル盛り上がった箇所が確認されており、「2つに折れた船体の形状と一致しているようにも見える」としている。

2度目の船体引き揚げから55年経過しても窪地が残っていた理由は、「海底は粘性の高い泥で覆われ、付近の海流が弱いこともあり残った」とする。この海底には、死亡した乗客たちの遺骨が残っている可能性が高いだろう。

32,祐天寺納骨堂名簿にボカシ
祐天寺の納骨堂

東京・目黒区の祐天寺には、日本軍の軍人・軍属として召集されて亡くなった朝鮮人たちの遺骨が安置されている。遺骨を保管していた厚生省が、1970年に祐天寺へ委託した。

その後、日韓の政府間交渉により、2008年から2010年まで4回にわたり、朝鮮半島南側出身者423人分の遺骨が韓国へ返還された。北側出身者の遺骨は425人分があるが、北朝鮮への返還はまったく目途が立たない。

拙稿『戦後75年、北朝鮮に眠る「日本人遺骨27000柱」をどう考えるか』参照

この祐天寺には軍人・軍属の遺骨だけでなく、浮島丸で亡くなった「280人分」の遺骨もある。前述したように、これらは個人を特定できないため返還はかなり難しい。

「日本政府は、事件の真相を明らかにして欲しい。祐天寺に親戚3人の遺骨があるが、日本政府が誠意ある対応をするまでは受け取れない」(金東連さん)

■いまだ終わらない「浮島丸事件」

私が韓国で取材したどの生存者も、日本政府への激しい怒りを表した。

「徴用して2年間もこき使った挙げ句、家まで送り届けるのが当然なのにどうして故意に船を沈めたのか」(金昌植さん)

「私たちは日本のために熱心に働いたのに、帰る途中でどうしてこんなことをしたのか。それが知りたい」(金泰錫さん)

乗船していた朝鮮人たちからすれば、自分たちを殺すために故意に船を沈めたとしか思えないのだろう。

33,沈没した浮島丸の横を通る引揚船の興安丸
沈没した浮島丸と引揚船・興安丸

「『浮島丸に乗れ』と言われなかったら、他の方法を探して自分で帰国した。何とか生き延びたものの負傷したので、帰国してから大変な苦労をした」(呉相弼さん)

「爆発で脊髄を傷つけた。帰国して5年後に手術を受け、7年間も寝ていた。そのため、持っていた土地を売って治療費に使ってしまった」(金福道さん)

1992年8月、浮島丸事件の遺族59人と生存者21人は、日本政府に約28億円の損害賠償と謝罪、そして遺骨の返還を求めて京都地裁へ提訴した。原告たちは法廷で、日本政府が朝鮮人を強制連行した挙げ句、浮島丸事件で無事に帰国させなかったことの責任を問うた。

京都地裁は、謝罪請求は却下したものの日本政府に賠償を命じた。しかし大阪高裁は原告の要求をすべて却下し、最高裁は高裁判決を支持して結審している。

韓国で浮島丸事件に大きな関心を持っているのは、生存者・遺族だけではなかった。韓国政府は2004年に、国務総理直属の国家機関として「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」を設置。委員会は2007年に、浮島丸事件について舞鶴で現地調査を実施している。

浮島丸に乗船した朝鮮人の多くは、日本の「国策」で徴用されて下北半島で働いた。帰還を命じられて大湊港へ集められて乗船し、その船が沈んだのだ。沈没原因に関係なく、この事件の責任は日本政府にあり、事件の全容を解明する義務がある。

34,ビデオカセット
北朝鮮制作の浮島丸事件の映画

爆発原因を「触雷」と結論付けている政府は、積極的な調査や関係資料の公開さえしていない。何もせずに、ひたすら沈黙を守り続けてきたのだ。沈没についての疑惑を解き明かさず“謎”のままにしてきたことが、北朝鮮や韓国から批判され続けてきた理由にもなっている。

まず、政府の責任で追悼行事を実施すべきではないか。そして、まだ海底に眠っている可能性がある遺骨の調査と収容を行なうべきだろう。

35,浮島丸殉難の碑裏側から
海に向かって立つ「浮島丸殉難の碑」

アジア太平洋戦争が終わってから、77年目の夏を迎えた。その戦争の記憶は、急速に風化している。ましてや、「浮島丸事件」への日本社会での関心はほとんど失われてしまった。

そうした中でも、この悲惨で謎多き事件を次の世代へ伝えようとする人たちがいる。浮島丸沈没地点を望む「殉難の碑」の前で、今年も「浮島丸殉難追悼集会」が8月24日午前11時から行なわれる。

(引用・資料以外の写真は筆者撮影)

もはや健在な被害女性がいない朝鮮

もはや健在な被害女性がいない朝鮮

「Wamだより」2022年7月号に執筆した記事を掲載します。

                 ◇

●故郷を望む墓地に

 一人しか通れないほどの曲がりくねった道を進むと、小さな集落を抜けてからは急な山道でした。登りつめた場所に、墓が一つだけあります。私の到着を待っていた家族たちが、法事の準備をしています。ここは朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の咸鏡南道[ハムギョンナムド]端川 (タンチョン)市。首都・平壌(ピョンヤン)から、車で2日間かかりました。

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郭金女さんの墓と家族(2017年4月11日、筆者撮影)

 ここに眠るのは、郭金女(カク・クムニョ)さん。2007年6月7日に、84歳で亡くなりました。これほど高い場所に墓を建てた理由を家族に尋ねると「ハルモニの故郷の忠清南道(チュンチョンナムド)が見えるようにとの思いから」とのこと。郭さんが私に「(南北が)統一されたら故郷へ行きたい」と語っていたことを思い出しました。

 郭さんは16歳で、全羅南道(チョンラナムド)光州(クァンジュ)の製糸工場で働き始めました。1年間経った時に事務所から呼び出され、日本人に引き渡されたのです。乗せられた列車の中で、その男が拳銃を持っているのを見ました。

列車が着いたのは、中国東北地方の牡丹江(ぼたんこう)駅。そこで20人の女性が日本軍のトラックに乗せられ、ソ連との国境にある穆棱(もくりょう)の憲兵隊へ連れて行かれました。そして1日に20~30人の将兵の相手を、極めて暴力的にさせられたのです。

●郭さんの映画制作を計画

 私は朝鮮で暮らす被害女性のドキュメンタリー映画の制作を計画。郭さんの鮮明な記憶による体験を4回聞いていた私は、彼女が暮らす端川で撮影することにしました。

980525郭金女
最初の取材時の郭金女さん(1998年5月25日、筆者撮影)

2003年4月に訪朝の準備をしていたところ、「重症急性呼吸器症候群(SARS)」の感染が中国で拡大。中国経由の平壌便は次々と運行停止に。延期するために「朝鮮日本軍性奴隷・強制連行被害者問題対策委員会(朝対委)」へ連絡すると、「郭さんの健康状態が悪く、延ばすと撮影できなくなるかも知れない」というのです。私は隔離されるのを承知で、ウラジオストクから最後の平壌便に乗りました。
地方都市での10日間の隔離が終わると、そのまま端川へ。ですが郭さんは自宅にはおらず、咸興(ハムン)の病院にガン治療のために入院していました。こうして制作したのが映画『アリラン峠を越えて』です。

●朝鮮の被害女性の状況

 朝鮮で最初に名乗り出た被害女性は李京生(リ・ギョンセン)さん(1917年生まれ)です。「過去を明らかにして楽になりたいと思い、何日も考えた末にテレビ局へ連絡しました」と私に語っています。

 朝鮮で名乗り出たのは219人で、そのうち名前と顔を明らかにしたのは46人です。私は14人を取材しています。朝鮮は、日本による植民地支配の被害者が名乗り出ることを賞賛してきました。そのため、私が名乗り出たばかりの魯農淑(ロ・ノンスク)さんを取材したのは2002年になってからです。

ですが、もはや朝鮮では話を聞くことができる被害女性は誰もいません。2017年時点で、寝たきりで話もできない状態の被害女性が地方都市にいました。残念なことに、家族の同意が得られず会うことができませんでした。

●“遺言”をいかに残すのか

朝鮮には、慰安所の建物が残っています。清津(チョンジン)市内の芳津(パンジン)の海軍慰安所と羅南(ラナン)の陸軍慰安所です。しかし老朽化が進んでおり、失われるのは時間の問題です。

 韓国では私が朝鮮で撮影した被害女性と慰安所の映像を使い、いくつものテレビ局が長いドキュメンタリー番組を制作。ネット上で、いつでも見ることができるようになっています。また私は朝鮮の被害女性の証言映像を、朝対委と韓国政府「国家記録院」へ寄贈しました。被害女性たちから託された“遺言”である歴史的な証言を、正確かつリアリティーのある形で後世へ残すためにさらなる努力が必要でしょう。

郭さんの体験の詳細は拙著『無窮花(ムグンファ)の哀しみ 〈性奴隷〉にされた韓国・朝鮮人女性たち』にあります。

写真展「平壌の人びと」 8月は3都市で開催

私の写真展「平壌の人びと」は、開催が続いています。開催を重ねるたびに内容が充実しており、A0サイズの写真パネル4枚を追加。ビデオコーナーでは、私が企画・取材・撮影してテレビで放送した番組を放送しています。

また、講談社のwebメディア「現代ビジネス」で発表したいくつかの記事を掲示するようにしました。会場に、数時間にわたって滞在される方も多くいらっしゃいます。

岡山展チラシ

岡山

 8月2日(火)~7日(日) 天神山文化プラザ/在朝被爆者の写真「棄てられた被爆者」も展示
 主催:伊藤孝司写真展岡山実行委員会   080-4325-7192

奈良展チラシ
奈良(橿原市)
 8月11日(木)~17日(水) 奈良朝鮮学園
 主催:奈良県日朝親善友好協会   0744-43-0686/090-3166-2114

愛知(名古屋市)
 8月11日(木)~14日(日) あいち平和のための戦争展/市民ギャラリー矢田
 主催:日朝芸術文化協会
 *簡易版のパネル15枚を展示

朝鮮への入国には「あと5年」

朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が「悪性ウイルス」と呼んでいる新型コロナウイルスの、国内での感染は急速に終息しているようだ。米国からのワクチンの提供の申し出に対して、「政治的目的で人道支援を申し出ている」として拒否をしている。

ただ国内では「急性腸内性伝染病」の患者が、黄海南道(ファンヘナムド)海州市(ヘジュシ)とその周辺で発生していると発表。これは、腸チフスやコレラではないかとみられている。私は、朝鮮の人びとの衛生観念はかなり高いと思うが、こうした感染症が広がるのは長らく続く国連安保理などによる制裁によって、医療体制が脆弱になっているからだろう。

7月1日の「朝鮮中央通信」は、「国家非常防疫司令部」による、新型コロナウイルスの朝鮮への流入経路の調査結果を具体的に伝えた。

070819非武装地帯 
朝鮮から見た非武装地帯(2007年8月19日撮影)

「調査の結果、4月中旬頃、江原道(カンウォンド)金剛郡(クムガングン)伊布里(イポリ)地域で首都に上京していた数人の人員の間で発熱症状が現れ始めたし、彼らと接触した人々の間で発熱患者が急増した問題と、伊布里地域で初めて発熱患者が集団的に発生した問題が提起された。(略)これに従って、金剛郡伊布里が悪性伝染病の最初の発生地域であるとの科学的な結論に達した」

この金剛郡は朝鮮の東側にあり、韓国との軍事境界線に接している。朝鮮は、徹底した防疫体制を敷いてきた。なぜ、この地域で新型コロナウイルスが発生したのだろうか。

「4月初め、伊布里で軍人のキム某(18歳)と幼稚園児のウィ某(5歳)が兵営と住民地周辺の小山で目新しい物と接触した事実が明らかになり、彼らから悪性ウイルス感染症の初期症状と見られる臨床的特徴が現れ、新型コロナウイルス抗体の検査でも陽性と判定されたことから、悪性ウイルスの感染原因について明白な見解の一致を見た」

その2人が接触したという「目新しい物」とは何なのだろうか。

「国家非常防疫司令部は、悪性ウイルスの流入経緯が実証されたことで、境界沿線地域と国境地域で風をはじめ気象現象と風船によって舞い込んだ目新しい物に警戒心を持って対し、出所を徹底的に解明し、発見即時、通報する全人民的な監視システム、申告システムを強め、各非常防疫隊が厳格に回収、処理するなど疫学的対策をいっそう強化すべきだという非常指示を発令するようにした」

このように「風船」と明言している。これは朝鮮からの脱出者たちが、韓国から飛ばした風船のことだ。朝鮮の体制崩壊を目指して活動している「脱北者団体」が飛ばした風船によって、朝鮮国内で膨大な数の新型コロナウイルス感染者が出たとなると、南北関係がさらに悪化する可能性が高い。

私が6月に得た朝鮮入国に関する情報がある。朝鮮の重要機関(具体的に聞いているが明らかに出来ない)に勤務する人の話によると、海外からの入国が再開されるには、あと5年かかるというのだ。
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プロフィール

伊藤孝司

Author:伊藤孝司
フリーランスのジャーナリストとして長年にわたりさまざまな取材を行い、数多くのメディアで発表してきました。
海外取材は約200回で、そのうち朝鮮民主主義人民共和国へは40回以上です。現在、年2~3回の訪朝をしています。
掲載写真は、引用先が非表示のものは筆者撮影です。なお、このブログに掲載している映像と文章は日本の「著作権法」と国際的な著作権条約で保護されており、無断使用はできません。転載を希望される場合は、事前にご連絡ください。

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