関東大震災での朝鮮人虐殺と安倍首相の朝鮮バッシング
かねてから思っていたことがある。安倍晋三首相が異常なほど力を入れて推し進めた朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に対する極端なバッシング。それによって変わってしまった日本社会の状況と、関東大震災で朝鮮人らが虐殺された時の状況と同じではないかということだ。
2002年9月17日、小泉純一郎首相が平壌(ピョンヤン)を訪れ、金正日(キム・ジョンイル)国防委員長と会談した。官房副長官として同行していた安倍は首相に対して、拉致被害者について「安易な妥協をするべきではない」と主張したという。金正日委員長は、日本人拉致を認めて謝罪した。
それによって、両首脳は「日朝平壌宣言」に署名。これで国交正常化に向かうはずだった。しかし、「拉致被害者5人生存8人死亡」という内容に、日本国内には大きな衝撃が走った。これをうまく“利用” したのが安倍だった。朝鮮に対する異常なバッシングが始まった。
安倍は最初に朝鮮に対する独自制裁を主張し、「万景峰(マンギョンボン)92号」の日本への入港を禁止しようとした。この船への乗船取材をした私を、安倍は街頭演説で何度も批判。また一時帰国した拉致被害者らを、朝鮮へ戻すことにも強く反対したとされる。
2006年9月に、安倍は朝鮮への強硬姿勢によって首相になった。朝鮮の核実験に対する国連安保理決議の可決のために積極的に動く。そして2012年に首相に返り咲いてからも、次々と朝鮮に対する独自制裁を実施。日朝間の「ヒト・モノ・カネ」をことごとく止めるという極端な措置にとどまらず、朝鮮学校の無償化除外などの在日朝鮮人への陰湿で異常な嫌がらせを続けた。拉致問題を、政権維持に使ったのだ。
日本社会の空気は、完全に「北朝鮮敵視」となった。安倍首相による朝鮮敵視政策が次々と実施される中で、筋違いにも日本の朝鮮学校が標的にされ、嫌がらせや脅迫を受けた。安倍首相の朝鮮政策を厳しく批判していた私は、屋外を歩く時には周囲に気をつけていた。
バッシングの対象は朝鮮にとどまらず、中国や韓国や日本で暮らすブラジル人などへと拡大した。安倍による極端な朝鮮バッシングによって、日本社会が敗戦後に少しずつ克服してきた排外主義が、一気に蘇って蔓延してしまったのだ。
日本は明治以降、海外で領土を戦争や武力を背景にして次々と獲得。台湾(1895年~)・南「樺太」(1905年~)・朝鮮(1910年~)・「南洋群島」(1914年~)での統治において、そこで暮らす人々を「2等国民」「3等国民」として扱って差別した。
朝鮮半島を戦場とした日清戦争と日露戦争では、朝鮮人に対する迫害と殺りくを繰り返した。植民地支配や侵略のためには、そこで暮らす人々を人間として扱わない排外主義政策が不可欠だったのだ。

都立横網町公園の「朝鮮人犠牲者追悼碑」(2023年7月1日撮影)
そうした日本の状況の中で、1923年9月1日を迎える。この関東大震災での死者・行方不明者は10万5000人。「社会主義者と朝鮮人が放火し井戸に毒を入れた」というデマがすぐに拡大。3日には「内務省警保局」が「朝鮮人は各地に放火し爆弾を所持し放火する者あり。厳重なる取り締まりを加えられたし」との電文を海軍船橋送信所から各地方長官へ送った。これが行政機関や新聞などで拡散した。
政府がデマを否定しなかったため、殺害を容認する空気がつくられた。各地で自警団が結成されたが、その中には地域の警察が主導して組織されたものもあった。
デマを信じた自警団や警察・軍が多数の朝鮮人・中国人と社会主義者を虐殺。陸軍の中には、混乱に乗じて社会主義者を殺害しようとする動きがあり、憲兵隊の甘粕正彦らによって大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥である橘宗一らが殺害された。
「内閣府」中央防災会議が2008年に「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書を公表。関東大震災での虐殺事件について「加害者の形態は官憲によるものから、官憲が保護している被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様」とし、その死者は「関東大震災による死者数の1〜数パーセントにあたる」と推計している。つまり約1000人から数千人だと考えられる。
朝鮮に対する国を挙げての異常なバッシングに、メディアや社会が批判どころか検証さえしない日本。2020年には「川崎市ふれあい館」に、「在日韓国人をこの世から抹殺しよう」と書かれたハガキが届いた。翌年には、「名古屋韓国学校」や京都府宇治市のウトロ地区の家屋が放火された。インターネット上には、在日コリアンを標的としたデマやヘイトクライムが横行している。
関東大震災では、善良な市民がデマを信じて次々と朝鮮人たちを殺害した。そのことに正面から向き合ってこなかった日本社会は、再び排外主義の蔓延を許してしまった。在日朝鮮人などへの極端な攻撃にとどまらず、朝鮮や中国などへの軍事行動さえいとわない危険な状況になりつつある。
(「日本と朝鮮 愛知版」2023年8月号と同時に掲載)
2002年9月17日、小泉純一郎首相が平壌(ピョンヤン)を訪れ、金正日(キム・ジョンイル)国防委員長と会談した。官房副長官として同行していた安倍は首相に対して、拉致被害者について「安易な妥協をするべきではない」と主張したという。金正日委員長は、日本人拉致を認めて謝罪した。
それによって、両首脳は「日朝平壌宣言」に署名。これで国交正常化に向かうはずだった。しかし、「拉致被害者5人生存8人死亡」という内容に、日本国内には大きな衝撃が走った。これをうまく“利用” したのが安倍だった。朝鮮に対する異常なバッシングが始まった。
安倍は最初に朝鮮に対する独自制裁を主張し、「万景峰(マンギョンボン)92号」の日本への入港を禁止しようとした。この船への乗船取材をした私を、安倍は街頭演説で何度も批判。また一時帰国した拉致被害者らを、朝鮮へ戻すことにも強く反対したとされる。
2006年9月に、安倍は朝鮮への強硬姿勢によって首相になった。朝鮮の核実験に対する国連安保理決議の可決のために積極的に動く。そして2012年に首相に返り咲いてからも、次々と朝鮮に対する独自制裁を実施。日朝間の「ヒト・モノ・カネ」をことごとく止めるという極端な措置にとどまらず、朝鮮学校の無償化除外などの在日朝鮮人への陰湿で異常な嫌がらせを続けた。拉致問題を、政権維持に使ったのだ。
日本社会の空気は、完全に「北朝鮮敵視」となった。安倍首相による朝鮮敵視政策が次々と実施される中で、筋違いにも日本の朝鮮学校が標的にされ、嫌がらせや脅迫を受けた。安倍首相の朝鮮政策を厳しく批判していた私は、屋外を歩く時には周囲に気をつけていた。
バッシングの対象は朝鮮にとどまらず、中国や韓国や日本で暮らすブラジル人などへと拡大した。安倍による極端な朝鮮バッシングによって、日本社会が敗戦後に少しずつ克服してきた排外主義が、一気に蘇って蔓延してしまったのだ。
日本は明治以降、海外で領土を戦争や武力を背景にして次々と獲得。台湾(1895年~)・南「樺太」(1905年~)・朝鮮(1910年~)・「南洋群島」(1914年~)での統治において、そこで暮らす人々を「2等国民」「3等国民」として扱って差別した。
朝鮮半島を戦場とした日清戦争と日露戦争では、朝鮮人に対する迫害と殺りくを繰り返した。植民地支配や侵略のためには、そこで暮らす人々を人間として扱わない排外主義政策が不可欠だったのだ。

都立横網町公園の「朝鮮人犠牲者追悼碑」(2023年7月1日撮影)
そうした日本の状況の中で、1923年9月1日を迎える。この関東大震災での死者・行方不明者は10万5000人。「社会主義者と朝鮮人が放火し井戸に毒を入れた」というデマがすぐに拡大。3日には「内務省警保局」が「朝鮮人は各地に放火し爆弾を所持し放火する者あり。厳重なる取り締まりを加えられたし」との電文を海軍船橋送信所から各地方長官へ送った。これが行政機関や新聞などで拡散した。
政府がデマを否定しなかったため、殺害を容認する空気がつくられた。各地で自警団が結成されたが、その中には地域の警察が主導して組織されたものもあった。
デマを信じた自警団や警察・軍が多数の朝鮮人・中国人と社会主義者を虐殺。陸軍の中には、混乱に乗じて社会主義者を殺害しようとする動きがあり、憲兵隊の甘粕正彦らによって大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥である橘宗一らが殺害された。
「内閣府」中央防災会議が2008年に「災害教訓の継承に関する専門調査会」報告書を公表。関東大震災での虐殺事件について「加害者の形態は官憲によるものから、官憲が保護している被害者を官憲の抵抗を排除して民間人が殺害したものまで多様」とし、その死者は「関東大震災による死者数の1〜数パーセントにあたる」と推計している。つまり約1000人から数千人だと考えられる。
朝鮮に対する国を挙げての異常なバッシングに、メディアや社会が批判どころか検証さえしない日本。2020年には「川崎市ふれあい館」に、「在日韓国人をこの世から抹殺しよう」と書かれたハガキが届いた。翌年には、「名古屋韓国学校」や京都府宇治市のウトロ地区の家屋が放火された。インターネット上には、在日コリアンを標的としたデマやヘイトクライムが横行している。
関東大震災では、善良な市民がデマを信じて次々と朝鮮人たちを殺害した。そのことに正面から向き合ってこなかった日本社会は、再び排外主義の蔓延を許してしまった。在日朝鮮人などへの極端な攻撃にとどまらず、朝鮮や中国などへの軍事行動さえいとわない危険な状況になりつつある。
(「日本と朝鮮 愛知版」2023年8月号と同時に掲載)
朝鮮も批判する福島汚染水放出
朝鮮も批判する福島汚染水放出
―IAEA「安全基準」はどのように決められたのかー
日本政府は、東京電力福島第1原発の汚染水の海洋放出を近く開始しようとしている。朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の「朝鮮中央通信」は7月9日、放出計画に関して談話を配信した。
海洋放出を「徹底的に阻止・破綻させるべき」とし、朝鮮の核開発を非難してきた「国際原子力機関(IAEA)」のグロッシ事務局長に対し、「主権国家の合法的な権利行使に言いがかりをつけていた」と批判。そして「生命の安全と生態環境を危険に陥れる」海洋放出を擁護することは、「極端なダブルスタンダードだ」と非難した。
IAEAが出した報告書は、トリチウム汚染水は「国際的な安全基準に合致」しており、放射能が人体と環境に与える影響はわずかとしている。日本政府はこれによって、海洋放出のお墨付きを得たと盛んに喧伝している。
私は、日本・韓国・朝鮮において多くの被爆者のインタビューを行ない、アジア太平洋の国々で原発に関する取材をしてきた。その中で、日本政府が主張する放射線から人を守るための「安全基準」に疑問を抱いた。
1957年に、米国主導で設立されたIAEA。そのIAEAの「国際的な安全基準」なるものは、どのようにして決められたのだろうか。

広島の原爆ドーム(2009年4月1日撮影)
世界中の原発での放射線防護基準は、広島と長崎で「原爆傷害調査委員会(ABCC)」が行なった被爆者調査データを元に作成された。1947年、米国トルーマン大統領の命令によってABCCが広島と長崎に設置された。広島・長崎への原爆投下を命じたのもこの大統領である。
資金提供と事実上の管轄をしたのは、核兵器開発をした「陸軍マンハッタン工兵管区」から移管した「米原子力委員会」。当時、ソ連との対立が深まりつつあった。
「ABCCの医学調査結果は科学者にとって、また米国における軍事・民間防衛計画にとって重要な意味を持つ」とこの委員会が表明したように、想定される核戦争での自国の軍人・民間人の放射線被害を推定するために設けた研究機関だった。
広島・長崎の被爆者約9万3000人と非被爆者約2万7000人を、比較しながら死因の追跡調査などを行なってきた。ABCCは1975年に、日米合同の「放射線影響研究所」に改組されたが、事業内容の基本は変わっていない。
そもそもABCCには被爆者を治療するという目的はなく、被爆者はデータ収集の対象としてのみ扱われた。ABCCからの出頭命令を断ったところ、「軍法会議にかける」と言われたため採血に応じた被爆者もいた。その際に通訳は「日本は(戦争に)負けたのだから仕方ない」と言ったという。米国は、被爆者たちをモルモットのように扱ったのである。
そうした調査方法だけでなく、調査内容にも大きな問題がある。ABCCは原爆投下直後の放射線による影響の調査に重点を置いたため内部被曝を無視した。その理由は米国が、「核兵器は破壊力があるが、苦しみを与え続ける非人道的な兵器ではない」というイメージ作りをしていたからだという。
ABCCによる被爆者調査と、米国ネバダ砂漠での核実験で兵士を被爆させてのデータとを合わせ、1965年に「T65D」という放射線量評価方式が作られた。核兵器製造や原発運転のためには、作業員が浴びる被曝線量を推定するための基準が必要だったからだ。

福島朝鮮初級学校での除染作業(2011年9月11日撮影)
この基準は「放射線影響研究所」になってからの1986年に「DS86」、2002年に「DS02」へと修正されたが、原爆投下直後の初期放射線による外部被曝を重視し、残留放射線による内部被曝を極めて軽視する基準であることに変わりはなかった。
米国は戦後すぐ、原爆製造のための「マンハッタン計画」を行なった英国・カナダと共に、開店休業状態だった「国際X線およびラジウム防護諮問委員会」の再建に着手。そうして1950年に誕生した「国際放射線防護委員会(ICRP)」は、委員の3分の2をこの3カ国が占めた。
米国主導の下で設立されたIAEAや、国際機関の安全規準や日本など各国による規準は、このICRPの放射線防護基準が基礎になっているのだ。
福島第1原発から放出される膨大な量のトリチウム汚染水が「安全」だとするIAEAの「安全基準」は、原発を推進しようとする勢力が設定した都合の良い基準でしかない。
福島第1原発と同じように、全国の原発の排水口からもトリチウムが海水で薄められて放出されている。その大量の排水は温かいので、排水口付近には魚が集まり多くの人が釣りをしている。しかし某電力会社の広報担当者が私に、「原発で働く従業員は、決してそこで釣りをしない」と小声で語ったことがある。
―IAEA「安全基準」はどのように決められたのかー
日本政府は、東京電力福島第1原発の汚染水の海洋放出を近く開始しようとしている。朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の「朝鮮中央通信」は7月9日、放出計画に関して談話を配信した。
海洋放出を「徹底的に阻止・破綻させるべき」とし、朝鮮の核開発を非難してきた「国際原子力機関(IAEA)」のグロッシ事務局長に対し、「主権国家の合法的な権利行使に言いがかりをつけていた」と批判。そして「生命の安全と生態環境を危険に陥れる」海洋放出を擁護することは、「極端なダブルスタンダードだ」と非難した。
IAEAが出した報告書は、トリチウム汚染水は「国際的な安全基準に合致」しており、放射能が人体と環境に与える影響はわずかとしている。日本政府はこれによって、海洋放出のお墨付きを得たと盛んに喧伝している。
私は、日本・韓国・朝鮮において多くの被爆者のインタビューを行ない、アジア太平洋の国々で原発に関する取材をしてきた。その中で、日本政府が主張する放射線から人を守るための「安全基準」に疑問を抱いた。
1957年に、米国主導で設立されたIAEA。そのIAEAの「国際的な安全基準」なるものは、どのようにして決められたのだろうか。

広島の原爆ドーム(2009年4月1日撮影)
世界中の原発での放射線防護基準は、広島と長崎で「原爆傷害調査委員会(ABCC)」が行なった被爆者調査データを元に作成された。1947年、米国トルーマン大統領の命令によってABCCが広島と長崎に設置された。広島・長崎への原爆投下を命じたのもこの大統領である。
資金提供と事実上の管轄をしたのは、核兵器開発をした「陸軍マンハッタン工兵管区」から移管した「米原子力委員会」。当時、ソ連との対立が深まりつつあった。
「ABCCの医学調査結果は科学者にとって、また米国における軍事・民間防衛計画にとって重要な意味を持つ」とこの委員会が表明したように、想定される核戦争での自国の軍人・民間人の放射線被害を推定するために設けた研究機関だった。
広島・長崎の被爆者約9万3000人と非被爆者約2万7000人を、比較しながら死因の追跡調査などを行なってきた。ABCCは1975年に、日米合同の「放射線影響研究所」に改組されたが、事業内容の基本は変わっていない。
そもそもABCCには被爆者を治療するという目的はなく、被爆者はデータ収集の対象としてのみ扱われた。ABCCからの出頭命令を断ったところ、「軍法会議にかける」と言われたため採血に応じた被爆者もいた。その際に通訳は「日本は(戦争に)負けたのだから仕方ない」と言ったという。米国は、被爆者たちをモルモットのように扱ったのである。
そうした調査方法だけでなく、調査内容にも大きな問題がある。ABCCは原爆投下直後の放射線による影響の調査に重点を置いたため内部被曝を無視した。その理由は米国が、「核兵器は破壊力があるが、苦しみを与え続ける非人道的な兵器ではない」というイメージ作りをしていたからだという。
ABCCによる被爆者調査と、米国ネバダ砂漠での核実験で兵士を被爆させてのデータとを合わせ、1965年に「T65D」という放射線量評価方式が作られた。核兵器製造や原発運転のためには、作業員が浴びる被曝線量を推定するための基準が必要だったからだ。

福島朝鮮初級学校での除染作業(2011年9月11日撮影)
この基準は「放射線影響研究所」になってからの1986年に「DS86」、2002年に「DS02」へと修正されたが、原爆投下直後の初期放射線による外部被曝を重視し、残留放射線による内部被曝を極めて軽視する基準であることに変わりはなかった。
米国は戦後すぐ、原爆製造のための「マンハッタン計画」を行なった英国・カナダと共に、開店休業状態だった「国際X線およびラジウム防護諮問委員会」の再建に着手。そうして1950年に誕生した「国際放射線防護委員会(ICRP)」は、委員の3分の2をこの3カ国が占めた。
米国主導の下で設立されたIAEAや、国際機関の安全規準や日本など各国による規準は、このICRPの放射線防護基準が基礎になっているのだ。
福島第1原発から放出される膨大な量のトリチウム汚染水が「安全」だとするIAEAの「安全基準」は、原発を推進しようとする勢力が設定した都合の良い基準でしかない。
福島第1原発と同じように、全国の原発の排水口からもトリチウムが海水で薄められて放出されている。その大量の排水は温かいので、排水口付近には魚が集まり多くの人が釣りをしている。しかし某電力会社の広報担当者が私に、「原発で働く従業員は、決してそこで釣りをしない」と小声で語ったことがある。
北朝鮮の知られざる「広島・長崎の被爆者」たち
講談社WEBメディア『現代ビジネス』 (2023年8月1日)に執筆した記事を掲載する。
◆
[前編] 北朝鮮の知られざる「広島・長崎の被爆者」たちが“自国の核開発”を認めざるを得ない悲しいジレンマ
■さらに進んだ核・ミサイル開発
7月27日は、朝鮮戦争休戦協定の締結70年周年だった。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では「戦勝記念日」としている。
この記念行事への参加のため、中国全人代の李鴻忠副委員長とロシアのセルゲイ・ショイグ国防相が訪朝。金正恩(キム・ジョンウン)総書記と共に参観した夜間の軍事パレードには、固体燃料式の大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星(ファソン)18」が登場した。

軍事パレードの「火星18」(「朝鮮中央通信」2023年7月28日)
この最新のICBMは7月12日に2回目の発射実験が行なわれ、最高高度6648.4キロまで上昇、距離1001.2キロを74分51秒間飛行して目標水域に正確に着弾したとする。4月13日に打ち上げられた「火星18」と比較すると、さらに性能が向上している。
北朝鮮が国力を集中して弾道ミサイルを開発する理由は、米国全土に複数の小型核弾頭を打ち込む能力を得るためだ。そのことは、米国からの軍事攻撃を防ぐ最大の防御だという。「ストックホルム国際平和研究所」の2023年6月発表の報告書では、北朝鮮の核兵器数は前年から5発増えた30発と推定している。
世界で核兵器を保有しているのは9ヵ国。「核拡散防止条約(NPT)」によって核保有が認められているロシア・米国・英国・フランス・中国。そしてインド・パキスタン・イスラエルはNPTに加わらず、北朝鮮は2003年に脱退。国際社会は現在、インド・パキスタン・イスラエルの核を、なし崩し的に “容認”している。

金正恩総書記と核弾頭(「朝鮮中央通信」2023年3月28日)
北朝鮮が多数の核兵器を保有しているのは、間違いない事実である。米国とその同盟国である日本・韓国は北朝鮮の核保有を認めず、北朝鮮の「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」にこだわり続けている。そのことが、北朝鮮の「核・ミサイル問題」が進展しない理由になっている。
その北朝鮮には、広島・長崎で被爆した人たちが暮らす。私の北朝鮮取材43回のうち被爆者と会ったのは14回で、20人から話を聞いている。6回の核実験と、ICBM「火星18」などの弾道ミサイルの発射実験を次々と行なっている北朝鮮。そうした状況の中で北朝鮮にいる被爆者(在朝被爆者)たちは今、何を思っているのだろうか。
■外国人の被爆者たち
米国が、広島と長崎に原子爆弾を投下してから今年で78年。わずか2発の爆弾によって数十万人が被爆。広島市と長崎市が1976年に国連へ提出した資料で、1945年12月までの原爆による死者数を、広島市は約14万人、長崎市は約7万人としている。
これらの原爆によって、日本人だけでなく多くの国の人たちも被爆した。米国やカナダの日系人被爆者は、アジア太平洋戦争が始まる前に日本へ里帰りしていて被爆。ブラジル・ペルー・ボリビアで暮らす日本人被爆者は、戦後に移住した人だ。それ以外には、中国・台湾や東南アジア諸国からの留学生、オランダ・英国・米国などの連合国軍捕虜もいる。

長崎にあった三菱徴用工の「木鉢寮」(1984年11月1日撮影)
もっとも人数が多かったのが朝鮮人で、日本による過酷な朝鮮植民地支配で生活できなくなって日本へ渡ってきたり、徴用や徴兵されて自らの意思に反して広島・長崎にいた人である。
朝鮮人被爆者の数は、広島での被爆者約42万人のうちの約5万人、長崎での約27万人のうちの約2万人にもなる。そのうち死亡した朝鮮人は、広島が約3万人、長崎が約1万人だという。

広島の韓国人原爆犠牲者慰霊祭(2009年8月5日撮影)
日本による朝鮮植民地支配がなければ、これほど多くの朝鮮人が被爆して死亡することはなかった。日本人にとってこの被爆は、米国から受けた「被害」である。だが、被爆した朝鮮人にとってはその意味はまったく異なる。
生き残った朝鮮人で帰国したのは、広島からが約1万5000人、長崎からは約8000人。そして戻った先は、朝鮮半島の南側へは約2万人、北側へは約3000人と推測されている。
私は1985年から、韓国で被爆者の取材を始めた。この取材は韓国にとどまらず、1998年からは北朝鮮で暮らす被爆者にも会いに行くようになった。
■まだ息がある人も火葬に
平壌(ピョンヤン)市だけでなく、地方都市にも被爆者たちは暮らしてきた。在朝被爆者は1959年12月から始まった在日朝鮮人の帰国事業で渡った人ばかりなので、帰国者が多く暮らす場所には被爆者も多い。

金満玉さん(2015年8月5日撮影)
平壌市から南西に約50キロメートルの、港湾都市・南浦(ナムポ)市。ここにも被爆者たちがいる。金満玉(キム・マンオク)さんは1944年12月生まれ。広島で被爆した時の様子は、両親から後に聞かされた。私の質問に、流暢な日本語で答えた。

8時15分に撮影した広島の原爆ドーム(2008年7月29日撮影)
「原爆が投下された時、広島の古市にあった親戚の家に一家で居候をしていました。8月6日、真っ黒なきのこ雲が湧き上がるのを見た母は、私を背負って山へ逃げました。そこで油の塊のような大きな灰を浴びたそうです。
動員された父は、大きな寺へ運ばれて来るたくさんの死体の火葬をしました。死体といっても、まだ息がある人もいたとのことです。そして母も、私を負ぶったままで負傷者の看護や包帯の洗濯をしました」
金さん親子は、こうして被爆してしまった。1960年に、朝鮮総聯の活動家だった父親だけを残して一家は帰国。父親の帰国は、10年以上経ってから。その際に「無償治療を受けられる祖国では必要ない」と考えて、取得していた「被爆者健康手帳」を捨ててしまった。
■在外被爆者たちの闘い
米国は広島・長崎への原爆投下によって、人類の歴史において未曾有といえる民間人への無差別大量殺戮を行なった。その米国に対し日本政府は、被爆者に代わって謝罪と賠償を要求するべきだった。ところが1951年の「サンフランシスコ講和条約」で、連合国に対する請求権を放棄してしまったのである。
その結果、日本政府は広島・長崎で被爆したすべての人々に対し、補償と援護を実施する責務を負うことになった。しかし実際には日本政府は、被爆者への補償は拒否し、援護措置だけを実施している。
1994年12月に制定された「被爆者援護法」によって、現在では在日コリアンを含む日本にいる被爆者は、「被爆者健康手帳(以下、手帳)」を取得すれば健康管理手当などを受給でき、医療費も支給される。その対象者は、韓国1988人・米国611人・ブラジル84人・カナダ28人・台湾11人・その他63人の2785人(厚生労働省、2021年3月現在)。死亡する被爆者が増えるのに伴い、この人数も減少している。
こうした外国で暮らす被爆者(在外被爆者)たちへの「被爆者援護法」の適用は、日本政府が自発的に行なったのではない。1967年7月、韓国の被爆者たちは「韓国原爆被害者援護協会」(1971年に韓国原爆被害者協会)を結成し、米国と日本に補償を求めて運動を開始した。

韓国原爆被害者協会を訪れた日本の調査団(1985年3月17日撮影)
私は1985年に、被爆者取材のために初めて韓国へ行った。被爆者たちは、軍事政権下のさまざまな制約の中で積極的に活動をしていた。だが日本政府は補償には応じず、1990年5月の日韓首脳会談において、補償に代わる措置として医療支援基金40億円の支払いを決めた。しかしこれは、日本における被爆者援護と比べあまりにも少ない金額だった。
韓国の被爆者たちは日本政府に、日本の被爆者が受けているのと同じ援護を求めるようになる。韓国を中心として北米・南米の日系人被爆者も加わり、在外被爆者への被爆者援護法の全面適用を求める裁判を次々と起こした。それらは、ことごとく勝訴したのである。
その結果、手帳を取得すればどの国で暮らしていても、日本の被爆者と同じ援護が受けられるようになった。在外被爆者は日本の被爆者と同じ援護を、長年にわたる闘いによってようやく獲得したのである。こうした援護措置は、被爆による後遺症で苦しむ被爆者には大きな助けとなっている。
私は長年にわたり、在日コリアンと韓国人の被爆者取材をしてきた。日本政府による在外被爆者への援護措置が次第に進んでいくのを見ていて、在朝被爆者との格差が広がっていくことが気になり始めた。在朝被爆者だけが、日本政府からの補償や援護などをまったく受けていない“棄てられた被爆者 “になってしまったからである。
■見つけ出された在朝被爆者
北朝鮮の被爆者が韓国の被爆者と大きく異なるのは、1959年12月から始まった北朝鮮への帰国事業による帰国者であることだ。
今も酷い呼吸障害で苦しむ沙里院(サリウォン)市の鄭君淑(チョン・グンスク)さんのように、北朝鮮での無償治療を受けるのを目的に帰国した人もいる。この頃の、在日コリアンの生活保護受給者は約8万1000人。日本で医療を受けたり進学ができないため、帰国を望んだ人も多い。

鄭君淑さん(2011年11月1日撮影)
ところが北朝鮮政府は、自国に被爆者がいることを長らく認めてこなかった。その存在が明らかになり組織化されるようになったのは「在日本朝鮮人被爆者連絡協議会」の会長だった李実根(リ・シルグン)さんの奮闘の結果だった。
自らも広島で被爆した李さんは北朝鮮への帰国事業の際、帰国者たちを広島から乗船港である新潟へ送り届ける仕事をした。そのため、帰国者の中に多くの被爆者がいることを知っていたのだ。

金容淳書記に調査依頼をする李実根さん(『PRIDE共生への道』李実根)
1989年に訪朝した李さんは、10人の被爆者を探し出す。1992年6月には1万枚の被爆者調査用紙を持参し、朝鮮労働党の金容淳(キム・ヨンスン)書記に調査の実施を直談判した。それによって北朝鮮で初の被爆者実態調査が行なわれ、1995年2月には「反核平和のための朝鮮被爆者協会」が結成された。そして協会は会員に、独自の被爆者手帳を発行した。
■深刻な在朝被爆者の健康状態
現在、在朝被爆者で「被爆者健康手帳」を持っていることを明らかにしているのは、朴文淑(パク・ムンスク)さんだけ。2歳の時に長崎市で被爆している。北朝鮮の被爆者代表として参加した1992年の「原水爆禁止世界大会」の際に長崎県で取得した。

被爆者健康手帳を持つ朴文淑さん(1998年6月1日撮影)
私は1998年から、「反核平和のための朝鮮被爆者協会」の副会長である朴さんから、たびたび話を聞いてきた。最初に会った頃は「わが国は核兵器を造る意思も能力もない」と、政府と同じ主張をしていた。
ところが2006年10月、北朝鮮は初の核実験を実施。それについての考えを聞くと「米国の脅威があるために仕方がない」と答えたのである。被爆者であっても、自国が置かれている状況からすれば核武装は必要というのである。その時の朴さんは、苦渋の表情をしていた。そして協会名からは「反核平和のための」という文字が消えた。

在朝被爆者の調査報告書
北朝鮮は、被爆者実態調査を何度か実施している。「朝鮮被爆者協会」は、「住所案内所」「各級人民委員会」、被爆者治療と健康診断を実施している「医学科学院放射線医学研究所」などと連携して調査を実施。
2007年末の発表では、被爆者1911人を確認したものの1529人がすでに死亡しており、健在な人は382人であることが判明した。2018年の調査では、健在な人は60人しかいなかった。急速に亡くなっているのだ。
[後編] 北朝鮮に暮らす「棄てられた被爆者」たちの絶望感…日本政府が「被爆者援護法」を適用せず放置し続けるのはなぜか
■拉致問題で止まった日本政府の動き
在朝被爆者に関する日本政府の動きは、極めて少ない。1990年から、「原水爆禁止世界大会」への参加のために在朝被爆者が入国することを許可。2000年3月には小渕恵三首相が、来日した「朝鮮被爆者実務代表団」と会っている。
その際、「今世紀に起きたことは今世紀中に片をつけたい」として、在朝被爆者問題の早期解決の必要を認めた。この時、被爆者治療に当たっている北朝鮮の医師が「広島赤十字・原爆病院」などで研修を受けた。韓国の被爆者へ実施したのと同じように、被爆者を日本へ招いての検査・治療や、北朝鮮の医師への被爆者治療の教育を日本で行なうことなどを検討していたようだ。
2001年3月には、外務省・厚生労働省による日本政府調査団が平壌へ派遣された。被爆者協会への登録者数が1353人(2000年末現在)で、そのうち健在な人が928人であることを確認。日本政府はこの結果を踏まえ、在朝被爆者の実態把握後に援護内容を検討することになった。
そして2003年10月、在朝被爆者への対応について問われた坂口力厚生労働大臣は「被爆者の問題は国と国との問題ではなく、日本と被爆者の問題。したがってそこに差はない」と衆議院厚生労働委員会で答弁。国交がなくても、在朝被爆者への援護が実施可能であることを明らかにした。在朝被爆者に対する日本政府の対応は、確実に進んでいった。

平壌の市街地(2017年8月5日撮影)
「日本弁護士連合会」は2002年6月に調査団を平壌へ派遣し、「在朝被爆者に関する調査報告」を発表。そして2005年7月には「在外被爆者問題に関する意見書」を日本政府へ提出した。その中に次のような提言がある。
「朝鮮民主主義人民共和国在住の被爆者については、担当者を派遣し、在外被爆者の援護施策に関する情報を提供したり、被爆者との面談を行うことなどを通じて、被爆者健康手帳の交付や健康管理手当等の支給などの申請が現実に可能となるようにすべきである。被爆者の治療に必要な専門の医療施設が十分に整備されていない朝鮮民主主義人民共和国などの国については、専門の治療施設の設置のための支援についても検討すべきである」
このように、在朝被爆者についての社会的関心と問題を前進させようという機運が高まっていった。ところが、である。2002年9月の日朝首脳会談で明らかになった日本人拉致などによって、日朝関係は次第に悪化。2006年10月には、日本政府は北朝鮮への独自制裁を開始した。これによって、日本政府の在朝被爆者に対する動きに大きなブレーキがかかった。
筆者がインタビューした在朝被爆者の中には、「日本には何の期待もしていない」と言う人が多かった。日本からの外務省・厚生労働省調査団や多くの民間団体に対して、数え切れないほどの働きかけをしたにもかかわらず、何も変わらなかったという失望感が強いからだという。
■「被爆した証が欲しい」
平壌で暮す李桂先(リ・ゲソン)さんは、1941年9月に広島で生まれた。両親は民族教育に熱心で、李さんは小学校から高校まで朝鮮学校に通った。そして1958年に始まった北朝鮮への帰国を求める運動に、李さんも参加した。
「祖国で勉強し、少しでも祖国の建設の力になるよう、お父さんの代わりに行ってくれ」
父親からこのように言われた李さんは、家族の中でただ1人、1960年7月の帰国船に乗った。その時は誰もが、日朝間の自由な往来がすぐにでも実現すると思っていたからだ。
この李桂先さんと、私が初めて会ったのは2006年3月。まず、彼女の両手の指ごとに巻かれた包帯が目についた。「どういうわけか指の皮がしょっちゅう剥がれ、薬を塗って包帯しないと血がにじむんです」と語った。皮が剥ける前には、頭髪が抜けて坊主頭のようになったという。

指に包帯をした李桂先さん(2010年5月9日撮影)
北朝鮮では地域ごとに担当医がおり、各家庭を巡回している。李さんはその医師から病院へ行くように勧められているという。しかし、「検査すると新しい病気が見つかるので、怖くて病院へ行きたくないんです」と李さんは言う。

朝鮮被爆者協会の手帳を持つ朴文淑さん(2009年10月9日撮影、一部加工)
北朝鮮では医療費は「無償」になっている。しかし医薬品は慢性的に不足し、医療機器は老朽化している。そうした中で朝鮮被爆者協会発行の手帳があれば、被爆者は医療機関で優先的に治療を受けることができるという。これは、被爆者にとっては大きな意味があるようだ。
2009年4月、李さんに同行し「放射線医学研究所」へ行った。ここで広島・長崎の被爆者への治療も行なっている。李さんを診察した後、被爆者担当のチョ・ウォンエ医師は次のように語った。

検査を受ける李桂先さん(2009年4月17日撮影、動画より、一部加工)
「被爆者は健康な人と比べると、免疫力や血液の数値が低いです。李さんはいくつもの病気が重なって発症しており、左の腎臓に腫瘍があり、慢性肝炎になっていて、すい臓の状態も悪いです」

李桂先さん(右端)が帰国直前に撮影した家族写真
娘の李桂先さんと会うために、広島で暮らす母親の許必年(ホ・ピルニョン)さんは十数回にわたって訪朝。2004年に会った際、次第に悪くなっていく娘の健康状態を見て重大な決心をした。親子で被爆していることを伝えたのである。
母親はそれまで、娘の結婚とそれからの生活を心配し、李桂先さんも被爆していることを59年間も隠し続けていたのだ。
許さんは被爆者健康手帳を取得しており、その際に作成した書類には8月18日に娘を連れて広島市内へ入ったことが記載されていた。広島の場合、8月20日までに爆心地から約2キロメートル以内に入った人を「入市被爆者」として手帳の交付対象としている。

李桂先さんの名前が記載された書類(一部加工)
つまり李桂先さんは、手帳交付の条件を満たしているのである。私が2006年に会った時に李さんは「広島で被爆した証明として手帳が欲しい」と語った。それは、自らの健康を大きく蝕み、今もさまざまな病で苦しんでいる原因が広島での被爆であることを日本政府に認めさせるためだった。
■待っていた「悲しい結末」
被爆者健康手帳の取得のためには日本で手続きをする必要があったが、日本政府は北朝鮮への独自制裁により北朝鮮国民の入国を認めていない。ところが谷内正太郎外務次官は2007年10月、「現行法の下で人道的な観点から問題解決に向け何ができるか検討したい」と表明。翌月には日本政府は、李さんの入国を例外的に認めることになり、来日費用の負担を検討する考えまで示した。
李さんの来日は、早ければ2007年末までに実現するのではと思われていた。ところが11月下旬に北朝鮮政府は、「日本によって生み出されたわが国の被爆者問題の本質を紛らわす」として李さんの訪日を否定したのだ。つまり被爆者全体への補償を求める北朝鮮としては、李さん1人の手帳取得によってその原則的姿勢を曖昧にしたくなかったのだろう。
そして一方の日本政府は、李さんに同行する付き添い人の入国を認めなかった。体調がかなり悪い李さんが1人で日本まで来ることなど不可能であるため、事実上の入国拒否だった。李さんの願いは2つの国の思惑によって、実現寸前のところで叶わなかった。
母親への思いを語る李桂先さん(2009年4月11日撮影、動画より)
李さんは広島で、手帳取得とともに母親との再会を強く望んでいた。歳を取った母親が、娘に会うために訪朝することが出来なくなっていたからだ。日本の独自制裁によって「万景峰92号」の日本入港が禁止されてからは、高齢者の訪朝が極めて困難になった。
私は行き来が出来なくなった親子を取材し、撮影した映像を見てもらうために平壌と広島へ通った。そしてその一部始終を、ドキュメンタリー映画にすることにした。
この映画の最後には、李さんの母親への思いを入れることにした。涙を流しながらのビデオレターは、途切れることなく9分も続いた。その場面を2009年4月12日に収録。私が21日に帰国してみると、母親は17日に亡くなっていたのである。
私はすぐに広島へ向かった。映画『ヒロシマ・ピョンヤン』は、悲しい結末で終わることになった。
被爆者健康手帳の取得を望むどの国の被爆者も、被爆から78年経った今、自らの被爆の証人・証拠を探すことは困難になっている。ましてや、日本政府の独自制裁によって日本への渡航が出来ない在朝被爆者は不可能に近い。

在朝被爆者たち
ただ李桂先さんなど、日本にいる肉親が手帳を持っている場合は交付条件を満たしている可能性が高い。また北朝鮮への帰国の際に、手帳を返納や破棄した人への再発行は容易だ。つまり、手帳交付の可能性が高いある程度の人数の在朝被爆者がいるのだ。
現在、朝鮮被爆者協会は被爆者健康手帳の取得という形での日本政府による援護に否定的である。手帳を取得して手当を受ける被爆者とそれができない人とで、大きな格差が生じてしまうからだ。
だが協会がそうした姿勢であっても、日本政府が在朝被爆者だけを「被爆者援護法」の適用対象から除外しても良いということにはならない。在朝被爆者たちは、病に苦しみながら次々と亡くなっている。日本政府が「被爆者援護法」を適用せず放置を続けているのは明らかな差別であり、それは怠慢というより犯罪である。
■被爆者への医療支援を
北朝鮮は現在も、新型コロナウイルスへの防疫措置として外国からの入国を禁止している。私は、高齢で健康状態の悪い朴文淑さんと李桂先さんの今の状況を朝鮮被爆者協会へ問い合わせたところ、7月20日に「2人ともに無事」との返事があった。
私が朴文淑さんと会ったのは11回。会うたびに健康状態が悪くなり、ひどい不整脈のために心臓を押さえながら話をしてくれた時もある。娘の死によって、さらに心臓の具合が悪くなったという。

苦しみながら亡くなった李福順さん(1998年5月19日撮影)
「(植民地時代に)日本へ行かされた上に被爆させられた恨みを晴らしてくれ、と私に言い残して被爆者たちは亡くなっていきました。生き残った者は、病気との闘いの人生です。切実なのは医療です。
被爆2世への遺伝的影響は解明されていないと日本の医師から聞きましたが、現実的には肝臓や血液などの病気で亡くなる人が多いのです。私の娘も肝硬変で死亡しました。被爆した時に私が死んでいたら、自分や子どもたちの苦しみはなかったのではとさえ思ってしまいます」
この朴さんの言葉からは、在朝被爆者が置かれた深刻な医療状況と、救済されない被爆者としての絶望感がひしひしと伝わってくる。
岸田文雄首相は5月27日以降、北朝鮮と「私直轄のハイレベルで協議を行なう」と繰り返し表明。北朝鮮側も外務次官が「会えない理由はない」と応じた。日朝首脳会談の憶測も飛び交っている。
朝鮮被爆者協会は日本政府に、協会が被爆者として認めたすべての人を対象とした医療支援を求めているという。多くの難問を抱える日朝関係において、在朝被爆者への人道的な医療支援は実現しやすいのではないか。
(引用以外の写真は筆者撮影)
◆
[前編] 北朝鮮の知られざる「広島・長崎の被爆者」たちが“自国の核開発”を認めざるを得ない悲しいジレンマ
■さらに進んだ核・ミサイル開発
7月27日は、朝鮮戦争休戦協定の締結70年周年だった。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では「戦勝記念日」としている。
この記念行事への参加のため、中国全人代の李鴻忠副委員長とロシアのセルゲイ・ショイグ国防相が訪朝。金正恩(キム・ジョンウン)総書記と共に参観した夜間の軍事パレードには、固体燃料式の大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星(ファソン)18」が登場した。

軍事パレードの「火星18」(「朝鮮中央通信」2023年7月28日)
この最新のICBMは7月12日に2回目の発射実験が行なわれ、最高高度6648.4キロまで上昇、距離1001.2キロを74分51秒間飛行して目標水域に正確に着弾したとする。4月13日に打ち上げられた「火星18」と比較すると、さらに性能が向上している。
北朝鮮が国力を集中して弾道ミサイルを開発する理由は、米国全土に複数の小型核弾頭を打ち込む能力を得るためだ。そのことは、米国からの軍事攻撃を防ぐ最大の防御だという。「ストックホルム国際平和研究所」の2023年6月発表の報告書では、北朝鮮の核兵器数は前年から5発増えた30発と推定している。
世界で核兵器を保有しているのは9ヵ国。「核拡散防止条約(NPT)」によって核保有が認められているロシア・米国・英国・フランス・中国。そしてインド・パキスタン・イスラエルはNPTに加わらず、北朝鮮は2003年に脱退。国際社会は現在、インド・パキスタン・イスラエルの核を、なし崩し的に “容認”している。

金正恩総書記と核弾頭(「朝鮮中央通信」2023年3月28日)
北朝鮮が多数の核兵器を保有しているのは、間違いない事実である。米国とその同盟国である日本・韓国は北朝鮮の核保有を認めず、北朝鮮の「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」にこだわり続けている。そのことが、北朝鮮の「核・ミサイル問題」が進展しない理由になっている。
その北朝鮮には、広島・長崎で被爆した人たちが暮らす。私の北朝鮮取材43回のうち被爆者と会ったのは14回で、20人から話を聞いている。6回の核実験と、ICBM「火星18」などの弾道ミサイルの発射実験を次々と行なっている北朝鮮。そうした状況の中で北朝鮮にいる被爆者(在朝被爆者)たちは今、何を思っているのだろうか。
■外国人の被爆者たち
米国が、広島と長崎に原子爆弾を投下してから今年で78年。わずか2発の爆弾によって数十万人が被爆。広島市と長崎市が1976年に国連へ提出した資料で、1945年12月までの原爆による死者数を、広島市は約14万人、長崎市は約7万人としている。
これらの原爆によって、日本人だけでなく多くの国の人たちも被爆した。米国やカナダの日系人被爆者は、アジア太平洋戦争が始まる前に日本へ里帰りしていて被爆。ブラジル・ペルー・ボリビアで暮らす日本人被爆者は、戦後に移住した人だ。それ以外には、中国・台湾や東南アジア諸国からの留学生、オランダ・英国・米国などの連合国軍捕虜もいる。

長崎にあった三菱徴用工の「木鉢寮」(1984年11月1日撮影)
もっとも人数が多かったのが朝鮮人で、日本による過酷な朝鮮植民地支配で生活できなくなって日本へ渡ってきたり、徴用や徴兵されて自らの意思に反して広島・長崎にいた人である。
朝鮮人被爆者の数は、広島での被爆者約42万人のうちの約5万人、長崎での約27万人のうちの約2万人にもなる。そのうち死亡した朝鮮人は、広島が約3万人、長崎が約1万人だという。

広島の韓国人原爆犠牲者慰霊祭(2009年8月5日撮影)
日本による朝鮮植民地支配がなければ、これほど多くの朝鮮人が被爆して死亡することはなかった。日本人にとってこの被爆は、米国から受けた「被害」である。だが、被爆した朝鮮人にとってはその意味はまったく異なる。
生き残った朝鮮人で帰国したのは、広島からが約1万5000人、長崎からは約8000人。そして戻った先は、朝鮮半島の南側へは約2万人、北側へは約3000人と推測されている。
私は1985年から、韓国で被爆者の取材を始めた。この取材は韓国にとどまらず、1998年からは北朝鮮で暮らす被爆者にも会いに行くようになった。
■まだ息がある人も火葬に
平壌(ピョンヤン)市だけでなく、地方都市にも被爆者たちは暮らしてきた。在朝被爆者は1959年12月から始まった在日朝鮮人の帰国事業で渡った人ばかりなので、帰国者が多く暮らす場所には被爆者も多い。

金満玉さん(2015年8月5日撮影)
平壌市から南西に約50キロメートルの、港湾都市・南浦(ナムポ)市。ここにも被爆者たちがいる。金満玉(キム・マンオク)さんは1944年12月生まれ。広島で被爆した時の様子は、両親から後に聞かされた。私の質問に、流暢な日本語で答えた。

8時15分に撮影した広島の原爆ドーム(2008年7月29日撮影)
「原爆が投下された時、広島の古市にあった親戚の家に一家で居候をしていました。8月6日、真っ黒なきのこ雲が湧き上がるのを見た母は、私を背負って山へ逃げました。そこで油の塊のような大きな灰を浴びたそうです。
動員された父は、大きな寺へ運ばれて来るたくさんの死体の火葬をしました。死体といっても、まだ息がある人もいたとのことです。そして母も、私を負ぶったままで負傷者の看護や包帯の洗濯をしました」
金さん親子は、こうして被爆してしまった。1960年に、朝鮮総聯の活動家だった父親だけを残して一家は帰国。父親の帰国は、10年以上経ってから。その際に「無償治療を受けられる祖国では必要ない」と考えて、取得していた「被爆者健康手帳」を捨ててしまった。
■在外被爆者たちの闘い
米国は広島・長崎への原爆投下によって、人類の歴史において未曾有といえる民間人への無差別大量殺戮を行なった。その米国に対し日本政府は、被爆者に代わって謝罪と賠償を要求するべきだった。ところが1951年の「サンフランシスコ講和条約」で、連合国に対する請求権を放棄してしまったのである。
その結果、日本政府は広島・長崎で被爆したすべての人々に対し、補償と援護を実施する責務を負うことになった。しかし実際には日本政府は、被爆者への補償は拒否し、援護措置だけを実施している。
1994年12月に制定された「被爆者援護法」によって、現在では在日コリアンを含む日本にいる被爆者は、「被爆者健康手帳(以下、手帳)」を取得すれば健康管理手当などを受給でき、医療費も支給される。その対象者は、韓国1988人・米国611人・ブラジル84人・カナダ28人・台湾11人・その他63人の2785人(厚生労働省、2021年3月現在)。死亡する被爆者が増えるのに伴い、この人数も減少している。
こうした外国で暮らす被爆者(在外被爆者)たちへの「被爆者援護法」の適用は、日本政府が自発的に行なったのではない。1967年7月、韓国の被爆者たちは「韓国原爆被害者援護協会」(1971年に韓国原爆被害者協会)を結成し、米国と日本に補償を求めて運動を開始した。

韓国原爆被害者協会を訪れた日本の調査団(1985年3月17日撮影)
私は1985年に、被爆者取材のために初めて韓国へ行った。被爆者たちは、軍事政権下のさまざまな制約の中で積極的に活動をしていた。だが日本政府は補償には応じず、1990年5月の日韓首脳会談において、補償に代わる措置として医療支援基金40億円の支払いを決めた。しかしこれは、日本における被爆者援護と比べあまりにも少ない金額だった。
韓国の被爆者たちは日本政府に、日本の被爆者が受けているのと同じ援護を求めるようになる。韓国を中心として北米・南米の日系人被爆者も加わり、在外被爆者への被爆者援護法の全面適用を求める裁判を次々と起こした。それらは、ことごとく勝訴したのである。
その結果、手帳を取得すればどの国で暮らしていても、日本の被爆者と同じ援護が受けられるようになった。在外被爆者は日本の被爆者と同じ援護を、長年にわたる闘いによってようやく獲得したのである。こうした援護措置は、被爆による後遺症で苦しむ被爆者には大きな助けとなっている。
私は長年にわたり、在日コリアンと韓国人の被爆者取材をしてきた。日本政府による在外被爆者への援護措置が次第に進んでいくのを見ていて、在朝被爆者との格差が広がっていくことが気になり始めた。在朝被爆者だけが、日本政府からの補償や援護などをまったく受けていない“棄てられた被爆者 “になってしまったからである。
■見つけ出された在朝被爆者
北朝鮮の被爆者が韓国の被爆者と大きく異なるのは、1959年12月から始まった北朝鮮への帰国事業による帰国者であることだ。
今も酷い呼吸障害で苦しむ沙里院(サリウォン)市の鄭君淑(チョン・グンスク)さんのように、北朝鮮での無償治療を受けるのを目的に帰国した人もいる。この頃の、在日コリアンの生活保護受給者は約8万1000人。日本で医療を受けたり進学ができないため、帰国を望んだ人も多い。

鄭君淑さん(2011年11月1日撮影)
ところが北朝鮮政府は、自国に被爆者がいることを長らく認めてこなかった。その存在が明らかになり組織化されるようになったのは「在日本朝鮮人被爆者連絡協議会」の会長だった李実根(リ・シルグン)さんの奮闘の結果だった。
自らも広島で被爆した李さんは北朝鮮への帰国事業の際、帰国者たちを広島から乗船港である新潟へ送り届ける仕事をした。そのため、帰国者の中に多くの被爆者がいることを知っていたのだ。

金容淳書記に調査依頼をする李実根さん(『PRIDE共生への道』李実根)
1989年に訪朝した李さんは、10人の被爆者を探し出す。1992年6月には1万枚の被爆者調査用紙を持参し、朝鮮労働党の金容淳(キム・ヨンスン)書記に調査の実施を直談判した。それによって北朝鮮で初の被爆者実態調査が行なわれ、1995年2月には「反核平和のための朝鮮被爆者協会」が結成された。そして協会は会員に、独自の被爆者手帳を発行した。
■深刻な在朝被爆者の健康状態
現在、在朝被爆者で「被爆者健康手帳」を持っていることを明らかにしているのは、朴文淑(パク・ムンスク)さんだけ。2歳の時に長崎市で被爆している。北朝鮮の被爆者代表として参加した1992年の「原水爆禁止世界大会」の際に長崎県で取得した。

被爆者健康手帳を持つ朴文淑さん(1998年6月1日撮影)
私は1998年から、「反核平和のための朝鮮被爆者協会」の副会長である朴さんから、たびたび話を聞いてきた。最初に会った頃は「わが国は核兵器を造る意思も能力もない」と、政府と同じ主張をしていた。
ところが2006年10月、北朝鮮は初の核実験を実施。それについての考えを聞くと「米国の脅威があるために仕方がない」と答えたのである。被爆者であっても、自国が置かれている状況からすれば核武装は必要というのである。その時の朴さんは、苦渋の表情をしていた。そして協会名からは「反核平和のための」という文字が消えた。

在朝被爆者の調査報告書
北朝鮮は、被爆者実態調査を何度か実施している。「朝鮮被爆者協会」は、「住所案内所」「各級人民委員会」、被爆者治療と健康診断を実施している「医学科学院放射線医学研究所」などと連携して調査を実施。
2007年末の発表では、被爆者1911人を確認したものの1529人がすでに死亡しており、健在な人は382人であることが判明した。2018年の調査では、健在な人は60人しかいなかった。急速に亡くなっているのだ。
[後編] 北朝鮮に暮らす「棄てられた被爆者」たちの絶望感…日本政府が「被爆者援護法」を適用せず放置し続けるのはなぜか
■拉致問題で止まった日本政府の動き
在朝被爆者に関する日本政府の動きは、極めて少ない。1990年から、「原水爆禁止世界大会」への参加のために在朝被爆者が入国することを許可。2000年3月には小渕恵三首相が、来日した「朝鮮被爆者実務代表団」と会っている。
その際、「今世紀に起きたことは今世紀中に片をつけたい」として、在朝被爆者問題の早期解決の必要を認めた。この時、被爆者治療に当たっている北朝鮮の医師が「広島赤十字・原爆病院」などで研修を受けた。韓国の被爆者へ実施したのと同じように、被爆者を日本へ招いての検査・治療や、北朝鮮の医師への被爆者治療の教育を日本で行なうことなどを検討していたようだ。
2001年3月には、外務省・厚生労働省による日本政府調査団が平壌へ派遣された。被爆者協会への登録者数が1353人(2000年末現在)で、そのうち健在な人が928人であることを確認。日本政府はこの結果を踏まえ、在朝被爆者の実態把握後に援護内容を検討することになった。
そして2003年10月、在朝被爆者への対応について問われた坂口力厚生労働大臣は「被爆者の問題は国と国との問題ではなく、日本と被爆者の問題。したがってそこに差はない」と衆議院厚生労働委員会で答弁。国交がなくても、在朝被爆者への援護が実施可能であることを明らかにした。在朝被爆者に対する日本政府の対応は、確実に進んでいった。

平壌の市街地(2017年8月5日撮影)
「日本弁護士連合会」は2002年6月に調査団を平壌へ派遣し、「在朝被爆者に関する調査報告」を発表。そして2005年7月には「在外被爆者問題に関する意見書」を日本政府へ提出した。その中に次のような提言がある。
「朝鮮民主主義人民共和国在住の被爆者については、担当者を派遣し、在外被爆者の援護施策に関する情報を提供したり、被爆者との面談を行うことなどを通じて、被爆者健康手帳の交付や健康管理手当等の支給などの申請が現実に可能となるようにすべきである。被爆者の治療に必要な専門の医療施設が十分に整備されていない朝鮮民主主義人民共和国などの国については、専門の治療施設の設置のための支援についても検討すべきである」
このように、在朝被爆者についての社会的関心と問題を前進させようという機運が高まっていった。ところが、である。2002年9月の日朝首脳会談で明らかになった日本人拉致などによって、日朝関係は次第に悪化。2006年10月には、日本政府は北朝鮮への独自制裁を開始した。これによって、日本政府の在朝被爆者に対する動きに大きなブレーキがかかった。
筆者がインタビューした在朝被爆者の中には、「日本には何の期待もしていない」と言う人が多かった。日本からの外務省・厚生労働省調査団や多くの民間団体に対して、数え切れないほどの働きかけをしたにもかかわらず、何も変わらなかったという失望感が強いからだという。
■「被爆した証が欲しい」
平壌で暮す李桂先(リ・ゲソン)さんは、1941年9月に広島で生まれた。両親は民族教育に熱心で、李さんは小学校から高校まで朝鮮学校に通った。そして1958年に始まった北朝鮮への帰国を求める運動に、李さんも参加した。
「祖国で勉強し、少しでも祖国の建設の力になるよう、お父さんの代わりに行ってくれ」
父親からこのように言われた李さんは、家族の中でただ1人、1960年7月の帰国船に乗った。その時は誰もが、日朝間の自由な往来がすぐにでも実現すると思っていたからだ。
この李桂先さんと、私が初めて会ったのは2006年3月。まず、彼女の両手の指ごとに巻かれた包帯が目についた。「どういうわけか指の皮がしょっちゅう剥がれ、薬を塗って包帯しないと血がにじむんです」と語った。皮が剥ける前には、頭髪が抜けて坊主頭のようになったという。

指に包帯をした李桂先さん(2010年5月9日撮影)
北朝鮮では地域ごとに担当医がおり、各家庭を巡回している。李さんはその医師から病院へ行くように勧められているという。しかし、「検査すると新しい病気が見つかるので、怖くて病院へ行きたくないんです」と李さんは言う。

朝鮮被爆者協会の手帳を持つ朴文淑さん(2009年10月9日撮影、一部加工)
北朝鮮では医療費は「無償」になっている。しかし医薬品は慢性的に不足し、医療機器は老朽化している。そうした中で朝鮮被爆者協会発行の手帳があれば、被爆者は医療機関で優先的に治療を受けることができるという。これは、被爆者にとっては大きな意味があるようだ。
2009年4月、李さんに同行し「放射線医学研究所」へ行った。ここで広島・長崎の被爆者への治療も行なっている。李さんを診察した後、被爆者担当のチョ・ウォンエ医師は次のように語った。

検査を受ける李桂先さん(2009年4月17日撮影、動画より、一部加工)
「被爆者は健康な人と比べると、免疫力や血液の数値が低いです。李さんはいくつもの病気が重なって発症しており、左の腎臓に腫瘍があり、慢性肝炎になっていて、すい臓の状態も悪いです」

李桂先さん(右端)が帰国直前に撮影した家族写真
娘の李桂先さんと会うために、広島で暮らす母親の許必年(ホ・ピルニョン)さんは十数回にわたって訪朝。2004年に会った際、次第に悪くなっていく娘の健康状態を見て重大な決心をした。親子で被爆していることを伝えたのである。
母親はそれまで、娘の結婚とそれからの生活を心配し、李桂先さんも被爆していることを59年間も隠し続けていたのだ。
許さんは被爆者健康手帳を取得しており、その際に作成した書類には8月18日に娘を連れて広島市内へ入ったことが記載されていた。広島の場合、8月20日までに爆心地から約2キロメートル以内に入った人を「入市被爆者」として手帳の交付対象としている。

李桂先さんの名前が記載された書類(一部加工)
つまり李桂先さんは、手帳交付の条件を満たしているのである。私が2006年に会った時に李さんは「広島で被爆した証明として手帳が欲しい」と語った。それは、自らの健康を大きく蝕み、今もさまざまな病で苦しんでいる原因が広島での被爆であることを日本政府に認めさせるためだった。
■待っていた「悲しい結末」
被爆者健康手帳の取得のためには日本で手続きをする必要があったが、日本政府は北朝鮮への独自制裁により北朝鮮国民の入国を認めていない。ところが谷内正太郎外務次官は2007年10月、「現行法の下で人道的な観点から問題解決に向け何ができるか検討したい」と表明。翌月には日本政府は、李さんの入国を例外的に認めることになり、来日費用の負担を検討する考えまで示した。
李さんの来日は、早ければ2007年末までに実現するのではと思われていた。ところが11月下旬に北朝鮮政府は、「日本によって生み出されたわが国の被爆者問題の本質を紛らわす」として李さんの訪日を否定したのだ。つまり被爆者全体への補償を求める北朝鮮としては、李さん1人の手帳取得によってその原則的姿勢を曖昧にしたくなかったのだろう。
そして一方の日本政府は、李さんに同行する付き添い人の入国を認めなかった。体調がかなり悪い李さんが1人で日本まで来ることなど不可能であるため、事実上の入国拒否だった。李さんの願いは2つの国の思惑によって、実現寸前のところで叶わなかった。
母親への思いを語る李桂先さん(2009年4月11日撮影、動画より)
李さんは広島で、手帳取得とともに母親との再会を強く望んでいた。歳を取った母親が、娘に会うために訪朝することが出来なくなっていたからだ。日本の独自制裁によって「万景峰92号」の日本入港が禁止されてからは、高齢者の訪朝が極めて困難になった。
私は行き来が出来なくなった親子を取材し、撮影した映像を見てもらうために平壌と広島へ通った。そしてその一部始終を、ドキュメンタリー映画にすることにした。
この映画の最後には、李さんの母親への思いを入れることにした。涙を流しながらのビデオレターは、途切れることなく9分も続いた。その場面を2009年4月12日に収録。私が21日に帰国してみると、母親は17日に亡くなっていたのである。
私はすぐに広島へ向かった。映画『ヒロシマ・ピョンヤン』は、悲しい結末で終わることになった。
被爆者健康手帳の取得を望むどの国の被爆者も、被爆から78年経った今、自らの被爆の証人・証拠を探すことは困難になっている。ましてや、日本政府の独自制裁によって日本への渡航が出来ない在朝被爆者は不可能に近い。

在朝被爆者たち
ただ李桂先さんなど、日本にいる肉親が手帳を持っている場合は交付条件を満たしている可能性が高い。また北朝鮮への帰国の際に、手帳を返納や破棄した人への再発行は容易だ。つまり、手帳交付の可能性が高いある程度の人数の在朝被爆者がいるのだ。
現在、朝鮮被爆者協会は被爆者健康手帳の取得という形での日本政府による援護に否定的である。手帳を取得して手当を受ける被爆者とそれができない人とで、大きな格差が生じてしまうからだ。
だが協会がそうした姿勢であっても、日本政府が在朝被爆者だけを「被爆者援護法」の適用対象から除外しても良いということにはならない。在朝被爆者たちは、病に苦しみながら次々と亡くなっている。日本政府が「被爆者援護法」を適用せず放置を続けているのは明らかな差別であり、それは怠慢というより犯罪である。
■被爆者への医療支援を
北朝鮮は現在も、新型コロナウイルスへの防疫措置として外国からの入国を禁止している。私は、高齢で健康状態の悪い朴文淑さんと李桂先さんの今の状況を朝鮮被爆者協会へ問い合わせたところ、7月20日に「2人ともに無事」との返事があった。
私が朴文淑さんと会ったのは11回。会うたびに健康状態が悪くなり、ひどい不整脈のために心臓を押さえながら話をしてくれた時もある。娘の死によって、さらに心臓の具合が悪くなったという。

苦しみながら亡くなった李福順さん(1998年5月19日撮影)
「(植民地時代に)日本へ行かされた上に被爆させられた恨みを晴らしてくれ、と私に言い残して被爆者たちは亡くなっていきました。生き残った者は、病気との闘いの人生です。切実なのは医療です。
被爆2世への遺伝的影響は解明されていないと日本の医師から聞きましたが、現実的には肝臓や血液などの病気で亡くなる人が多いのです。私の娘も肝硬変で死亡しました。被爆した時に私が死んでいたら、自分や子どもたちの苦しみはなかったのではとさえ思ってしまいます」
この朴さんの言葉からは、在朝被爆者が置かれた深刻な医療状況と、救済されない被爆者としての絶望感がひしひしと伝わってくる。
岸田文雄首相は5月27日以降、北朝鮮と「私直轄のハイレベルで協議を行なう」と繰り返し表明。北朝鮮側も外務次官が「会えない理由はない」と応じた。日朝首脳会談の憶測も飛び交っている。
朝鮮被爆者協会は日本政府に、協会が被爆者として認めたすべての人を対象とした医療支援を求めているという。多くの難問を抱える日朝関係において、在朝被爆者への人道的な医療支援は実現しやすいのではないか。
(引用以外の写真は筆者撮影)
朝鮮についての「硬」と「軟」の講演をします
東京で、まったく異なる内容の二つの講演をします。また、開催中の私の写真展「平壌の人びと」での、ギャラリートークも行ないます。
6月30日(金) 13時・15時 / 7月2日(日) 13時
写真展「平壌の人びと」でのギャラリートーク
高麗博物館(東京都新宿区大久保1-12-1 第二韓国広場ビル7階)
参加費900円(入館料含)、申し込み:03-5257-3510
現在は後期の展示になっていますので、6月7日以前のギャラリートークの内容とは異なります。
6月30日(金) 19時
講演会「北朝鮮の核・ミサイル開発と米国 ~南北分断・朝鮮戦争から現代まで」
スペースたんぽぽ(千代田区神田三崎町3-1-1 高橋セーフビル1階)
参加費800円、予約制:03-3238-9035
7月1日(土) 14時
「朝鮮観光ファンミーティング」講演会
北とぴあ第1研修室(東京都北区王子1-11-1)
参加費1000円、申込み:chosunkankou@gmail.com

6月30日の「スペースたんぽぽ」での講演会では、朝鮮が多大な犠牲を払いながらも核・ミサイル開発をせざるを得ない理由について、歴史的な経緯と私の朝鮮取材に基づいて解説します。私が撮影した多数の写真もお見せします。
[講演内容と上映写真の一部]
● 米国の朝鮮干渉の始まり(写真:シャーマン号事件記念碑)
● 38度線は誰がどのように決めたのか(写真:非武装地帯)
● 朝鮮戦争は誰が始めたのか(写真:軍事境界線の人民軍監視所)
● 米軍占領下の信川での大量住民虐殺(写真:虐殺現場と改築された博物館)
● 米軍が使用した細菌爆弾(写真:投下現場・保管されている爆弾と細菌)
● 米国が核兵器使用を計画したプエブロ号事件(写真:船体と内部)
● なぜ核・ミサイル開発をするのか(写真:軍事パレードの弾道ミサイル)
● 弾道ミサイルと異なる人工衛星ロケット開発の理由(写真:衛星管制指揮所)
この講演が「硬」ならば、7月1日の「朝鮮観光ファンミーティング」での話は「軟」です。1回の朝鮮取材で約5000枚の写真を撮っているものの、仕事で使用する写真はごくわずかです。ほとんどが眠っていたのですが、コロナ禍で取材に行くことが出来ない間にそれを掘り起こしました。その中から未発表のものを中心に、“おもしろい写真”100枚以上を上映しながら、約2時間かけて解説します。30日と1日の講演会の話と写真は、ほとんど重なりません。ぜひとも両方へお越しください。
6月30日(金) 13時・15時 / 7月2日(日) 13時
写真展「平壌の人びと」でのギャラリートーク
高麗博物館(東京都新宿区大久保1-12-1 第二韓国広場ビル7階)
参加費900円(入館料含)、申し込み:03-5257-3510
現在は後期の展示になっていますので、6月7日以前のギャラリートークの内容とは異なります。
6月30日(金) 19時
講演会「北朝鮮の核・ミサイル開発と米国 ~南北分断・朝鮮戦争から現代まで」
スペースたんぽぽ(千代田区神田三崎町3-1-1 高橋セーフビル1階)
参加費800円、予約制:03-3238-9035
7月1日(土) 14時
「朝鮮観光ファンミーティング」講演会
北とぴあ第1研修室(東京都北区王子1-11-1)
参加費1000円、申込み:chosunkankou@gmail.com

6月30日の「スペースたんぽぽ」での講演会では、朝鮮が多大な犠牲を払いながらも核・ミサイル開発をせざるを得ない理由について、歴史的な経緯と私の朝鮮取材に基づいて解説します。私が撮影した多数の写真もお見せします。
[講演内容と上映写真の一部]
● 米国の朝鮮干渉の始まり(写真:シャーマン号事件記念碑)
● 38度線は誰がどのように決めたのか(写真:非武装地帯)
● 朝鮮戦争は誰が始めたのか(写真:軍事境界線の人民軍監視所)
● 米軍占領下の信川での大量住民虐殺(写真:虐殺現場と改築された博物館)
● 米軍が使用した細菌爆弾(写真:投下現場・保管されている爆弾と細菌)
● 米国が核兵器使用を計画したプエブロ号事件(写真:船体と内部)
● なぜ核・ミサイル開発をするのか(写真:軍事パレードの弾道ミサイル)
● 弾道ミサイルと異なる人工衛星ロケット開発の理由(写真:衛星管制指揮所)
この講演が「硬」ならば、7月1日の「朝鮮観光ファンミーティング」での話は「軟」です。1回の朝鮮取材で約5000枚の写真を撮っているものの、仕事で使用する写真はごくわずかです。ほとんどが眠っていたのですが、コロナ禍で取材に行くことが出来ない間にそれを掘り起こしました。その中から未発表のものを中心に、“おもしろい写真”100枚以上を上映しながら、約2時間かけて解説します。30日と1日の講演会の話と写真は、ほとんど重なりません。ぜひとも両方へお越しください。
人工衛星打ち上げ「朝鮮✕・韓国○」の矛盾
朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は5月29日、「人工衛星」運搬ロケットを31日から6月11日の間に打ち上げることを「国際海事機関(IMO)」に通告した。30日には、朝鮮労働党中央軍事委員会のリ・ビョンチョル副委員長が、軍事偵察衛星を6月に入ってまもなく打ち上げると表明した。

「科学技術殿堂」のロケット模型(2016年6月1日撮影)
朝鮮の弾道ミサイル技術は大陸間弾道ミサイル(ICBM)を含め、繰り返し行われた発射実験によって完成していると思われる。そのため今回のロケット発射は、「人工衛星」を地球周回軌道に乗せるためなのは明らかだ。詳しくは『現代ビジネス』に執筆した「北朝鮮『偵察用人工衛星』打ち上げ間近…! 弾道ミサイルと異なる衛星運搬ロケット発射の意図とは」参照。
現代ビジネス
朝鮮の打ち上げ表明に対し日本政府は「『人工衛星』と称する弾道ミサイルの発射」と決めつけ、浜田靖一防衛相はミサイル迎撃を命じる「破壊措置命令」を出した。ロケットが打ち上げられたならば有無を言わさず撃墜するかのようにしか捉えられないが、日本に被害が出そうな落下物を破壊しようというものだ。完全にミスリードさせようとしている。
韓国は5月25日に、人工衛星運搬ロケット「ヌリ号」を、韓国南部の全羅南道(チョンラナムド)高興(コフン)の「羅老(ナロ)宇宙センター」から打ち上げた。打ち上げ方向は南南東で、日本の上空を通過した。朝鮮半島から人工衛星を打ち上げる場合、朝鮮であれ韓国であれ日本の上を通らざるを得ない。
韓国のロケットの重量は約200トンで、朝鮮の約90トンよりはるかに重量がある。2021年10月の打ち上げでは、軌道投入に失敗している。ところが日本政府は、韓国のロケットに対しては「破壊措置命令」や「Jアラート」を出していないのだ。
このように日本政府は朝鮮と韓国とでは、同じ人工衛星運搬ロケットの打ち上げに対してまったく異なる対応を取っている。その理由は、朝鮮は「敵」、韓国は「味方」ということなのは明確だ。
岸田文雄首相は5月27日、朝鮮と「私直轄のハイレベルで協議を行なう」と表明。しかし、それが本気でないことがこの朝鮮のロケット発射への異常な対応からも明らかだ。
そしてメディアが、政府のこうした対応を無批判に報じているのは深刻だ。朝鮮に関するいかなることも、批判的なスタンスでないと報道しないという姿勢を続けている。

「科学技術殿堂」のロケット模型(2016年6月1日撮影)
朝鮮の弾道ミサイル技術は大陸間弾道ミサイル(ICBM)を含め、繰り返し行われた発射実験によって完成していると思われる。そのため今回のロケット発射は、「人工衛星」を地球周回軌道に乗せるためなのは明らかだ。詳しくは『現代ビジネス』に執筆した「北朝鮮『偵察用人工衛星』打ち上げ間近…! 弾道ミサイルと異なる衛星運搬ロケット発射の意図とは」参照。
現代ビジネス
朝鮮の打ち上げ表明に対し日本政府は「『人工衛星』と称する弾道ミサイルの発射」と決めつけ、浜田靖一防衛相はミサイル迎撃を命じる「破壊措置命令」を出した。ロケットが打ち上げられたならば有無を言わさず撃墜するかのようにしか捉えられないが、日本に被害が出そうな落下物を破壊しようというものだ。完全にミスリードさせようとしている。
韓国は5月25日に、人工衛星運搬ロケット「ヌリ号」を、韓国南部の全羅南道(チョンラナムド)高興(コフン)の「羅老(ナロ)宇宙センター」から打ち上げた。打ち上げ方向は南南東で、日本の上空を通過した。朝鮮半島から人工衛星を打ち上げる場合、朝鮮であれ韓国であれ日本の上を通らざるを得ない。
韓国のロケットの重量は約200トンで、朝鮮の約90トンよりはるかに重量がある。2021年10月の打ち上げでは、軌道投入に失敗している。ところが日本政府は、韓国のロケットに対しては「破壊措置命令」や「Jアラート」を出していないのだ。
このように日本政府は朝鮮と韓国とでは、同じ人工衛星運搬ロケットの打ち上げに対してまったく異なる対応を取っている。その理由は、朝鮮は「敵」、韓国は「味方」ということなのは明確だ。
岸田文雄首相は5月27日、朝鮮と「私直轄のハイレベルで協議を行なう」と表明。しかし、それが本気でないことがこの朝鮮のロケット発射への異常な対応からも明らかだ。
そしてメディアが、政府のこうした対応を無批判に報じているのは深刻だ。朝鮮に関するいかなることも、批判的なスタンスでないと報道しないという姿勢を続けている。